双廻
水鳴諒
第1話
『この愛を受けたるの不幸の外に、この村に生れたるの不幸を重ぬるものと云ふべし』
***
帝都、東京。
元号は大正となり、次第に異国との戦禍の気配が近づいてきている。
東京帝国大学で精神医学を学んでいる俺は、現在私宅監置の資料を取り纏めている。
私宅監置とは、江戸頃まで遡る座敷牢といった風習を、法制度化したものであるというが、近代化を謳うこの国を思えば涙が出てしまうくらい劣悪なものだ。端的に言えば、精神病者――古い言葉で言えば瘋癲人などを、自宅で看るという制度である。
「確かに精神病院は足りないが……」
思わず俺は溜息を押し殺した。正面の窓の硝子に、俺の黒い髪と目が映り込んでいる。机の端に積んだ手紙の中に、俺は期待する差出人の名前が無い事を、頭から意識して締め出した。仕事に集中しなければ。そうだ、今考えるべき事は、私宅監置の現状だ。
「こんな環境は、とても『看る』とは言いがたい。ただの監禁だ」
俺は病者がこんな境遇に立たされる事を許容しがたいと感じる。だが内務卿お抱えの医学者連中は、民族優劣を唱えて推奨している始末だ。頭痛が酷くなる。それほどまでにこの国は、遅れている。これは決して不平等条約の改正で解消出来るような問題では無い。
「近代化の為に必要な事が戦争? 馬鹿げているな。住まう民の環境を整えるべきだ」
ブツブツと呟きながら、俺は改めて窓を見た。映る俺の向こうに、よく目をこらせば夜景が見える。豪奢な建物が並ぶ豊かな土地の帝都ですら、病床は足りない。それは俺の出身地である田舎ならば、尚更だ。
「……」
俺は、嫌な記憶を思い出してしまった。
あれは、十歳頃の事だっただろうか。想起しながら、俺はきつく瞼を閉じた。
「お父さん、あそこは何?」
俺が尋ねると、小学校の教員をしていた父の体が一瞬硬直した。その腕に触れていた俺は、首を捻るしかない。
――お寺の隣の林の奥。
そこは予てより『足を踏み入れてはならない』と、繰り返し言われてきた場所だった。この日山菜採りの為に、その林道に入り込んだ俺は、父に聞いたのだったと思う。遠目に見えた小屋について。すると父の顔色が青褪めた。
「……座敷牢」
「え?」
「……いいか、廣埜。あそこには、何も無いんだ」
「?」
「行くぞ。見なかった事にするんだ。『呪われる』」
父はそう言うと、俺の手を引き、慌てたように引き返した。
しかし――俺は、好奇心が旺盛な子供だった。だから翌日には、一人で木々の間を抜け、昨日見た小屋を目指して歩いた。小さな背丈の俺は、時折上を見て、木の葉の合間から漏れてくる光を目にした。落ちている枯葉を踏む度に、湿った土の匂いがした事を強く記憶している。
到着後、小屋の扉に迷わず手をかけた俺は、当時から信心深くは無かった。迷信を信じる大人を馬鹿にしている子供だった。
「!」
けれどその中にいる者を見て、目を瞠ったのは間違いが無い。
そこには真っ白な髪と緋色の瞳をした青年がいた。白い着物を纏っていて、右側の首には、ガーゼと包帯が見える。人が居た事に驚いていると、彼が俺を見て小首を傾げた。
「――子供? ここに入ってはならないと、まだ教わっていないのかな……君は、入っても良いの? 名前は?」
「絢戸廣埜! 俺は迷信なんて怖くないからな」
俺が唇の両端を持ち上げると、その青年も微笑した。
「そう。僕はヒヨクと言うんだよ」
「ヒヨクはどこの家の人だ?」
この節巳村では、住人は皆が顔見知りだ。俺は初めて見る青年の姿に、不思議に思いながら曖昧に問う。
「僕の家は、ここだよ」
「家というのは、お父さんとお母さんがいるんだぞ? ほとんど、全員!」
「親、か……親はいないんだ。兄弟ならいるんだけどね。ただ切り離されてしまって」
それは、亡くなってしまったという事なのかと、尋ねようとして俺は止めた。辛い事を問うのは悪い気がしたからだ。
「僕を切り離したところで、蛇神の力を持つのは弟なのだから、無意味な事をするものだよ」
「蛇神?」
「廣埜。勇気があるのは誇らしい事だよ。だけどね、科学は全てを説明出来ない」
「?」
「そして困難や不可思議に遭遇してしまった時、逃げる事もまた勇気だ。何も恥じる事は無い。もし今度、蛇神に遭遇したら、次こそは逃げるようにね。廣埜、大切なものを守ってあげて」
「俺は、ヒヨクが何を言いたいのか、よく分からない……」
「いつか、分かる日が来る気がするんだ。きっと蛇神は、廣埜を気に入るように思う。それは執着ではなく紅の味に対してなのかもしれないけれど」
「ふぅん? その蛇神というのはどこにいるんだ?」
「今は分からない。けれどきっと、こういう感じの社じゃないのかな」
「社? このボロ小屋が?」
「生かしてもらえるだけでも、有難いと言うこともあるんだよ」
ヒヨクはそう口にすると、苦笑していた。まだ幼かった俺には、その意味が上手く咀嚼出来なかった。
「蛇神は狡猾だから、本当に執着していて欲しい存在を手に入れるためには嘯く事があると思うんだ。それはある種、愛に似ている。あるいは友情か。親友と思う相手が出来たならば、決して手放さないようにね」
こうしてその日は、少し話した後、別れて帰った。それ以後、俺は学校帰りに、時々ヒヨクに会いに行くようになった。今ならば分かる。ヒヨクは、『色素異常』で見た目を忌避されて、隔離・監禁されていたのだと。
ある日、いつもの通りにヒヨクの元に向かったら、既に小屋が無かった。
「お父さん、お寺の横の林の小屋は……?」
「……」
「お父さん! ヒヨクは?」
純粋に尋ねた俺の頬を、父が叩いた。バシンと音がして、右頬が熱と痛みを訴えた。
「誰もいなかった。座敷牢という存在は、そういうものなんだ」
「でも、ヒヨクが――」
「あれほど近づくなと言っただろうが!」
普段は温厚な父が、激昂していた。俺はそれ以上、何も言えなくなってしまった。
その後医大に進学し、私宅監置や座敷牢について知見を得て、俺は悟った。
――座敷牢は、家屋に常に付属して建設されるわけではなく、対象者が生まれた時初めて造られる。そして、その『対象者がいなくなったら、速やかに解体される』。
即ち、ヒヨクはもう生きてはいないのだ。ヒヨクが死んだから、あの小屋は解体され、無くなったに違いない。それが自然死故だったのか、俺と話していたから――考えたくも無いが、村人を惑わしたとして処罰・処刑されたからなのかは分からない。
兎角、以後俺は、ヒヨクとは二度と会う事が無かった。
これが、俺の座敷牢……転じて、私宅監置関連の最古の記憶だ。
ギリリと右の掌を握り、俺は唇を噛んだ。もう、あのような監禁行為を許容すべきでは無い。そして俺は中でも、最も監置例が多い、精神病者の処遇改善について研究している。
「人間だ、同じ。だから、生きる権利はあるはずなんだ」
そうだ、人間には生きる権利があるはずだ。人間ならば、誰にでも。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます