1_湖畔まちこ

①小さな科学者と惚れ薬

 西暦2023年4月12日(水)晴れ


 夕暮れ時、ひつじ雲が群れを成して広大な空を行進している。廊下の窓からそれを眺めながめていると、ついどこへ向かっているのか訊ねてみたくなる。毛皮やラム肉にされない場所であることを祈るばかりである。


 続いて私は目線を下げて生命なき羊から生命ある人間を観察し始めた。青春の香りで満たされている放課後は愉快だった。


 例えばだだっ広い校庭には砂埃すなぼこりを被りながら坊主頭の高校球児が足並みを揃えて走っている。友情努力勝利の香りがする。ついでに汗くさそうな香りもする。


 校門脇の花壇には花を慈しむ美化委員がいる。課せられた使命を全うしようという真面目な香りだ。


 駐輪場には自転車を押しながら並んで歩くカップルがいる。付き合いたての甘酸っぱい香りがする。見ているこっちまで胸がきゅんきゅんしてくる。


 放課後という自由な時間を有意義に過ごす彼らの香りは私の退屈を払拭してくれる。もちろん心躍るような至高な香りだけとはかぎらず、憎しみや悲しみ、他人を蹴落として蔑む不快な香りもする。そういう香りは胸がざわつくから嫌いだ。


 もしもその香りに色がついたらこの学校はカラフルで美しいゲーミングカラーになるだろう。チカチカして目が痛くなりそうだ。それほど多彩な香りもとい青春が校内に漂っている。


「うん、今日も楽しいことが起こりそうな予感がする♪」


 斜陽が差し込む廊下の夕陽と日陰の境界線を綱渡りする。突き出した足はもう片方の足のつま先へ。背筋を伸ばしてバランス感覚を保つ。コツはランウェイを歩くファッションモデルを意識することだ。


 新調したばかりの制服は今年度から材質とデザインが変更され、シンプルながらも可愛いらしく、それでいて遊び心のあるデザインとなっていた。


 スカートは灰色ベースで黒色の線が交差し、裾の部分には金色の太線で彩られている。学校指定のワイシャツは爽やかな水色、リボンは薔薇ばらのような真っ赤な色をしている。


「やっぱ可愛い!」


 横長い全身鏡の前でドレスに着替えたシンデレラみたいにくるりと回ってみる。やはり可愛い制服は正義である。それこそ制服というものは3年という期間限定の魔法のドレスのようだ。例外はあるけれども。


「ふんふんっふふっふ」


気分が良かったのであろう。無意識に漏れだした鼻歌に合わせて私はスキップをしていた。上履きのかかとを踏んでいるからペッタンパッタンとやかましい音が廊下に反響する。


 こうしてわざと大きな音を鳴らして校舎を散策すること三十分、生徒はおろか、教師すらもすれ違わない。職員室や部活棟に行けばそりゃあ誰かしらに会うことはできるだろうがそういうことじゃない。


 偶然に出会うからこそ嬉しさは倍増されるのだよ。誰かに会いたいな、と想いせながら私は軽い足取りで進んでいく。

 ペッタンパッタン、ペッタンパッタン。虚しくなってきたので私は上履きを履き直した。


「およ?」


 上級生のクラスがある三階までやってきたが、やはり誰もいない——と思いきやヒトの声が聴こえた。鳥のさえずりぐらい微音だが、たしかにそれはヒトの声だった。ヒトだ、近くにヒトがいる。


「およよ?」


 聞く耳を立てると女の子特有の高い声が聞こえた。余計にテンションが上がる。もしこれが野郎の声だったら嫌悪感まるだしの顔で唾を吐き捨ててやるつもりだ。男の娘だったら話は違うがな。とにかく行ってみるしかない。教室がA組からE組まで並んでいるなか、その声の発信元はC組の教室だった。


「そろりそろーりと。どうか女の子でありますように」


 そう言いつつも正直なところ男でもいい。もちろん男だったら唾は吐き捨ててやるが、そこに誰かがいる事実を観測できるだけで私は十分満たされる。どうやら誰にも会えなかったのが寂しかったようだ。


 誰かに会えると思うと自然と笑みがこぼれる。忍び足でその教室に近づき、ドアに手をかけてのぞき込める程度まで開いた。まずは観察からだ。


『ぎゃははマジ卍ぃ!』


 そこには校則の縛りから解放されたと錯覚した女子生徒らが化粧をして己の美を磨いていた。加齢臭のような香水の匂いが風に運ばれてくる。うげぇ。鼻がひん曲がりそうだ。


 校則では化粧も香水も禁止されている。もちろん放課後だからって許されるものではない。教師にバレてしまえば怒鳴られて化粧を落とすように強要されるだろうが、そのスリルも併せて楽しんでいるのだろう。

 

 ワイシャツのボタンも二つ目まで外していて谷間があらわになっている。スカートもだいぶ短い。その教室にたむろしているのは俗に言うギャルという者たちだった。


「……」


 私の笑みはスンッと消えていく。勘違いしないでもらいたいがギャルが嫌いというわけではない。彼女らの行いを否定したいわけでもない。これは個人的な好みの問題だ。化粧や香水、制服を着崩すのも私のなかでは許容範囲なのだが、どうしても彼女らの態度が目についてしまう。


 イスではなく学習机に腰かけて、足を組みながらタプタプとスマホをいじっている。縄張りに近寄るなと威嚇しているライオンみたいな仏頂面だ。口調もとげとげしい。笑い声も下品だ。ああいうタイプは萌えない。パンツが見えそうだったから少しのあいだ眺めていたけど見る気も失せる。


「あ、パンツ見えた」


 うさぴょんパンツだ。漫画やアニメで脚光を浴びた『ご予約はうさぴょんですか』のオンライン数量限定販売の純白のうさぴょんパンツだ。あれは巷で噂のオタクに優しいギャルってやつだ。家に帰ったら母親を『ママ』呼びするタイプだ。前言撤回。あれは萌える。


「人は見かけによらないってね」


 オタクに優しいギャルを拝み、私はそっとドアを閉めた。


 放課後は青春の香りに満たされている。その香りを楽しみながら校内を散策することこそが私の放課後の過ごし方だ。青春の香りは風に流れて私の歩みとともにゆく。そして新しい出会いに導いてくれる。


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