第22話【飛路】続・陽帝宮にて

 飛路との遭遇から数日後。雪華は再び案内された東屋あずまやへと足を運んだ。


「――お、いたか」


「…ッ!? ごほっ!!」


 竹筒に口を付けていた飛路に背後から声をかけると、盛大に水を噴かれた。……どうやら驚かせてしまったらしい。


「大丈夫か?」


「げほっ…! ……だ…大丈夫……。あんた、気配殺しすぎ。びっくりした……」


 目を丸くして振り返った飛路が、顔を拭きながら雪華の座る場所を空けてくれる。まだ咳き込んでいるその背をさすってやると、飛路はうっすら赤くなった顔で緩くかぶりを振った。


「大丈夫だから……」


「そうか? でも……」


「いや、ほんとに。……はー、サボってんの見つかったかと思ったよ」


 ようやく人心地ついたかのように、飛路が体を起こす。雪華は例によって運んできた巻物を下ろすと、一緒に持ってきた紙包みを開いた。


「なに?」


「蜜柑だ。頼まれごとをした官吏にもらった。甘い物は苦手でも、これは大丈夫だろ?」


「ああ。……もらったのは蜜柑だけ?」


「食事を一緒にどうかと誘われたが、丁重にお断りした。……さ、食べてくれ」


「あ……、うん」


 二つあるうちの一つを手渡すと飛路はそれをじっと見つめ、呆れとも苦笑とも取れる顔でつぶやく。


「あんた、本当によくモテるのな。城になんかいたら尚更じゃない?」


「さあな。……ま、そろそろ任務も終わる。あとはもう出会うこともない人たちばかりだ」


「ふーん……」


 手元に視線を落とし、飛路が蜜柑の皮を剥きはじめる。その横に置かれた竹筒を、雪華はひょいと持ち上げた。


「水、もらってもいいか」


「ああ」


 今日は休みなく動いていたため、喉が渇いた。ちゃぷんという音に誘われて栓を抜き、口を付ける。数口を飲み干し喉を潤すと、隣からの視線を感じて雪華は振り向いた。


「なんだ? ……あ、もしかして飲みすぎたか」


「いや……大丈夫、だけど……」


 うっすらと耳を赤らめた飛路が目を逸らし、蜜柑の房を口に放り込む。栓をして竹筒を返すと、かざされた着物の袖に飛路は目を留めた。


「……あんた、なんか今日いい匂いしない?」


「匂い? ……ああ、これか」


 その視線が意味するところに気付き、袖を振る。すると、かすかな香の匂いが二人の周囲に漂った。


「同僚が香袋の中身をばらまいてな……。片付けるのを手伝ってたら、移ってしまったようだ」


「へえ。……すっげ、いい匂い。その人には悪いけど、あんたの香りって感じがする。これ」


「そうか? 香道は心得がないから、よく分からないな……。お前は詳しいのか?」


「香りって理屈で嗅ぐもんじゃないでしょ。……オレもよく分からないけど、あんたに合ってると思うよ。分けてもらえば?」


「そうだな。お前がそこまで言うなら、ここを辞める前に相談してみるよ」


 手放しで「似合う」と言われたのがおもはゆく、雪華は手持ち無沙汰に袖を振った。静かな視線を感じ、横を向く。


「……なんだ?」


「あんたってさ……身を飾ることに、本当に頓着とんちゃくしないんだね。やってできないことはないのに、面倒くさがってる感じ。そういうのもあんたらしくていいとは思うけど、最初はもったいないなって思ってたんだ。でも、今みたいにここぞって時に小出しにされた方が、いいな」


「なぜだ?」


「いつも綺麗に着飾ってたら……ますます、モテるだろ。あんたがチヤホヤされるの嫌なんだよね。オレ、あんたのこと気に入ってるから」


「なんだそれは……」


 飛路はわずかに顔を歪め、なんとも言えない笑みを浮かべた。大人びたその表情に雪華は目を瞬かせると、なんとなくうつむいてしまう。

 出会った頃に言われたときは何とも思わなかったのに、今改めて面と向かって言われるとどこか気恥ずかしい。それをごまかすように、ぼそぼそと弁明する。


「身を飾るのが嫌いというわけではないが……暁の鷹うちの性質上、あまり華美にはできないだろ。それに毎日こんな格好をしていたら、航悠に笑われる」


「頭領が?」


「馬子にも衣装とか、猫に小判とか、そんなことばかり言うんだあいつは。なんか変に喜ぶから、逆に恥ずかしくてな」


「ふーん。……頭領も、あんたがそういう格好すると喜ぶんだね。そういや前の踊り子のときも、嬉しそうだった」


「あれは喜んでたんじゃなくて、鼻の下を伸ばしてただけだろ」


「そう、かな……。……十三年、か……」


「……?」


 飛路は何か小さくつぶやくと、膝の上に視線を落とした。しばらくそうして沈黙した後、おもむろに顔を上げる。


「ねぇ。あんたと頭領って、本当になんでもないの? あんたは頭領の女じゃないのか……?」


「……急に何を」


「知りたいんだよ。答えて」


「…………」


 飛路の視線の強さに、少々気圧された。言葉を探す雪華の姿に飛路が眉を下げる。


「やっぱり……そうなのか?」


「いや。前にも言ったと思うが、全然違う。航悠をそういう対象として見たことはない。あいつだってそうだ」


 陰った飛路の声にはっきりと弁明すると、飛路は浮かない顔のまま暗くつぶやいた。


「……そんなこと、ないと思うけど。あんたはそう思ってても、頭領はきっと違う」


「え……?」


 その声は小さすぎて、よく聞き取れなかった。聞き返した雪華をさえぎり飛路が立ち上がる。


「そろそろ行くよ。蜜柑、ありがとう」


「え。……あ、ああ。どういたしまして」


「でも、あんまり男から物をもらっちゃ駄目だよ。妙な期待を持たせるから」


「……はぁ?」


 不可解な捨て台詞を残し、飛路が戻っていく。忘れていったらしい竹筒に視線を落とし、雪華は溜息をついた。



 ――オレ、あんたのこと気に入ってるから。


 ――あんたは頭領の女じゃないのか……?



 その言葉の意図するところに――気付けないほどには、鈍感ではない。


「まさか……な」


 首を振ってその自意識過剰な想像を打ち消すと、雪華は立ち上がり、竹筒に残った水を一気に飲み干した。



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