ある日の出来事
立入禁止
ある日の出来事
社会人になってから、休みがとれなくなった。
若い頃は、大人になったら自由になるだの、お金が増えるだの、したいことができるだの夢見ていたのだ。
現実はというと。本当に全部、夢物語だった。
毎日毎日社畜として働く。働いて働いて働くのみ。家と会社を行き来するだけ。やりたい事はいつの間にか無くなっていたし、仕事をするだけで他のことをする気にもならなかった。
完全な社畜になっていたのだ。
そんな私にも、唯一の癒しがある。
同じ部署の長谷川さん。人当たりがよく、裏表がなく誰にでも優しい。そして仕事もできるときた。漫画から出てきたような存在だ。私の目から見てそう思う。
殺伐とした職場では目の保養となっていた。私の他にもそう思っている人はきっといるだろう。
はぁぁぁ。目の保養だし癒される。
しかし、いくら癒しがいても終電間近までの仕事を繰り返していたらきつい。今日こそは早く終えたいが、どうなる事やら。明日が祝日で休みなのが救いだ。祝日ありがとう。もっと増えて。
終電確定と思ったが、今日はラッキーなことに定時で終われて浮かれてしまう。仕事を終えて急いで帰ろうと準備していたら予想外の人から声を掛けられた。
「橘さん、ちょっと飲みに行かない?」
まさかの長谷川さんからだった。
「嫌だ?」と可愛く首をかしげられたら、終電間際なんて気にしてられない。
仕事の疲れなんてなんのその。二つ返事で「行きます」と返事をすると長谷川さんは嬉しそうに微笑んだ。
自分にだけに向けられた笑顔。それだけで疲れも飛んでいくというものだ。
橘葉月。二十三歳。
恋人いない歴イコール歳の数だ。
昔から女性にしか目がいかず、気になった女性にはアプローチもせず、ただただ見守るだけで発展もなし。
だからといって、別に悔しがるわけでもなく諦めている。そして、今もそこまでの気力もなく仕事で疲れて帰る。そんな生活を日々送っているだけだ。
だけだったがっ、なんだこれ。
今のこの状況を誰かに説明してもらいたい。
誰がどう見たっておかしいはずだ。
私が長谷川さんに押し倒されているなんて……。
会社から出て、何処に飲みに行こうかという話になった。帰宅のことを考えると駅周辺がいいだろうと思い、駅周辺の食事処を検索して長谷川さんに提案したが、全て却下されたのだ。
たくさん飲みたいし、時間を気にせず話したいからということで長谷川さんの家で飲むことに決まったまではいい。良くは無いが、私には断る選択肢はなかっただけだ。
長谷川さん家での宅飲みは、何度かしたことがある。何度かと言ったが、片手で数えるくらいだけど。たぶんというか、四回目だ。
長谷川さんの家に向かうまでのスーパーで、お酒、ソフトドリンク、お菓子、ご飯というかおつまみ的なお惣菜を買っていった。
「二人分にしては量が多かったね」
「そうですね」
お互いに、あれもこれもとカゴの中に入れていたら、二人分にしては多い量になってしまった。
「あの、ご馳走様です」
「いいよ、私が誘ったんだし。気にしないで」
長谷川さんが全て支払ってくれた。家にお邪魔する時点で私が出すつもりだったし出そうとしてたのに、断られてしまった。後日、お礼になにか渡そう。
スーパーから出て、他愛のない話をしていると、いつの間にか長谷川さんの家に着いてしまった。楽しい時間はあっという間だ。すでに三回は来たことのある場所だけれど、緊張してしまう。
「ほら、橘さんも入って」
「お邪魔します」
入った瞬間にしたのは、爽やかな香りだ。玄関にリードディフューザーが置かれていて、その匂いだとわかる。
匂いからすでにお洒落だ。部屋の中に入れば、シンプルだけどもスタイリッシュでこれまたお洒落。自分にはとうてい真似など出来ない。
こういうのはセンスも大いに関係していると思う。
「さて、飲み会始めちゃおっか」
「はい。お惣菜とかどうします? そのままにします?」
「一度温めるから、お惣菜貰っちゃうね。飲み物とか袋から出しておいてもらえる?」
「わかりました」
机の上に買った飲み物を並べていく。
「どうりで重かったわけだ」
お金を払ってもらった分、荷物持ちは私が受け持ったが、正直に言うと腕がもげそうだった。それもそうだ。机の三分の一を占めるくらいの量を買っていた。
明日はたぶん筋肉痛になることだろう。帰ったら、お風呂でマッサージしなくては。
ちらり。壁にかけてある時計を見ると時刻は十九時だった。終電は……と逆算して、遅くても二十三時にはここを出れば間に合うだろうと携帯のアラームに時間をセットしておく。
万が一、泊まりなんてことになったら迷惑をかけてしまう。それに、私自身がもたない。気持ち的に……。
「温めたよ」
「ありがとうございます。こっちも飲み物全部出しておきました」
「結構買ってたね。荷物、重かったでしょ。ありがとう」
「いえ。こちらこそ奢っていただいたので、それくらいは」
長谷川さんからお皿に移されて温められた惣菜達を受け取ると、またキッチンへと戻って行ったかと思えば、グラスを持って戻ってきた。
「氷も入ってるから」
「ありがとうございます。なにから飲みますか?」
「うーん。まずはハイボールかな。橘さんは?」
「私も、それにします」
プルタブを開ければ、カシュッ、といい音に無意識に喉が鳴り、体が水分を欲しがっていることに気がつく。
長谷川さんにグラスを渡して、自分のにもいれる。
「じゃあ。今週もお疲れ様でした」
「お疲れ様です」
お互いにグラスを合わせる振りをしてから飲む。
「くぅぅぅ~。美味しいね」
「はい。身に染みますね」
「ねっ」
温められた惣菜を食べつつ、飲みつつ。仕事の話から、ここ最近あったことを話していけば、いつの間にかお酒も進んでいて。いつもは仕事の話が主なのに、どこからそういう話になったのかすら覚えていないが、恋愛の話になっていた。
片想いはしたことがあるが、両想いなどない身としては話すことなんて特には無い。けど、こういう時はお決まりの定番妄想が役に立つ。付き合ったことがないなんて言わない。それこそ、言ったらからかってくる人や面白がって言う輩もいるからだ。長谷川さんはそんな人では無いとしても、何かの拍子で誰かにポロッと口から出てしまうかもしれない。油断は禁物だ。
長谷川さんの話を聞きつつ、やっぱりモテるんだなぁという感想しかなかった。モテるなりに悩みもある。それは大変そうだなと思いながらも相槌を打ちながら話を聞き役に徹する。
長谷川さんのここ最近の恋愛事情は、全くらしい。仕事一筋だと。私はどうかと聞かれて、長谷川さんと同じですよと返すと一緒なことに嬉しくて顔が綻んでいた。かわいい。
その間もお酒はすすんでいたらしく、気がついた時には長谷川さんの目が据わっていた。
目がゆっくりと開いたり閉じたりを繰り返している。
「寝るならお布団で寝た方がいいですよ」
「まだ、寝ない」
「もう眠そうじゃないですか。私も帰りますから」
掛け時計を見ると時刻は二十二時過ぎ。いい頃合いだ。
「やだ」
子どもみたいな口調と拗ねた感じに、普段の長谷川さんの面影はなかった。今日はいつにも増して飲みすぎてしまっているようだ。こんな姿は一度も見た事がない。
「鍵閉めれますか?」
「しめれない」
困ったなと苦笑いになってしまう。長谷川さんはその間も目瞼が落ちていきそうで。
「ベッドで寝ましょ」
「ん」
ほとんど目が瞑っている状態で腕を上げてくる状況に、言葉が詰まってしまった。
抱っこしろということか?
えっ、これ合法だよね。大丈夫だよね。いいんだよね。
自問自答を繰り返すが答えは出る訳もなく、痺れを切らした長谷川さんから催促されて渋々と背中に腕をまわした。
そこから持ち上げれば、長谷川さんも協力的で。難なくベッドへと運ぶことが出来た。
長谷川さんが寝てしまったら、勝手に鍵を拝借して郵便受けに入れておけばいいだろう。
ベッドへ、長谷川さんを寝かそうと腕を離そうとすればそれは叶わず。
「えっ?」
世界が反転した。
そして気がついた時には私が長谷川さんに押し倒されている構図の出来上がり。
「ねぇ、キスしてもいい?」
「えっ?」
大多数の人はこの言葉しか出ないと思う。
そうこうしているうちに、刻一刻と長谷川さんの顔が迫ってくる。
間近で見ても綺麗だな。唇もカサカサしてないし。って違うんだな。違うんだよ。
「は、せがわさん。酔っ払いすぎですよ」
大きな声で名前を呼べばピタリと動きが止まった。既で阻止。据え膳食わぬは……という言葉を思い出したが酔った勢いほど後悔するものもない。残念な気もするが、自分よりも後悔するであろう長谷川さんのことを考えて止めた自分偉い。
無事に阻止したし、この状況から逃げようとしたが。
なんで?
「あの、長谷川さん? 起きたいのでどいてもらってもいいですか?」
「だめ」
だめかぁ。押さえられている手は全く動かない。
力も強いんですね、と違う方向に思考が逸れていく。
「飲み過ぎてもないし酔ってないし。ねぇ、橘さん……キスしたい」
首を傾げてだんだんと距離が近くなる。
あれ?さっきと似た状況では?
「長谷川さんッ」
大きな声で呼んだが「黙ってて」と一蹴りされてしまった。
どうしよう。このままではしてしまう。嬉しいが、なんか違う気もするし。けど、強く拒否できない自分がいて……。
時間にすれば数秒なのに、目の前の光景がゆっくりと見える。
ふにっ。
柔らかいものが触れた。咄嗟に目を瞑ってしまったが、少しだけ薄目を開けて見ると、目の前にあるのは長谷川さんの顔面の一部だろう。
だとしたら触れているのは間違いなく長谷川さんの唇だ。
私より少し高い長谷川さんの熱が、唇を通して移される。
冷静さが半分。パニックなのが半分。事実を認めてしまえば、体の熱と顔の熱が数度上がった気がした。
心臓の音が頭にも響き渡って、体全体が脈打ってるみたいだ。
ちゅぅっ。
長谷川さんが離れる時に、唇を吸われた音に恥ずかしくなる。
私を見下ろしながら唇を舐める仕草がまた……。無性に恥ずかしすぎて、開放された両手で顔を隠してしまった。
「いやだった?」
不安げな声に指の隙間から盗み見るが、長谷川さんの顔が影になっていて表情が見えない。
「いや、では……なかったと言いますか、なんていうか」
「……橘さんがいけないんだもん」
ごにょごにょと言い淀んでいたら、私のせいにされていた。
なんで私が?なにかしたんだろうか。フル回転でここ最近の行動を振り返るが記憶にない。
ぽたり。頬に冷たい何かが当たった。それがなにか。手を離して長谷川を見ると、泣いていたのだ。
「長谷川さん? なんで泣いてるんですか」
急に泣き出して慌ててしまう。
「だって……」
そう言いながら、流れる涙はそのままに泣いている。
「だって、橘さんが覚えてないから」
「えっ、いや。私、もしかしてなにかしちゃいましたか?」
覚えてない。全く覚えていないのだ。長谷川さんを泣かせてしまうほどの出来事。一体何をしたのか。色んな意味で焦るけど、どうしたらいいのかも分からないし、どうにも出来ない。
「この前の飲み会の時に、私のことを口説いたのにっ……」
「えっ」
誰が誰を口説いたと?いつ?どこで?何時何分?地球が何回まわったとき?
わからん。本当に覚えてなくて、違う人なのではと思ってしまう。
「前回の宅飲みの時、橘さんはかなり酔っ払ってたから覚えてないのかもしれないけど、私のことを口説いてきたのっ」
前の飲み会。宅飲み。
………………。
覚えてないはずだ。泊まりはしてないものの、飲みすぎてしまった記憶があった。あの時は、一時間程寝かせてもらって終電前には無事に帰ることが出来たはずだ。けど、寝るまでの記憶が無い。なにか失礼なことはしてなかったかと思って長谷川さんに聞いたが、ないと言っていたはずで。
あの時かぁ。やらかしてたのね。
「すみません」
とにかく謝らねばと謝罪の言葉を口にすると、長谷川さんの表情が曇った気がした。
「すみませんってことは、私のことは好きじゃなかったってこと?」
「えっ、いや……」
「私だけが気にして、勝手に好きになってて、こんなことっ……」
長谷川さんの腕を引っ張り、私の方に倒れさせて強く抱きしめた。
「覚えてなくてすみませんの方です。好きです。長谷川さんのことが好きです」
「おぼえてなかったくぜにぃ」
泣きながらもしがみついてくる仕草が可愛くて、場違いだが口元が緩んでしまう。
「好きです。私と付き合ってくれませんか?」
「…………つぎあう」
長谷川さんの頭を撫でながら髪を梳く。それを何度か繰り返すと呼吸も落ち着いてきた。
「……もっと好きって言って」
私の力以上に抱きしめられたかと思えば、そんなことを言われて。
身も心ももたぬ。
何度も好きだと囁けば、腕の中で嬉しそうに身じろぐ長谷川さんが可愛くて、もういいと言われるまで言い続けた。
始まりはどうであれ、こうして長谷川さんと私は付き合い始めた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます