水死体と釣り人
摺駒ミツ(8)の趣味は、祖父と釣りを楽しむことである。のどかな田舎町の漁港の隅っこで呑気に釣り糸を垂らしながら祖父と益体も無い話をする時間も、ぼんやりと季節の空気を楽しむ時間も、そうしてたまに釣れる瞬間も好きであった。無論祖父のように沢山釣って帰って家の夕食にしたい気持ちもあるし、夜釣りに付いていきたい気持ちもある。ただミツは元来のんびりとした気質だったので、もう少し力がついてからにしよう、もう少し大きくなったら夜釣りに連れて行ってもらおう、とぼんやり考える程度であった。向上心が無いわけではない。ハングリー精神が薄いだけである。
さて、そんなミツは今日も祖父と共に釣り糸を垂らしていた。明日の図工の授業で何を作ろうかなあ、だとかそういう話をしていたような気がする。そうして過ごしていたら、ミツにしては珍しく三匹ほど魚が釣れた。なんだか嬉しくなっていつもより多弁になっていたところで、祖父が「そのへんでしょんべんしてくる」と退席するではないか。
普段だったら別に良いのだが、テンションの行き場がふいにいなくなったことにミツは少々しょんぼりしていた。尿意ならしょうがない。私だってトイレ行きたいときに弟に話しかけられたらちょっと困ってしまうし。でも、もうちょっとだけここにいてほしかったな。
そんなことを考えていた矢先、ふと視界の端に人影が見えた。
―――――――変だな。おじいちゃんだったらわかるはずだし、何より足音がしなかったぞ。
こわごわと人影の方に顔を向けると――――――そこには、ひとりの子供がいた。
子供は青くて赤くて黒い肌をしていて、全身濡れそぼっている。いや、溶けている?何もかもがドロドロで、顔なんてミツより大きい。
ミツはその子を見た瞬間「あ、女の子だ」と思った。どうしてそう思ったのかはわからなかった。だって、性別なんてわからないほどドロドロだったものだから。
正直気持ち悪いし怖いと思った。逃げたいと思った。おじいちゃん早く帰ってきてと思った。
しかし、今日ばかりはミツの話したいテンションの方が上回ってしまった。
「ねえ、きみ。ちょっとお話聞いてくれる?」
「……………」
子供は応えない。ミツは止まらない。
「今日ね、カサゴが三匹も釣れたんだよ。わかる?カサゴ。」
「……………てけ」
「お刺身も干物にしても美味しいんだけど、私はやっぱり唐揚げが好きでね。帰ったらおかーさんに捌いてもらうんだ。あ、うちのおかーさんは料理がとっても上手いの。おじいちゃんと私が釣ってきた魚を綺麗に捌いてね。私にお料理手伝ってっていつも言ってくるんだけど、私包丁が苦手で。なんか怖くて」
「…………おいてけ」
「うん?」
「置いてけ」
「ミツ!」
祖父の声でようやくミツは我に返る。目の前にはなんだか真っ青な祖父の顔。あら、こっちも青くなってる。なんて思った時には、バケツと一緒に脇に抱えられてあっという間に漁港を後にしてしまった。あの子供は、まだあそこに立っていた。
祖父いわく、「あれは置いてけ堀、というやつでさ。いや、そういうことにしてるっていうか」らしい。当時八歳のミツにはわからない言葉が沢山あったが、とにかく子供の姿をしていること、何かを置いて行けと命じられること、置いていけば許してくれるし置いていかねば許されないこと、でもそもそも根底から違うけど、そういうことにしているということ。
「でもおじいちゃん、私たちなんも置いてかなかったよ」
「俺が釣った魚は置いてった」
「え、そうなの?」
「うん。惜しかったけど……まあ、ミツとカサゴを置いてかなくて良かったさ」
祖父が自分と、自らの成果物を大事にしてくれた事にミツは大いに感激し。
しかし後ろ髪を引かれるように、あのドロドロの子供に思いを馳せてしまうのでした。
私には家族もじいちゃんも友達もいるけど。あの子はきっとずっと、あの漁港で朝も昼も夜も独りぼっちなんだろう。
「置いてけ」なんて。一体何を、どれだけ置いていったらあの子は満足するのだろう。
ミツはそんなことを毎晩のように考え続けた。自分でも、異形に心を割いているのが信じられない。
けれど、少し大人になったミツはこう思うのである。
「多分、自分と重ね合わせちゃったんだな」と。
摺駒ミツ(16)は釣りを楽しんでいた。
釣り仲間の祖父は、友達から囲碁大会に誘われた為本日は欠席だ。元気なら何より、と思いつつもやはり一人は寂しい―――――と思いきや、ミツの横に人が座っている。それは、あの時のドロドロの子供であった。ドロドロの子供は足をぶらぶらとさせながらミツの話を聞いている。
「それでさ。あの時は私、わからなかったけど。きみってここで死んだ子なんだね」
「―――――――――」
「それがろくに供養されずに妖怪扱いなんてかわいそうに。きみだって望んじゃいなかったろうに」
「―――――――――」
「遠い昔の水難事故を隠すため、なんだっけ。あ、驚いた顔してるな?ふふん、私だって伊達に調べたわけじゃないよ」
「―――――――――」
「きみのことが知りたくて、たくさん調べたの」
「―――――――――」
「きみに会いたくて、ここでいつも釣りをしているの」
「―――――――」
「多分、私がここに置いてったのは私の心だったのかも。なーんてね」
ドロドロの子供は窪んだ瞳でミツを見る。ミツはもう見た目のグロテスクさなんて意に介さず、というか慣れてしまったのでそれに笑顔で返すし、手だって握る。さすがに崩れ落ちたら怖いので、そっと触れるのみではあるが。
「いつも私の話を聞いてくれてありがとう。名も知らぬきみ」
ドロドロの子供は軽く俯く。ミツは照れてるのかも、かわいいな、と解釈して、その顔に満面の笑みを浮かべる。
「………さ、今日は何が釣れるかな?沢山釣ってじいちゃんに自慢しなきゃ」
上機嫌なミツの肩に、ドロドロの子供がすり寄る。ミツはその頭を撫でながら、今日も青空の下で魚の到来を待つのだった。
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