11.西へ行く

 3月最終週、滋賀県・栗東りっとうトレーニングセンター。


 とある人物からの急な呼び出しに応えるため、オレは朝から電車で5時間以上かけてこの場所へやって来ていた。


 

 発端は先週の月曜日、ちょうど記者と揉めてアパートへ帰って来たばかりの時だ。普段は持っていても何の役にも立たない携帯スマホが突然けたたましい音で鳴りだした。誰からかと思って画面を見るが、登録されていない11桁の番号が並ぶ。


 

「もしもし、中央競馬所属騎手・加賀君の携帯で合ってるかな?関西・栗東所属の調教師で増田ますだと言います。本当はもっと早くに連絡を差し上げるべきだったのだけど、角野井元調教師すみのいせんせいからこの番号を聞いて掛けました」


 穏やかな口調でそう話したのは、オレが2月まで所属していた厩舎の『角野井調教師の弟子』を名乗る、関西・栗東の増田調教師と名乗る人物。


 直接会ったことは無いが、名前だけは聞いたことがあった。『関西のレースに打って出る機会があったら向こうの事は彼を頼れ』と角野井調教師が言っていた気がする。まあもっとも、この数年内にそんな機会は訪れなかったのだが。


「唐突に本題で申し訳ないけれど、3月最終週の日曜日・阪神まで乗りに来られないかな?実は君に、の乗り役をお願いしたいと思っているんだ。メインレース・大阪杯で」

「えっ、なっ何言ってるんですか??」


 突然の言葉に思わず新手の詐欺じゃないかと疑ってしまう。大阪杯と言えば古馬王道の馬たちが春の初戦でしのぎを削る、この数年でG1に昇格したレースだ。そんな騎手ならば誰もが乗りたいと思うであろうレースに、よりによって何故オレなんかなのか?全く理解が出来ない。


「まあ驚くのは無理もない、か……実はウチに馬を預けてくださってる馬主さんのご要望もありまして。ちなみに角野井元調教師の伝手でもあるし。

 せっかく来てもらうんだから私の伝手でメインレース以外も何鞍かは騎乗馬の手配もしてあげられると思う。どうです?良かったら来てみませんか?」


 その電話で言われた言葉を信じて、こうして今に至るというワケだ。



 関東の美浦みほも、競走馬たちが都会の騒がしさとは離れた所で調教に集中できるようにと山の中にあったが、ここ関西の栗東もそれと大して変わらない、滋賀県の山の中にあった。入場ゲートで身分証明を見せて厩舎の場所を確認し、厩舎までの道をとぼとぼと歩く。


 

「……久しぶりだな。加賀君」

 

 辿り着いた増田厩舎の応接室でソファにドカリと腰を下ろして待ち構えていたのは、神奈川に巨大な工場を持つ大企業「北条グループ」の社長で、東西に何頭もの馬を所有する馬主・北条政康ほうじょうまさやすオーナー。


 会うのは塩田厩舎に所属していた頃が最後だから、4年半ぶりくらいになる。覚えているのはスカイリットが青葉賞を優勝した時の口取り式で笑顔ひとつ見せなかった姿と、そのスカイリットが故障・引退した時に塩田調教師へ怒りを露わにしていた姿だ。


「北条オーナー、大変ご無沙汰しております」

「……元気そうで何よりだ」


 昔からあまり多くを語るタイプではないこの人は、それだけ話すとこの応接間にもう1人いる人物へ説明を求めるように視線を向ける。それが恐らく電話で話した増田調教師だろう。電話口で話した印象通り、白髪の混じった短髪に穏やかそうな笑みを浮かべた、ひょろっとした60代くらいの男性。


「加賀騎手、改めまして遠いところを栗東へようこそ。調教師の増田昭雄ますだあきおです。今回は明後日の大阪杯に出す馬、ジオウハチマンの騎乗依頼を引き受けていただき、ありがとうございます」


 そう言ってつばのついた帽子を取り、深々と頭を下げる。オレなんかの為にそんな風にされたら、逆に恐縮してしまうのだが。


「こちらこそご依頼いただきありがとうございます。でも何でオレ……いや私なんかに?」

「先日の中山牝馬ステークスで君が騎乗していたトゥルーロマンス号、アレもワシの馬だ。社用でレースは直接見に行く事は叶わなかったが」


 馬の状態や過去の走り方を考えるのに夢中で馬主の情報までは全然気付かなかった。あの場に北条オーナーは訪れていなかったなら尚更だ。

 

「あのレースでの加賀騎手の騎乗内容、私は高く買っていました。そこに加えてジオウハチマンに前走で乗った川原騎手に『誰にお願いした方が良いか?』と聞いてみた所、加賀騎手の名前が挙がったのでオーナーにも相談させてもらって今回、依頼を決めました」


 意外な名前が登場した事に驚きを隠せない。川原騎手はこの大阪杯では1番人気を争う大本命馬でレースに挑む予定だ。そんな騎手が自分の乗らなかった方の鞍上に俺の名前を挙げたのはどういう思惑があっての事だろう?

 

「ジオウハチマンは去年後半からようやく本格化して、オープンクラスに上がれた7歳馬。年始の京都金杯4着・前走の小倉大賞典で重賞制覇出来た余勢を買って、という馬なのですが」

「勝たせてくれ、とは言わん。だが挑むからには1つでも高い順位を狙ってほしいとは思っている」


 情報からすると、今回のレース出場に関してはそれほど期待された馬では無いようだ。だとしても、増田調教師も北条オーナーも、それにオレの名前を挙げた川原騎手だって『勝てないと思ってで』選んだわけでは無い、のだと思う。だとしたらオレは、その期待に応えなければいけない。


「分かりました。全身全霊を込めて乗らせていただきます」


 背筋を伸ばして腰から曲げるように全力で頭を下げた。


 そんな様子を見て北条オーナーは


「ワシはこっちの工場の視察に戻らなければならん。明後日、競馬場で会おう」


 と言って立ち上がり、事務所を後にしようと背を向けた。そして、誰にとも無く呟く。


 

「……あの時はワシの見る目が曇っておったな。もっと早くに気付くべきじゃったわ」


___________________

《人物情報》北条政康 馬主歴16年

主な勝鞍:フェブラリーステークス(イセノソウズイ)

預託厩舎:関東 武田厩舎 上杉厩舎

     関西 赤松厩舎 増田厩舎

主な持ち馬:トゥルーロマンス(紫苑ステークス)

      ジオウハチマン(小倉大賞典)

      ウジマサブライアン(未勝利戦 3着)

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