山の淵の赤い石

伊月千種

第1話 プロローグ

 もうどれだけの時間、ここにいるのだろうか。時間の感覚はここに押し込められてから程なく失ってしまった。

 

 窓ひとつない暗くて冷たい石造りのこの部屋は、特別な罪人を一時的に留置するために使用されていた場所だと聞く。昔はこの部屋のある小さな建物に近づくことさえ許されなかった。

 

 壁に灯された小さな蝋燭の火が、チロチロとかろうじて自分の輪郭を浮き上がらせている。

 

 まさか自分がここに閉じ込められるなんて。

 

 鎖の繋がった足枷が無機質な音を部屋に響かせる。この音のせいで眠りから覚めることも多い。

 

 この部屋に染みついた変な臭いは、今はもう慣れきって感じられない。最初は何の臭いなのかわからなかったけど、いつも食事を持ってくる衛兵がある時、顔を顰めて「相変わらずカビ臭い」と呟くのを聞いて、あれがカビの臭いかと初めて知った。きっと今は自分も同じ臭いになってしまっている。

 

 食事は固いパンに薄いスープ。おそらく日に一度の頻度だろう。衛兵が食事を運んでくるタイミングで日数を数えていたこともあったが、それももうやめた。

 

 ここに閉じ込められた頃は居ても立っても居られず、とにかく叫び続けた。この叫びを聞きつけた誰かが、この横暴に気付いてくれるはずだと。こんな許されざる罪があっていいものかと。

 

 しかし泣けど叫べど誰一人現れない。ただ扉の向こうの衛兵が怒鳴り返してくるか扉を蹴るだけで、状況は何も変わらない。

 

 時間が経つにつれ叫ぶ気力も体力も削がれ、最近は起き上がっているのも億劫で、冷たくて固い床に横たわっている時間が多くなった。

 

 死ぬまでこのままなのかな。外はどうなっているの? もう誰も私の味方はいないのだろうか。

 

 ぐるぐると回る疑問に答えは出ない。

 

 低い金属音が部屋に鳴り響き、その音で目を薄く開く。

 

 いつもは衛兵が出入りするだけの扉の前に、いつもの衛兵の足元とは違う豪奢な布の裾を見て、力の抜けていた両の手が知らず拳を作る。

 

「おやおや、おやすみだったかね? ご気分はどうだい?」


 耳の奥に不快に響くその声に、拳を握ったまま半身を起こす。

 

「バジー……!」

 

 思い切り怒鳴ったつもりが、口から飛び出たのはガサガサとした乾いた音。喉の奥が張り付いたような不快感に咳き込む。

 

「おやおや、鈴のような声と言われたのが嘘のようだね。あんなに叫ぶから声が枯れてしまったんだね。まったく、深窓のご令嬢とは思えない野蛮な振る舞いだったね。猿轡をつけようかと思ったぐらいだよ。まあ私には君の声は一切聞こえてなかったんだがね。無駄吠えご苦労様」

 

 バジーは蝋燭の灯りに薄く照らされたその野卑な口元を歪ませると「は」とも「へ」ともつかない音で粗野に笑った。

 

 でっぷりと太った腹に乗せられた、趣味の悪い高価な指輪がいくつもはまった手。笑うごとに上下に動くそれが目に入るだけで不快だ。口を開くたびに揺れる二重顎も、口髭も、まるで笑っていない細い目も、すべてが不快でたまらない。

 

「だまれ!」

 

 言ったつもりが声にならず、やはりまた激しく咳き込む。代わりにまたバジーを睨みつけると、バジーはふんっと鼻を鳴らした。

 

「おやおや、もう懲りたかと思ったのに、まだまだのようだね。生意気な目だ」

 

 くるりとこちらに背を向けたバジーがゆっくりと扉へ歩を進める。その背を追おうと立ち上がりかけ、腕と足に力をこめたところで滑って転ぶ。足元の鎖が派手な音を立てて床を打った。

 

「おやおや、無様だね」

 

 嘲笑混じりのその声に視線を上げると、バジーが扉の前でこちらを振り返っている。その顔をもう一度睨みつけるとバジーはまるで汚いものを見るかのような目でまた鼻を鳴らした。

 

「前にも言ったがね、ここを出たいならいつだって出してあげるよ。だが、タダというわけにはいかない。わかるだろう?」

 

 まるで猫や子供のご機嫌でも取るかのような猫撫で声でそう言い残すと、バジーはそのまま部屋を後にした。

 

 あの男! 許せない!

 

 先ほどまでの無気力が嘘のように声にならない悔しさが腹の底から湧き上がる。精一杯の力で床に拳を打ちつける。タンッという情けない音が短く部屋に響く。

 

 このままでは死ねない。どうしたってあの男に復讐してやりたい。

 

 しかし誰からも隔離されたこの場所に一人鎖で繋がれ、どうして復讐など遂げられよう。

 

 どうしようもない状況に怒りが込み上げても、ここで呻くことしかできない。

 

 なんで、どうしてこんなことに! お父様……!

 

 握りしめた拳を何度も床に打ちつけるが、そのうち上手く力が入らなくなり、ぺたりと床に手が落ちる。震える指先が力無く床を掻く。

 

 うつ伏せたまま肩で息をしていると、突然部屋の外が騒がしくなった。誰かが叫びながら走ってくる音がしたが、鉄の扉に阻まれて何を話しているのかははっきり聞こえない。しばらく押し問答のようなやりとりが聞こえていたが、そのうち足音と共に声が遠ざかっていく。

 

 常に部屋の前にいた衛兵がいなくなったのが気配でわかる。

 

 これは千載一遇のチャンスだ。心臓の音が急に大きく響き鳴る。様子を探るために扉の方へ向かおうと立ち上がりかけたところで足の重さに足枷の存在を思い出した。鎖の長さは扉どころか部屋の中心にも届かないぐらいだ。

 

 足元を見て舌打ちをした時、扉の方から押し殺したような声が聞こえた。

 

「ミツハ様」

 

 聞き覚えのある声に思考を巡らせ、一人の年嵩の男の顔が思い浮かぶ。

 

「…………カシル?」

 

 思い出したその名前を唱えると、相変わらずガサガサした声ではあるが、それでも先ほどよりもはっきりと発音できた。こちらの声に呼応するように、鉄扉がゆっくりと開く。


「ああ、ミツハ様……。なんとおいたわしい」

 

 現れた小男は、刻まれた皺をさらに深くしながらこちらに近づいた。暗い部屋の中でも彼の泣きそうな顔がはっきりと見える。

 

「カシル……」

 

 やっと助けが現れたという安堵と、なぜ今まで来なかったという怒りが同時に込みあげ、それ以上言葉にならない。

 

「助けに来るのが遅くなって申し訳ございません。今、サムドの町は領主派への粛清が水面下で行われております。あたくしも這々の体でここまでたどり着きましてございます……!」

 

 ミツハの目の前に膝をついたカシルは、まるで懇願でもするかのように頭を床に擦り付けて早口で捲し立てる。

 

「この建物も昼夜見張りがいまして、どうにも近寄ることができませんで。いや、本当にめんぼくないです。ああ、こんなことをしてる場合では……」

 

 言って立ち上がったカシルが今度はミツハの足元にかがみ込む。と、突然足が軽くなった。

 

「ささ、早く出ましょう。じきに見張りが戻って参ります」

 

 カシルに手を引かれ立ち上がる。鉄扉の外に足を踏み出したが体が細かく震えて思ったように動かない。それでも足枷の分軽くなった解放感に、息を大きく吸って吐く。体の奥に詰まっていた湿っぽい空気が一気に肺から出ていくような気がする。

 

「馬を止めてあります。このままハルトまで逃げましょう」

 

 鉄扉の向こうに続いている薄暗い廊下を抜け、外へ続く扉から外の様子をうかがうカシルに、しかしミツハは急に不安になる。

 

「でもすぐに追手がかかるでしょう? 他に仲間はいないの?」

 

 逃げるにしてもこの老爺だけでは心許ない。逃亡を図って捕まったら、今度は何をされるかわからない。

 

「……厩番のジュッシャと共に赤石あかいしの倉庫に火をつけました。城は混乱してしばらくは逃亡に気づかれますまい。ただジュッシャはその時に捕まってしまいまして……」

 

 なので今はあたくし一人です、というカシルの言葉に息を呑む。

 

 こんな状況で逃げたとして、これからどうすればいいのかますます不安に駆られ、しかしカシルに追い立てられるようにふらつく体を動かす。

 

 建物の外は真っ暗な闇。その中で遠くに鐘を打ちつけるような音が聞こえる。カンカンと安っぽくなるその音は、緊急を告げるものだ。

 

 音のする方向をチラリと見るが、暗闇が続くだけで何も見えない。建物のそばにある木々の間を抜けると敷地のぐるりを囲う塀の隅に繋がれた馬が見えてくる。

 

 なんとか鐙に足をかけ、カシルに押し上げられながらへばり付くように馬上に体を預ける。

 

「カシル、早くお前も……」

 

 手を伸ばそうとしたところで「どこに行った!?」「こっちにはいないぞ!」という怒声がごく近くから聞こえてきた。

 

「ミツハ様、このまま行ってください。表門は使ってはいけません。山の抜け道・・・をお使いください。あそこはあまり知られていません」

 

「でも……」

 

 ここからまた一人になるなんて、本当に路頭に迷ってしまう。少し頼りなくともこの老爺がいてくれればそれだけでマシだ。

 

「ミツハ様、どうかどうかミガル様の、お父様の無念をお晴らしください。あの薄汚い略奪者を討ち取ってくださいませ」

 

 ミツハの手に手綱を巻き付けながらそう言ったカシルは、チラと木々の向こうを振り返ると馬の尻を軽く叩いた。途端に馬が前足を軽く上げて走り出す。

 

「カシル……!」

 

 ぐんぐん遠ざかっていくカシルの姿を見つめていると、木々の間からいくつもの人影が躍り出てカシルを押さえつけるのが見えた。

 

 その光景を目に焼き付けて手の中の手綱を握り直す。


 馬の背に弱りきった身を寄せ、ミツハは闇の中へと溶け込んでいった。

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山の淵の赤い石 伊月千種 @nakamura_aoi

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