ツキビト
佐倉みづき
『誰があくまで殺したか?』
1.悪魔事件と女公爵
人は誰しもが欲を持つ。三大欲求の他、誰もが大なり小なりの望みを抱えているものだ。
自分が一番優れていたい。他者を蹴落としてでも認められたい。大金を手に入れたい。世界中の美味を食べ尽くしたい。美男美女を侍らせたい。いつまでも惰眠を貪っていたい。怒りに身を任せ、全てを滅茶苦茶にしたい。湧き起こる際限のない欲に溺れた時。人は悪魔を作り出す。
決して弱さを見せることなかれ。心の隙を狙うモノがいる――
◇ ◇ ◇
シュルト国北邦、ファウスト公爵領郊外。変死体を発見したとの通報があり、二名の警官が現場に急行した。
「酷いな……こりゃあ悪魔の仕業だな」
現場を一瞥したベテラン警官、マルコは呟いた。彼の言う通り、遺体は酷い有様だった。首はありえない方向にひしゃげ、骨がはみ出していた。体のあちこちには鋭利なもので傷つけられた跡がある。傷はどれも深く肉を抉り、内臓もまろび出ていた。人の仕業とは到底考えられず、怪力を持つ獣に襲われた、と評するのが相応しい惨殺体だった。
「悪魔?」
初々しさの残る部下のハンスは青い顔で口元を抑えながら首を傾げる。
「なんだ、若いの。知らねぇのか?」
「自分はつい先日こちらに赴任してきたばかりでして……」
シュルト国は元は別々の小国であった七つの領地から成り立つ。そのうち北端に位置するファウスト公爵領には合併以前の独自の文化や慣習が未だに根づいている。遠い南部のヴォルスト領の田舎で生まれ育ったハンスにとっては同じ国でありながら未知の世界でもあった。
「ああ、そういやそうだったな。だったら覚えとけ。ここらでよく起きる、明らかに人の力を超えた超常事件はな、悪魔の仕業ってのが常識だよ。悪魔ってのはな、人間の欲望から生まれる怪物のことだ。そいつらは欲望のままに暴れて、今回みたいに人に危害を加えることだってある」
マルコの説明を受け、ハンスの顔色が一層青褪めた。
「そんな……じゃあ、どうやって犯人を捕まえるんです?」
「悔しいが俺らは専門外だよ。専門家に祓ってもらうしかねえ。俺達じゃ人間は取り締まれても、悪魔は取り締まれんからな」
その時だ。現場に集った野次馬がにわかにどよめいた。二人の警官もどよめきが起きた方角へと視線を向け――ハンスは息を呑んだ。
凄惨な殺人現場にはそぐわぬ美しい女がいた。それはまるで、天上から舞い降りた天使、或いは精巧なビスクドール。白磁の如ききめ細やかな肌。長い睫毛に縁取られた憂いげな蒼玉の瞳。腰まで伸びた絹糸の髪は陽の光を反射して
「あれは……」
「おいでなすった。ファウスト公爵家のご当主サマだ」
言葉を失い思わず見惚れるハンスだが、マルコが苦々しく吐き捨てた台詞に我に返る。
「公爵家って……そんな天上人が、何でこんな事件現場になんか」
ハンスが驚くのも無理はない。公爵は貴族の中でも最上位の爵位を持つ雲の上の存在だ。そしてファウストといえば、この辺りを治めている公爵の名ではないか。間違っても平民のハンスが殺人現場で謁見していい相手ではない。見る限り、従者の一人もいない。不用心にも程がある。
「さあな。俺達平民には貴族サマの考えることはよくわからんよ。とにかく、あいつらは悪魔が関わってそうな事件が起きるとふらりと現場に現れるんだ。いったいどこから情報を仕入れてるんだか。追い返そうにも相手はこの地を治める領主だ。好きにさせるしかないんだよ」
「はあ……」
「元々、あそこの家は先代の頃からいい噂がなかったんだ。悪魔の研究をしているだの、屋敷に悪魔が棲んでるだのな。挙句、あんな事件まで起きたんじゃあ――」
「失礼」
鈴を転がしたような声が遮る。いつの間にか、女公爵はすぐ近くまで迫っていた。マルコはばつが悪そうに閉口する。外見だけでなく声まで美しいのか、とハンスはうっとりと聞き入ってしまう。
「はじめましての人? こんにちは」
うら若き公爵の後ろから、金髪の少年がひょっこりと現れた。整った顔の造形が似通っているため、彼女の弟だろうか。惨い遺体がすぐそばにあるというのに、少年の屈託のない笑みの前ではつい気が抜けてしまう。
「ええ、自分は先日こちらに赴任しました。ハンスといいます」
「ふーん、そうなんだ。この前はいなかったよね?」
「お詳しいですね。仰る通り、一週間前に南部からこちらの領地に来たばかりなんです」
「そうなんだ。あのね、ぼくはリヒト。リヒト・ファウスト。こっちはミカエラ姉様」
「リヒト、早く行きましょう」
リヒトを嗜めたミカエラと視線がかち合うも、すぐに逸らされた。すれ違いざまに小さな会釈だけされる。人懐こいリヒトと比較すると、ミカエラには愛想がなかった。姉弟でも随分と性格が違うようだ。
死体の前まで赴くと、姉弟は検分を始める。若い娘や幼い少年には酷な現場ではないか、ハンスは気が気でなかったが、惨殺死体を前にしても、ミカエラは顔色一つ変えない。肝が座っているというよりは、恐怖や嫌悪といった人並みの感情が欠落しているように見えた。
死体を一通り検め終えたミカエラはマルコらに向き直る。
「かなり酷いですが、悪魔の仕業に間違いはないようです。彼らに連絡は?」
「ああ、もうすぐ来ると思いますよ」
ミカエラの問いに応じたマルコの肘をつつき、ハンスは小声で訊ねる。
「あの、彼らって?」
「さっきも言っただろ。悪魔退治の専門家――教会の
マルコの言葉が終わらぬうちに、野次馬を掻き分けて一人の男が現れた。
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