第21話【ジェダ】陽帝宮にて

 十一の月も終わりに差し掛かったある日の午後。分担された作業の終わった雪華は外朝を自由に行動できることになった。

 動きを怪しまれないよう適当な書類や書物を持って、さも届け物を頼まれているかのように回廊を歩く。そうこうしているうちに雪華の足は、外門の近くまでたどり着いていた。


(さすがにこの辺りでは仕事にならないか……)


 知らぬ間に結構な距離を移動していたらしい。我に返り、もと来た道を引き返そうときびすを返したそのとき――


「……雪華殿?」


「ジェダ殿……」


 聞き覚えのある声に名を呼ばれ、ふと足を止めた。振り返ると、回廊に異国の美丈夫が立っている。深く考えぬままその名をつぶやいた次の瞬間、雪華は己の失態を悟った。


 ――しまった。ここでシルキアの者に動向を悟られるのは、どう考えても得策ではない。

 だが一度返答してしまった手前、逃げるわけにもいかない。次の行動をはかりかねて沈黙した雪華のもとへ、ジェダイトが歩み寄ってくる。


「これはまた……奇遇ですね。あなたはずいぶんと神出鬼没だ」


「ああ……」


 面白がるような笑みを浮かべ、ジェダイトが女官姿の雪華を眺める。取り繕った笑みを慌てて浮かべるが、次の言葉が出てこない。

 ――どうする。どう説明する。前回は踊り子で今回は女官。しかもどちらもジェダイト……いや、シルキア人と接触している。姿を変え、生業なりわいを変え、はたから見たら自分の行動は明らかに怪しい。


「ジェダ殿、今は――」


「……お仕事、でしょう? 言わない方がよろしい。どこに目や耳があるか、分かりませんから」


「……っ。ああ……」


 惑いながら口を開いた雪華に優雅な仕草で指を立て、ジェダイトが言葉を制す。それに従いうなずいた雪華は、何か違和感を覚えて彼を見上げた。

 自分はジェダイトに、仕事の話などしたことがない。不信を込めて見つめると、ジェダイトは「おや」とでも言うように片眉を吊り上げる。


「違いましたか? 様々な場所に潜り込み、得た情報を商品として扱う。そういったことを生業にする者は、シルキアにもおります。あなたもそういった稼業の方かと見受けましたが……違いますかね?」


「いや……、合っているが」


「何を調べているかは、あえて聞かない方がいいのでしょうね。私はまだ、あなたに嫌われたくはない」


「…………」


 おどけるような言い方に、うすら寒いものを感じた。頭の奥で警鐘が鳴る。……この人の言葉は、どこかおかしい。


 違和感を感じるほどの無関心さは、本心からのものか? 軽い口調に含まれる艶は、装われたものではないのか?

 じっとジェダイトの美しいみどりの目を見つめると、彼はうっすらとそれを細める。


「そんな目で見つめられては、照れてしまいますね。……私の言葉は信用できませんか?」


「信用できないわけではないが……おかしいと思う」


「どのあたりが?」


「私の生業を理解していて、なぜ問いただそうとしない? 宮城きゅうじょうに一度ならずとも潜入して……普通に考えれば怪しいだろう。なぜ、あなたは私を疑おうとしない?」


「……疑ってほしいのですか?」


「……っ」


 雪華の言葉に目を瞬いたジェダイトが、ふわりと蟲惑的こわくてきな笑みを浮かべた。毒の滲むその視線に雪華が詰まると、ジェダイトは淡々とした口調で続ける。


「そうですね……あなたがそう言うのなら、いくらでも問い詰めたいことはありますよ。探っているのは我々シルキアのことか、とか……もしそうだとしたら、その依頼を誰に頼まれ、誰に流しているのか、とか……。キリがないほど思いつきますが、それを聞いたとて、あなたは答えてくれるのですか?」


「……それは」


「情報を扱う者は、何よりも得た情報…機密の保持をどれほど徹底させられるかにより、その格が知れると聞いたことがあります。機密の漏えいはすなわち、それを扱った人物――ひいては組織の破滅を招くとか。本当のプロは、機密を守るためならば死すらもいとわないそうですが」


「ぷろ…?」


玄人くろうとと言うべきか、職人と言うべきか。……残念ながら、あなたは詰めが甘いようだ。少なくとも二度、私に正体を明かしてしまっている」


「…………」


 うっすらと笑みながらも、ジェダイトの言葉は容赦なく辛辣しんらつだった。そして真実だった。何も言い返せず雪華が黙ると、張りつめた空気がふと緩む。


「……失礼、言いすぎたようです。別にあなたの潜入が下手だったということではありませんよ。普通に通り過ぎれば、きっと気付かなかった。前回の踊り子の時も……そう、気付いたのは、私があなたをよく見ていたからでしょう」


「……?」


「あなたに惹かれて、あなたがいない時も想っていたから……すぐに分かった。そういうことで、どうでしょう?」


「どう、と言われても……」


 うっとりするような流し目を送ったジェダイトが、くすりと小さく笑んだ。硬く強張った雪華の頬に触れ、そっと顎を上げる。


「そのような惑った目で私を見るのはやめて下さい。……私はね、正直なところ、あなたが何者でも良いのですよ。あなたが何を調べていようと構わない。それが自国の不利益になることであっても。私とあなたという個人の結びつきには、なんら関わりのないことですから」


「……あなたはシルキアの官吏だろう。なぜ、そんなことが言える」


「もう一度言わせるのですか? つれない方だ。……官吏といっても、国に忠誠を誓っているわけではありませんよ。斎の方々だって大半はそうだ。自分の利益のため、保身のため、家族のため……働く理由は人それぞれでしょうが、結果としてその働きが国を守り、動かしているにすぎない」


 淡々と語ったジェダイトが今一度、雪華の瞳を見つめる。彼は碧の目を細めると今度は純粋な好意だけを浮かべて口を開いた。


「私はあなたのことを、気に入っているのです。せっかくできた私的な繋がりを、こんな場所で壊したくはないのですよ。……だから私は問いただしません。あなたが何をしているか、探りたいとも思わない」


「…………」


「まぁ簡単に言えば、自分の立場も忘れてしまうほどあなたに夢中ということです」


 ジェダイトはにこりと笑うと、雪華の顎から指を離した。褐色のそれが下りていく様をなんとなく目で追い、雪華は再び美しい顔を見上げる。

 その言葉を鵜呑みにできるほど、疑念が晴れたわけではなかった。けれど、少なくともジェダイトはこれ以上探りを入れようとは思っていないようだ。

 そのことにモヤモヤとした引っかかりを覚える反面、どこかで安堵していた。せっかくできた繋がりを壊したくないのは、雪華も一緒だったのだ。


 ジェダイトは、美麗な笑顔を振りまくだけの穏やかな大臣補佐官などではない。むしろその笑顔の裏には、うかつに触れてはならないような底知れぬものが感じられた。

 甘い言葉の影に鋭い棘のような何かを持つこの人と……自分の知らない異国を美しい瞳で語るこの人と、もっと話をしてみたい。そう思っていることに雪華は初めて気が付いた。


「やっとご機嫌を直して頂けたようですね。……雪華殿、もしお時間がおありなら、また離宮にいらっしゃいませんか?」


「え……?」


「結局この前は、シルキアの茶をご馳走することができませんでしたから。それと甘い物はお好きですか? 先日、本国から届いたのですがなにせ男所帯なので食べる者がいないのですよ」


「それは、好きだが……」


 ジェダイトの誘いに、雪華の心が揺れ動いた。自分で言うのもなんだが、かなり現金だ。しかし今の立場を思い出し、うなずくのには躊躇ちゅうちょする。


「でも、服が……女官姿は、さすがにまずいだろう」


「ああ……。いえ、普段着よりはそちらの方がむしろ好都合ですよ。斎の女官が離宮に入るのは、別におかしいことではないでしょうし。――ああ、でも私がそういう目的で連れ込んだように見られるのかな。いつもお手伝いで入られる女官は、年配の方ばかりですし……」


 ジェダイトが雪華を見下ろし、軽く思案するようにうつむく。銀の髪が風に揺れ、ちかりと目がくらんだとき――


「ま、別に構いませんか」


「……か、構わないのか……?」


 あっさりとうなずき、ジェダイトは離宮に向けて足を踏み出した。




 離宮にたどり着くと、祭りの時と同様に衛士えじに軽く手を上げてジェダイトは中へと入っていく。彼の言ったとおり、ちらりと揶揄やゆするような視線を感じたが特にとがめられることはなかった。

 扉を押し開け、室内へと入る。見覚えのある調度品が二人を出迎えたが、何か違和感を覚えて雪華はジェダイトの背中を見上げた。


「……ずいぶん静かだな」


「ああ……先日に比べると、人の数が減りましたから。私を含め、もう数人しか残っておりませんよ」


「そうなのか。どうりで」


 ジェダイトの言葉にうなずき、また内心で首を傾げた。シルキアの一行が徐々に引き上げているということは、ジェダイトもそろそろ帰国するのだろうか。

 それにしては――そのようなそぶりが、部屋にもこの人にも見えない。


 ジェダイトはなぜ帰国しないのだろう。陽帝宮に留まり、外交を続けるのだろうか。それともまた国内のどこかに移動して、仕事を続けるのだろうか。


「この間の部屋へどうぞ」


「え。……ああ、お邪魔する」


「お茶を淹れてきます。少しだけ待っていて下さい」


 先日と同じ部屋に通され、螺鈿らでんの卓に腰かけた。部屋の隅に置かれたシーシャが目に入り、以前の出来事を思い出してなんとなくいたたまれない気分になる。

 そんな雪華には構わず、ジェダイトは奥の間に下がるとしばらくして不思議な形をした急須を片手に戻ってきた。見慣れない物体に雪華は目を瞬く。


「それは?」


「我々の飲み物で、コーヒーと言います。こちら風に言うと、豆茶というところでしょうか」


「こーひー……」


 銀色の急須から、深い褐色をした液体がこれまた見慣れぬ形をした杯に注がれる。その途端、独特かつ魅惑的な香りが室内に広がり雪華は目を見開いた。


「良い香りでしょう?」


「これは、初めて嗅いだ。……すごいな、シルキアにはこんな飲み物があるのか」


「気に入って下さると良いのですが。……どうぞ」


 褐色の液体をなみなみと注ぎ、ジェダイトが杯を差し出す。深い香りをまとうその飲み物をまじまじと見つめ、雪華はゆっくりと口に含んだ。


「……美味い」


「それは良かった。これだけは、私の一番好きな豆を持ち込んだのです。淹れ方をお教えしますから、もし良ければ帰りに持たせましょう」


「すまないな。ありがとう」


 温かくほろ苦いその『こーひー』を飲んでいると、ふと肩の力が抜ける気がした。ここ数日ずっと外朝や官舎で過ごしていたためか、斎の官吏の目が届かないことに安堵を感じる。


「そういえば、外交官と言っていたが――ジェダ殿は、国の外にはよく出られるのか?」


「いえ……どちらかと言うと、シルキア国内で国外から来られた方々の通訳や接待をすることが多いですね。当主としての家の仕事もありますし。恥ずかしながら、シルキアから出るのは今回が初めてなのです」


「そうなのか。意外だな。いかにもあちこち回っていそうなのに」


「買いかぶりすぎですよ。……ああ、そういえば、この旅で初めて海を見ました」


「海……? 見たことなかったのか」


「はい。シルキアは国土のほとんどが内陸ですから。湖もありませんし、あれほど大量の水がたたえられている様はなんとも不思議でしたね。これが海かと、随行一同感心してしまってしばらく足が止まってしまいました」


 そう言って、優雅な彼にしては珍しく子供のように笑う。その表情に気持ちが緩み、雪華は彼の生まれた国のことをもっと聞いてみたくなった。


「私には、見渡す限り砂漠という光景の方が想像できない。一面の銀世界は分かるが……」


「銀世界より過酷な世界だと思いますよ。見た目には美しく見えますが、放っておけばすべてを干乾びさせる地獄です」


「砂漠は……厳しいことばかりか?」


「おおむねは。……ああ、でも満天の星空や、夜明けの美しさは嫌いではありません。中でも格別なのは……日没ですね」


「日没?」


「はい。大きな太陽が、砂漠を赤く染め尽くして――茶色い砂丘が、刻一刻と色を変えていくのです。過酷な昼の世界が終わり、静寂の夜へと変わるその一瞬は……とても綺麗だと思います。あなたにも、ぜひ見せて差し上げたい」


 ジェダイトの語る、その光景を想像してみる。

 茶から赤、赤から紫、そして藍色へと染め変わってゆく空と大砂漠。やがてその光景は、一人の人の姿を映し出す。


 今まさに砂漠に沈まんとする巨大な夕陽が、白に近い銀髪を赤く染め上げ――そしてその苛烈かれつさなど忘れたように、夜になればその髪は冷たい月の光をはね返すのだろう。

 乾いた大地に立つ、黒衣のこの人は――どれほど美しいことだろう。


「そうだな……。いつか、見てみたいものだ」


「ええ。ぜひ」


 微笑むジェダイトの背後に、嗅いだことのない砂の匂いが香ったような気がした。




 その後、甘味好きの雪華をもってしても甘すぎるほどのシルキアの菓子まで馳走になり、二人は様々な他愛のない話を交わした。

 先ほどのような緊迫したやり取りではなく、あくまで穏やかに、ジェダイトはシルキアで日常の話などを面白く語ってくれた。それに相槌を打っていると、あっという間に時間が過ぎていく。そうして短い休息を楽しんだあと、雪華は離宮の扉に手をかけた。


「ではな、ジェダ殿。今日も馳走になった」


「ええ。またお会いできる日を楽しみにしています。さようなら、雪華殿」


「ああ、ありがとう」


 扉が閉まり、雪華の姿が見えなくなる。ジェダイトは口元に優雅な笑みを浮かべると、歌うようにつぶやいた。


「また、会える日が……楽しみですね」



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