第7話 異国の貴人

 花街を抜け、空を見上げる。黄昏たそがれに暮れはじめてはいるが、まだ完全に日が沈むまでは時間がありそうだ。

 なんとなくそのまま蒼月楼に戻るのももったいない気がして、雪華はふと進路を横に逸れた。


 市街地を抜け、街の外に出る。そのまま歩き続けると舗装された道が砂利道に変わり、雪華は丘の斜面を登り始めた。

 おぼろな記憶をたどるように、木々に囲まれた道を行く。小鳥のさえずりと木々のざわめきが辺りを満たし、目と耳を楽しませる。


 そうして、それにもだんだんと飽きてきた頃。視界が突然開け、雪華は『その場所』にたどり着いた。



 黄昏に沈む――廃墟。茶色い壁は原形を留めず、強い風が通り抜ける。

 誰一人として動くもののいない、暗い影ができはじめたその場所に雪華は足を踏み入れた。


「もう形すら残ってない、か……」


 誰にともなくつぶやき、じゃり…と石の欠片を踏みしめる。そこは、完全なる破壊が行われた記憶の跡地だった。

 茶色い壁は、かつては真っ白に磨かれ陽光を跳ね返していた。そう大きくはないが、荘厳だった寺院の姿がまぶたに浮かぶ。そして、その正面にいた人々の顔も。


 ここは、十三年前に滅びた朱朝の菩提寺ぼだいじ――の跡地だった。



「こんなに狭い場所だったかな……」


 強い風が髪を乱し、それを押さえながら一人つぶやく。

 ここに来たのは、実に十三年ぶりだった。異国から陽連に戻ってきて一年ほどが過ぎたが、どうしてか一度もこの場所に登ろうとは思わなかった。それがなぜか突然、登りたくなった。


 斎国は統治する皇朝が変わるたびに、祈りの場として寺を建立こんりゅうする。宮城きゅうじょうとは別の神聖な場として、折にふれ皇族が祈願に来たり儀式を執り行ったりするのだ。

 しかしひとたび皇朝が滅亡すると、たちまちのうちにその菩提寺は破壊される。


 現に雪華――香紗が名を連ねていた朱朝の祖も、皇帝となったそのときに先の皇朝の寺を徹底的に破壊したらしい。そして残されるのは、人の寄りつかぬ廃墟だけとなる。


(あれだけ繁栄を誇っていても、滅びてしまえばすべてが過去…か)


 朱朝は、この斎の歴史上で最も長く続いた皇朝だった。

 十代以上に渡って連綿と紡がれてきた血脈。斎の皇帝といえば朱姓の者が務めるのだと、当たり前のように思っていた。……おそらく、民も。

 だが時の移ろいとともに、人は変わっていく。そして国も。いつまでも同じ場所には留まれず、時代は新たな皇帝を求めた。


 帝都陽連は、たしかに繁栄を誇っていた。けれど地方の農村や漁村に目を向けると、確実に忍び寄る腐敗と衰退の影があった。それはおそらく、香紗が産まれる前から。


 香紗の父・朱康成しゅこうせいは決して暗愚な皇帝ではなかった。けれど賢帝でもなかった。

 だから見えなかった。国の端から吹き出す不満の声が、すでに爆発寸前になっていたことを。


 香紗も知らなかった。……知ろうともしなかった。宮城の中で甘やかされるばかりで、外の世界のことなど自分には関係ないことと思っていた。

 今、こうして冷静に考えられるのは――雪華が城を追われ、平民の立場で国内外を旅してきたからだ。


 龍昇の父、胡黒耀こ こくようが皇位を簒奪さんだつしたことに不満を示す貴族や武官も多かったと聞く。声高に叫ばれることはないが、朱朝の血筋を引かない黒耀や龍昇を、今でも正統な皇帝と認めない民もなくはないらしい。

 国の端に目を向ければ、地方の状況が劇的に改善したということもない。そもそも政治まつりごとはそう短期間に結果が出るものではない。


 それでも、「簒奪の皇位」とそしられながらも――胡朝はよくやっていると、皇女でなくなった雪華は思う。


 朱朝の時代よりも、国はいい方向に動き始めている。それを認めるのは情けなく苦しいことだったが、事実だ。だが、だからといって胡朝への複雑な想いが晴れるわけでもない。


(……父上。母上……兄上……)


 郷愁に浸りたくはない。過去を懐かしんだところで、その時間が帰ってくるわけではない。

 考えるべきは、いつだって現在いまと未来のことであるべきだ。


 そう頭で理解しながらも、雪華の足と目はその場所に釘付けになったように動かず、ずいぶん長いことその廃墟を眺めていた。そうして赤い日も沈みかけた頃――


「っ……」


 背後で土を踏む音がして、はっと振り向く。誰かが登ってきたことに、今の今まで気付かなかった。

 気配に鈍い性質たちではないため、正直かなり驚いた。だがもっと驚いたのは――


「……っ」


 ――若い男だ。背後に落ちる夕日を受け、本来は銀色の髪が灼熱に染まっている。その身を包むのは、すっきりとした黒衣。何よりも、その恐ろしいほどに整った褐色の顔に強烈な既視感を覚える。

 ひと月前、龍昇に案内されていたシルキアの役人――その男が、夕日を背負ってたたずんでいた。


「……   ……」


「……?」


 男がみどりの目を見開き、何事かをつぶやく。斎国語ではないそれを雪華は聞き取ることができなかった。突然現れた男に呆然としていたが、はっと我に返ると警戒を込めてその男を見つめる。


「あ……」


 厳しい視線を受けた男は一瞬戸惑うような表情を浮かべたが、やがて害意がないことを示すように胸に手を添えると美しい顔に柔らかな笑みを浮かべた。


「……こんにちは。いや、もうこんばんはですね」


「え。あ……、こんばんは……」


 流暢な斎国語で紡がれた挨拶と、何よりその笑顔に毒気を抜かれた。雪華は警戒をわずかに緩め、無意識のうちに返事を返していた。


「すみません、なんだか驚かせてしまったみたいで。見入ってたようでしたので……でも早めに声をかけるべきでしたね」


 男がわずかに眉をひそめ、申し訳なさそうに頭を少し下げる。完璧に整っている顔が柔らかく表情を変えるさまに、雪華は瞬きも忘れて見入ってしまった。


「あの…? 何か?」


「あ……すまない。ずいぶんと美形なんでな。不躾に見てしまってすまない」


「いえ、そんな。……あなたの方がお美しいですよ。斎国花の竜胆りんどうのようだ」


「…………」


 美しい男に美しいと言われても、なんと答えればいいのか迷う。

 苦虫を噛み潰したような雪華の顔に男も気付いたのだろう。ふっと笑むと、ごく自然に廃墟へと視線を逸らした。


「初めて来ましたが……いい場所ですね。都の喧騒も、ここまでは届かない」


「そうだな。……ずいぶんと寂しい場所だが」


 見ず知らずの異邦人と、なぜだか廃墟を見つめている。その特異な状況に戸惑いながらも、雪華は何か立ち去りがたいものを感じて男が動くのを待った。

 やがて日が沈みきった頃、男が満足したように振り返る。穏やかな視線を向けられ、何か話題がないかと急いで考える。


「……ずいぶん斎国語が上手いんだな。斎国人と変わらないぐらいだ」


「そうですか? そう言われると嬉しいですが、私は外交官なので」


 美しい顔に見合った美しい声で男が答える。銀髪の異邦人ははっと目を瞬くと再び手を胸に添えて軽く礼をした。


「申し遅れました。私はシルキアの外務大臣補佐官をしております、ジェダイト・アル=マリクと申します。政務で先月から陽連に滞在させてもらっています。以後、お見知りおきを」


「ご丁寧にどうも。ええと、ジェダ…イト、アルマ……」


 琴の調べのような、心地よい流れが男の唇から零れた。その名を復唱しようとしたが、舌がもつれて上手く発音できない。そんな雪華にジェダイトは微笑を向ける。


「『ジェダ』で結構ですよ。どうもこちらの方には発音がしづらいようで……。私も名で呼ばれる方が慣れていますので」


「そうか。すまないな、ジェダ殿」


「いえ。あなたのお名前はなんとおっしゃるのですか? 竜胆のお方」


「……そういう呼び方はやめてもらえると助かる。花に申し訳ないよ」


「ああ、これは失礼を。花と比べてはいけませんね。花より美しいあなたに申し訳ない」


「…………」


 ジェダイトが放つ、過剰な美辞麗句に正直引いてしまった。シルキア人とは皆、こんなうすら寒くなるような台詞をポンポンと吐けるものなのだろうか。

 名など告げずに今すぐこの場から立ち去ってしまいたい衝動に駆られたが、相手に名乗ってもらった以上、こちらも名乗るのが礼儀だろう。粟立った二の腕をさすりつつ、雪華は告げる。


「雪華……李雪華だ。陽連で仕事をしている」


「雪華殿ですか。美しいあなたにふさわしい響きですね。……ここでお会いしたのも何かの縁。また巡り合う機会があれば良いのですが」


 風に揺れる銀髪をかき上げ、ジェダイトが微笑む。その歯の浮くような台詞と麗しい笑みに、雪華は二の句が継げなくなった。


「シルキア人に会ったのは初めてだが……あなたの国の人は、皆あなたのような容姿をしているのか?」


「私のよう…と言うと」


「あなたのように美しいのかと聞いている。……正直、驚いた。あなたほど綺麗な男性は初めて見たよ」


「ありがとうございます。でも、買いかぶりすぎですよ」


「そんなことはないだろ。まぁ言われ慣れてるんだろうけど」


「…………」


 ジェダイトが少し困ったように眉を下げる。……沈黙は肯定だ。けぶるような白銀の睫毛をぼんやり見つめていると、碧の目がこちらを向いた。


「私もこちらに来て、斎の女性の美しさに驚きましたが……あなたが一番麗しいですよ」


「それこそ買いかぶりすぎだ。外交官ってことは、陽帝宮ようていきゅうに滞在しているのだろう? あちらの女官の方がよっぽど美しく装ってるだろ」


 陽帝宮とは、この帝都陽連に建つ皇帝の居城を示す。今は龍昇が主となっているその城では、昔から多くの美しい女官たちが働いていた。

 ジェダイトは否定も肯定もせず、困ったような笑みを雪華に向ける。


「でも、あなたも言われ慣れているようだ。褒め言葉も数が多すぎると、鬱陶うっとうしいものですか?」


「……ま、それなりには」


「正直な方だ」


 ジェダイトがくすりと笑う。少し毒を含んだその顔に、雪華もつられて笑ってしまった。

 夜風が廃墟を通り抜ける。……少し冷えてきたようだ。静かに佇むジェダイトを見上げると、雪華は口を開いた。


「じゃあ、そろそろ……」


「ああ、すみません。引き留めてしまったみたいで。私もそろそろ下りますので、街の入り口までご一緒しますよ。夜道は危ないでしょう」


「そうでもないさ。……でも、じゃあ下りるまでは」


 ジェダイトが先導し、一人で登ってきた丘を今度は二人で下りていく。道中聞いてみると、陽帝宮からここまで一人でやってきたそうだ。

 大臣補佐官ともなれば、官吏の中でもかなりの高官にあたるだろう。そんな人物がふらふらと市中を歩き回っていても良いのだろうか。少しだけそう思ったが、親しい仲でもないし詮索する必要もないだろう。二人は他愛もないことを話しながら、宮城と市街地の分かれ道まで下りてきた。


「すまないな、ジェダ殿。……じゃあ、気を付けて」


「いいえ、楽しい時間を過ごさせて頂きました。雪華殿もお気を付けて。また機会がありましたらお会いしましょう」


 ひらひらと手を振るジェダイトに見送られ、花街へと足を進める。ジェダイトは再会を口にしたが、おそらくそれが叶うことはないだろう。立場も、住む国も異なるのだから。

 それでも異国の男性との思いがけない出会いに、雪華は何か満足するものを感じて家路を急いだ。



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