26.目覚めの季節と新しい出会い
新章突入!
リアルではダービーが終わり、ようやくこちらもダービー明けに時間軸が重なりました。そしてここからは加速し、ダービーのその先へと向かっていきます!
___________________
どこまでも突き抜けるような快晴の青空に、観衆の興奮の叫び声がこだまする。
この府中・東京競馬場スタンドにぎっしり詰めかけた観客は数万人、いや10万人を越えるのではないだろうか?それだけの観衆の注目が一頭の馬とその上に跨る騎手の一挙手一投足に注がれる。
最後の直線400m、逃げる1番人気の馬に外側から並びかけたオレはムチの一発で跨る相棒に気合いを入れ、ここが人生最大の踏ん張りどころだと自分の胸にそう伝える。あとはもう、この手足が千切れようとも、腕の力が全く入ら無くなろうとも死力を尽くして一番先にゴール板を走り抜けるだけだ。
振り返らなくても後ろからは、凄まじい気迫で巻き返しを狙って差を詰めてくるライバル馬たちの執念が蹄音として伝わってくる。だがそれでも、こちらも執念で追いつかれるわけにはいかない。一番速いのはこの馬だ。今この瞬間だけは、日本中、いや世界中のどんな馬よりも。
ゴールまであと100メートル! と叫ぶアナウンスの声で浅い眠りから目覚めた。あんな夢を見たのは、過去のレース動画を観ながら眠ってしまっていたからなのか。画面に目をやると眠りに落ちる前とは違うレースが流れていた。何十年も前の日本ダービーの映像。勝ったのは俺と同じ苗字で【逃げの名手】【闘将】と謳われた騎手。
ヘッドフォンを外して注意深く外の物音に耳をすませるが、通り過ぎる車の音以外には何も聞こえない。多分先週ぐらいからか、ようやくアパートの扉を叩く者も居なくなったのだけど。
それでも、部屋に閉じこもったばかりの頃の無遠慮に玄関ドアをノックし続ける音と、扉越しでも構わず大声で無神経な質問を投げつけてくる記者たちの騒ぎ声を思い出すとやはり身構えてしまう。アレ以来、オレはスマホの電源を切り、カーテンを閉め切ってヘッドフォンで外の全てを遮断して、この部屋で息を潜めて過ごしていた。
でもそろそろ、切り替える頃だ。
シャワーを浴びて伸び放題でホームレスのようになっていた髭を剃り落とし、両手で顔を叩いて気合いを入れる。躊躇いながら数週間ぶりに立ち上げたスマホには恐ろしい数の着信通知が並んでいたが、その中で必要最低限の連絡先だけに電話を折り返して謝罪の連絡を入れた。
連絡を取った中には何週間も音信不通だった事を怒る人も何人かは居たが、それでも同情の混じった感じでオレを非難し拒絶する態度は取られなかったことに少し安堵する。その中で『とにかくすぐに来い』という要望があったところへと駆け付けるため、出かけるための身支度を整える。
家を出る前、恐る恐るカーテンを開けてアパートに面した道には取材スタッフを乗せたバンなどは一台も止まっていない事を確認。数週間前には人質立てこもり事件の犯人にでもなってしまったかのように窓の外に車と人が詰めかけて、完全に包囲されていた事を思い出すとアレは何だったのかと疑いたくなる。
ネタになると思えばハエのように群がって人の生活を全て踏み荒らして、でも飽きてしまえばこんなモンか。
「待っておったぞ、加賀の小僧! 」
厩舎に着くなり大声でオレにそう声を掛けるのは、北条馬主からの紹介で何頭かに乗せてもらっている武田厩舎の
「とにかくこっちへ来い! 」
そう言って馬房の方へとズンズン進んでいく。昨日、競馬の祭典・日本ダービーが終わって閑散とした全休日の人目の無い馬房の中、もしかしたら『その腐った根性鍛え直してくれるわ』とか言われてボコボコに殴られるんじゃ……と思ったがそんな事は無かった。
「どうじゃ、惚れ惚れするような良い馬体じゃろう?4月に入厩してきた新馬・マイシンゲンじゃ。仕上がりの早い馬じゃから6月末か7月の頭には福島の新馬戦で使おうと思っておる。
というワケで、デビューまで1か月じゃがみっちり調教を付けてくれ! 調教で相性が良さそうならコイツの兄・ミホシンゲンにも跨ってもらおうと思っておるからな。そうそう、他にも調教をお願いしたい馬がおったんじゃった。予定を確認するから今度は事務所じゃ。付いて参れ」
矢継ぎ早にそう伝えられて逆に困惑し、立ち止まる。
「あの……本当にオレなんかが関わって大丈夫なんですか?あんな事があったばかりだって言うのに」
ピタリと足を止め、振り返るとオレの両肩をガシっと掴んで武田調教師はこう言った。
「お前さんの事を悪く言った者は普段、調教や騎乗の依頼をしてきた者たちじゃったか?……違うであろう?いつだって要らぬ中傷で人を貶めるのは下らない外野ばかりと決まっておる。
関係ない有象無象が何と言おうと、ワシらはお前さんが後輩を姑息に蹴落として自分の居場所を確保するような人間ではない事はよぉく分かっておるつもりじゃ。
お前さんの馬やレースに対するひたむきさや競馬にかける情熱、そういうものをちゃんと見た者が増えれば自ずと競馬を愛する者にはお前さんが馬乗りとして、一人の
「……はい。ありがとうございます」
オレをそんな風に真っ当に評価してくれる人もまだ居てくれたという事に、涙が溢れそうになる。
「それでえぇと、誰だっけ君?」
「ち、千葉さん……本ッ当に申し訳ございませんでした!」
「冗談だ冗談、よく戻ってきたな。個人的にはもうちょい早くても良かったぐらいだが」
武田厩舎、上杉厩舎と復帰の挨拶に廻った後で立ち寄った福山厩舎。トレセン全休日で福山調教師も不在、他の厩舎スタッフは休みだったが、運良く千葉さんが今日の担当だったようで自分の担当馬以外の寝藁替えの最中だった。
「知ってると思うが
「はい、明日また伺いますから大丈夫です」
「しっかしあのガキ、さすがに今回の件は終わったな」
「え、何の話ですか??」
その後、千葉さんから聞いた話にオレは開いた口が塞がらなくなる。
青葉賞の翌週、3歳馬のマイル王決定戦・NHKマイルカップは塩田厩舎所属の馬が優勝し、その夜は塩田厩舎全体でその日の勝利騎手・優馬を招いての祝勝会が盛大に行われた。
場が盛り上がった頃に馬主からの呼び出しで塩田調教師が店から退出すると、厩舎所属騎手の岩野は同期や後輩の女性騎手たちを電話で強引に招集し、無理やり酌をさせたりコンパニオンまがいの事を強要したのだという。しかもその中にはまだ二十歳に達していない未成年の騎手も居たが無理やり飲酒させたらしい。
そして気が大きくなった岩野は笑いながら自慢げに大きな声でこう言い放ったという。『気に入らねぇ先輩面のヤツが居たから潰して黙らしてやったわ。もうアイツどこに行っても生きていけんやろ。ざまぁだわ』と。
その状況を見兼ねた優馬が翌日、騎手会長である川原に連絡。岩野の後輩や同期の騎手への聞き取りで事実関係が確認され、騎手会長として川原騎手が謝罪、岩野は数か月に及ぶ騎乗停止が決定したのだそうだ。
競馬会からの制裁以外にも『在りもしないイジメという虚偽の事実を告発してメディアを動かし騒がせた』として岩野と帝スポは幾つもの雑誌社やTV局から莫大な額の損害請求も受けているのだという。そんな事が起こっていたなんて、目も耳も塞いで閉じこもっていたから知らなかった。
「そんなワケでもう、お前を悪くいう奴は残っちゃいない。いや、居たとしてもそんな奴は気にする必要もないって事だ……っと、そういえばお前にお客さんが来てたんだわ。ちょっと連絡取ってみるから待ってろな」
そう言って作業を中断させて何処へやらと電話を掛ける千葉さん。その口調は普段の感じではなく、敬語で畏まっていて立場的にとても上の人なんだろうなというのは感じられた。
一体、誰に連絡を取っているのだろうか?
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます