早稲田大学 奥島孝康元総長の思い出

@bingoyotaro

第1話

今年(2024年)の5月に早稲田大学の元総長であった奥島孝康氏が亡くなられた。だが、私はここで「奥島氏が亡くなられたという訃報に接し、心より哀悼の意を表します」というありきたりのことを書きたいわけではない。奥島氏という人物像やその業績を褒め称える美辞麗句に彩られた追悼文は、氏の教え子や実業界の関係者など(氏は商法が専門であった)によりこれから山と言うほど出てくるだろう。果ては「奥島先生記念論文集」なども出版されるかもしれない。だから「惜しい人を亡くしました」などというありきたりのお悔やみの言葉を発するのは他の方にお任せします。


私がこれを書いているのは、奥島氏の経歴(註1)を読んだ若い人達が、特に東京の実情を知らない地方の受験生達が、彼と同じことを志すのではないかと心配したからであり、彼らが変な幻想を抱くことを危惧したからである。今から45年ほど前に早稲田大学の大学院に進学し、苦渋を舐めた私の口からどうしても言っておきたいことがある、「それだけは止めてほしい」と。


註1奥島氏の略歴( 出典:インターネット)

1939年4月16日 愛媛県北宇和郡鬼北町(旧日吉村)生まれ

1958年3月 愛媛県立宇和島東高等学校卒業

1963年3月 早稲田大学第一法学部卒業

1965年4月 早稲田大学法学部助手

1969年4月 早稲田大学大学院法学研究科単位取得

1969年4月 早稲田大学法学部専任講師

1971年4月 早稲田大学法学部助教授

1976年4月 早稲田大学法学部教授

1976年8月 パリ大学研究員(2年半)

1981年5月 早稲田大学教務部長[10]

1986年11月 早稲田大学図書館長(1990年退任)

1990年9月 早稲田大学法学部長(1994年退任)

1994年11月 早稲田大学14代総長(理事長・学長)(2002年退任)

1996年4月 学校法人早稲田実業学校理事長(2002年退任)

2000年9月 ロシア極東大学名誉博士

2001年10月 高麗大学校名誉博士

2001年11月 フランス教育功労章コマンドゥール受章

2002年6月 オレゴン州立ポートランド大学名誉博士

2002年10月 復旦大学名誉教授

2002年12月 北京大学名誉博士

2003年5月 埼玉県公安委員会委員(2006年1月~10月まで委員長、2009年退任)

2003年6月 朝日新聞社監査役(非常勤)(2007年退任)

2008年11月 日本高等学校野球連盟第6代会長

2010年3月 早稲田大学定年退職

2010年4月 公益財団法人ボーイスカウト日本連盟理事長(2020年退任)

2010年6月 大相撲野球賭博問題の発生を受け日本相撲協会が設置した外部有識者による特別調査委員会委員

2010年7月には「ガバナンスの整備に関する独立委員会」座長に就任

2011年4月 学校法人早稲田大阪学園(大阪繊維学園)理事長

2013年4月 白鷗大学学長

2021年3月 白鷗大学学長退任

2023年4月 瑞宝大綬章受章

2024年5月1日 肺炎のため東京都内の病院で85歳で死去


これを読むと本当にきらびやかというかこれだけの人生を歩むことができたなら、大往生を遂げたと言っても過言ではない。男冥利に尽きるとはこのことか。


この華麗な経歴の持ち主である奥島氏は愛媛県の出身で早稲田大学に入学と同時に印刷会社か何かでアルバイトをしながら苦学して同大学を卒業し、大学院を経て同大学の法学部の講師になっている。私も今から50年ほど前に奥島講師の授業に出たことがある。会話などはしたことがないが穏やかな人柄でとても落ち着いた感じがした。地方の片田舎からそれこそ風呂敷包み一つで上京し、自活をしながらここまでの立身出世を遂げたというのは本当に圧倒されるくらいの感動を覚える。


だが、それはさておき、ここからが本題である。今の若い人達、特にこれから早稲田大学などを目指そうとしている人達はこうした非の打ち所のない奥島氏の経歴を見て誘惑にかられないでほしい。間違っても奥島氏の真似をすれば自分もこのように成功できるなどと思い込んではいけない(もちろん、アルバイトをしながら大学を出るという点は素晴らしいが)。それは誘蛾灯に引かれる虫のようなもので、「飛んで火に入る夏の虫」、「カモがネギを背負ってくる」とはまさにこのことを指す。


奥島氏のように地方から東京に出てきて功成り名を上げるというような例は本当にごく少数であり、それを真似るのはパチンコの台の前に立って、「ここに座ったら大当たりがすぐにでも来るのではないか?」と淡い期待を抱くのと同じだ。まず100パーセント確実に他のギャンブラー同様すってんてんの一文無しになり、電車賃すらなくして徒歩で泣きながら家路に着くことになるだろう。


表現は悪いが奥島氏は私立大学という教育機関にとっての一種の「人寄せパンダ」であり、パチンコ店で言えば「見せ台」である。何百人、何万人という中のたった一人か二人の成功例だけを聴衆に見せて、それで多数の無垢な客を呼び込み金を落とさせるのだ。また、マスコミも共犯者であり、私が大学受験の勉強をしていた高校生の頃は旺文社の参考書をしばしば買ったものであった。そうした参考書の帯には決まって「凸凹大学英文学科教授 馬野飼三郎執筆」などと書いてあり、権威付けをしていた。特に著者が有名大学の先生であればあるほど売れ行きがよい。


これは高校野球の甲子園に似ている。新聞社、テレビ局、文部科学省、野球用具のメーカー、そして高野連などが一体となって高校球児を食い物にする。プロ野球選手になれるのは年に100人程度だし、プロ入り後何年もプロの世界で喰っていけるのはさらにそのうちの一人ぐらいにしか過ぎない。高校球児や保護者達に宝くじと同じくらい確率の低い博打を打たせようとし、「契約金が一億円出た!」と大々的にPRして若者をその気にさせる。


ドラフト1位でプロ野球に入団しても高校や大学時代に肩を使いすぎたり、その他の部位の筋肉を酷使していたため、プロ入り後すぐに退団を余儀なくされる選手も多いと聞く。


新聞やテレビの報道、そして野球関連の商品を扱うメーカーは派手にプロ野球選手の豪奢な生活ぶりを庶民に伝達して、これでもかというほどその消費意欲を煽る。何のことはない、プロ野球選手はただそうした資本家側の利益を得るために舞台の上で踊らされている役者のようなものだ。しかもその役者人生は短い。30歳を過ぎてプロ野球の選手をしている者は希であり、野球以外他に何の特技も資格もないまま世間に放り出される。


そういう観点からするとプロ野球も大学院の制度もネズミ講に似た制度だろう。「早大の卒業生にはこんなにもたくさんの有名人がいます。あなたもその一人になれるかも」と言って毎年何万人もの学生を引き寄せる。そして、その大半が地方の大学に進学していても大して変わらないような結果を得て消えていく。今はやりのザイム真理教ではないが、頂点に立つものが利益を得続けるためには絶えず新しい信者を獲得し続けなければならない。そのために教祖の周辺にいる腰巻き連中というか太鼓持ち達が教祖を宣伝材料に使う。化粧品や健康食品、そして薬品のために行われているCMの宣伝と同じだ。


私は大学院が必ずしも悪いとは言わない。しかし、大学院に進むのであれば、望み通り大学に残れなかった場合の退路も用意しておいた方がいいだろう。所詮、こんなところは学問の場という名の付いた知的遊技場に過ぎない。


私の友人で東京出身の院生がいた。彼は都内にたくさんの不動産を所有する金持ちのボンボンで、生活には困らない。人生は長いから退屈しのぎに大学院に通っているという感じであった。また、司法試験に受かっている人もいた。学部は違うが既に高等学校の教員免許を取得していて、もう少し勉強がしたいというので大学院に来ていた人もいた。こういう院生達は大学院に通ってもよいだろう。まして、実家が都内にあって生活の心配がないというのであればなおさらである。


また、レベルが違うのが東京大学である。私は日本において欧米でいうような大学と呼べるようなものは東大しかないと思う(無論、旧帝大や一橋大学、東京工科大学、東京医科歯科大学などの例外はあるが)。それは私が東大の院生の実態をこの目で見ているからである。


私が知っている一人の院生は灘校から東大理Ⅰにストレートで入り、修士課程2年、博士課程3年をいずれもストレートで進んでいた。彼は「僕の場合、東大にポストの空きがないのでこれからカナダの大学に勤めることにしている」とあっさり言ってのけた。また、別の院生は「文部省(当時の名称)にコネがあるので、そっちで面倒をみてもらっている」と語っていた。東大と文科省は太いパイプでつながっているのであろう。文科省は全国の大学をコントロールできる組織なので、人事権も強い。早大にはそんなものはない。たかが私学である。


若い人達は現実に目を向け、ずる賢し世間の大人達が造った狡猾な罠に是非気をつけてほしい。「汝自身を知れ」とは言い得て妙である。これに対して「少年よ大志を抱け」は勇ましく響きの良い言葉だとは思うが、言葉の調子に酔いしれて先人の成功例だけを真似し、大志の方向を間違えると年を取って老いたときに後悔だけが残る。今の前途有望な若い人達に私と同じ轍は踏まないでほしいと切に願う。


それは何故か?それは奥島氏の時代と今の時代はまったく違うからである。今、早稲田大学に進学し、苦学して大学院などに進学しても大学の教官にはまず100パーセントなれない(東京大学の大学院に進学した場合を除く。あそこは例外)。・・・というか、早大などでそもそも大学院に進学する意味がない(と言い切ってはいけない面もあるが・・・)。


奥島氏は1939年の生まれであり、この頃の年代の若者で大学に進学するような人はほとんどいなかった。100人中1人ぐらいだったのではないか?だから、彼のように大学院などに進学するというのはとても価値があった。現在では大学院に進んでも2~3年で助手などに採用されることなどまず不可能といってもいいくらいだが、彼が大学院に進んだ60年代頃ならまだ何とかなった。


私は彼よりも15年遅れで生まれている。そして、この15年の差が非常に大きかったのだと今思う。私が高校三年生になる頃、すなわち、彼の誕生からわずか15年が経過したうちに日本の若者の約30パーセントが大学に進学するようになっていた(今は50パーセントくらいか)。これでは大学卒は言うまでもなく、大学院卒でも希少性はまったくなくなってしまう。


実のところ私が早稲田の大学院に進学したのは奥島氏に影響を受けたわけではない。私に最も強い影響を与えたのは渡部昇一氏(註2)で、同氏は奥島氏よりさらに9年早い1930年の生まれである。


註2渡辺氏の略歴( 出典:インターネット)1930年10月15日、山形県生まれ。上智大学大学院修士課程修了。ドイツ・ミュンスター大学、イギリス・オックスフォード大学留学。Dr.phil.(1958)、Dr.Phil.h.c(1994)。上智大学教授を経て、上智大学名誉教授。その間、フルブライト教授としてアメリカの4州6大学で講義。専門の英語学のみならず幅広い評論活動を展開する。1976年第24回エッセイストクラブ賞受賞。1985年第1回正論大賞受賞。英語学・言語学に関する専門書のほかに『知的生活の方法』(講談社現代新書)、『古事記と日本人』(祥伝社)、『渡部昇一「日本の歴史」(全8巻)』(ワック)、『知的余生の方法』(新潮新書)、『[増補]決定版・日本史』(育鵬社)、『決定版 日本人論』『人生の手引書』『魂は、あるか?』『終生 知的生活の方法』(いずれも扶桑社新書)などがある。2017年4月17日逝去。享年86。


渡辺氏はマスコミに取り上げられることも多く奥島氏よりも有名人だったが、中でも彼を時の人にしたのは彼が40代の半ばに書いた、すなわち、今から40年くらい前に書いた『知的生活の方法』という本であった。以下はインターネット上の同書の要点に関する文章の引用である。


------------ココカラ

「知的生活とは、頭の回転を活発にし、オリジナルな発想を楽しむ生活である。日常生活のさわがしさのなかで、自分の時間をつくり、データを整理し、それをオリジナルな発想に結びつけてゆくには、どんな方法が可能か?読書の技術、カードの使い方、書斎の整え方、散歩の効用、通勤時間の利用法、ワインの飲み方、そして結婚生活……。本書には、平均的日本人に実現可能な、さまざまなヒントとアイデアが、著書自身の体験を通して、ふんだんに示されている。知的生活とは、なによりも内面の充実を求める生活なのである。


知的正直――英語には、「知的正直(インテレクチュアル・オネスティ)」という言葉がある。知的正直というのは簡単に言えば、わからないのにわかったふりをしない、ということにつきるのである。ほんとうにわかったつもりでいたのに、それがまちがいだった、ということはある。それはあてずっぽうのまちがいとは違うから、そういうまちがいなら、まちがうたびに確実に進歩する。しかし傍から見ていたのでは、あてずっぽうでまちがえたのか、ほんとうにそうだと確信しながらまちがったのか、その辺の区別はつかないのである。その区別がつくのは、自分だけということになる。そこで「己れに対して忠実なれ」という、シェイクスピアの忠告が生きてくるのである。――本書より」

-----------ココマデ


私も20代の初期に彼の本を読み、その内容に触発された。知的生活に憧れたのだ。彼の説では「一生懸命勉強して、大学から大学院に進み、そして海外の大学に進学して博士号を取得すれば知的生活が開ける」ということになっていた。そこで一念発起し早稲田大学の大学院に進学したのであるが、1930年生まれの渡部氏の時代から20年近くが経過した大学院というのはまったく実情が異なっていた。いわゆるオーバードクターというのだろうか、大学院は長く在籍してもまったく研究職にありつくことのできない院生であふれかえっていた。


私は大学生時代に後輩から「先輩は騙されやすそうな顔をしてますね」と言われてむっとなったことがあるが、この評価は当たっていたと思う。渡辺氏の著作物に私は乗せられて進路を誤った。彼は小さい時から講談社の少年向けの本が大好きだったとのことだが、その影響もあるのだろうか、彼の著作物は確かに読んで面白いというか書き方は上手である。小説を読んでいるような感じで彼の成功物語を聞いてしまう。


ここで『知的生活の方法』p.72の文章を読んでみよう。


------------ココカラ

貧乏学生時代


貧しくて、しかも知的生活に激しくあこがれている若いときは、食事を倹約したり、バス代を倹約することは案外苦にならないものだ。私も大学生のときは極度に貧しかった。英文科に何人いたか知らないが、私より貧しかった人間はいなかったと断言してもよい。家に頼めば少しは無理して送ってくれたかも知れないが、すでに六十を越え、これという収入もない老父母にどうして余分の送金など頼めたであろうか。またアルバイトをすればよいと言うが、そうでなくてさえも本を読み、語学をマスターする時間が乏しいのに、どうしてアルバイトのための時間がさけようか。残された道は徹底的な節約をして、育英会の奨学金のみで生きることであった。

 もちろん煙草はすわない(そのおかげで私はいまも煙草はすわない)。喫茶店には入らない(大学生時代のたった一回の例外は、先輩が来ておごってくれたときだった)。映画は見ない。当時はテレビ出現前の映画全盛時代で、映画を見ないということは、いまならさしづめテレビを見ないことに相当するだろうか。

-----------ココマデ


なんとも巧みな筆致であり、チャカチャカ、チャカチャカ、チャンチャンと三味線を弾きながら語っているようでその調子の良さに思わず引き込まれてしまう(これと同じような作家に邱永漢がいた)。渡辺氏は語学に造形が深くそれで学者の道に進まれた訳であるが、作家になっても相当な成功を収めたかもしれない。この文章の後も延々と貧苦に耐えながら勉強を続けていき、そのおかげで今があるというような成功談になっていくのであるが、このへんの文章も非常に上手い書き方なので興味のある方はお読みになったらいい。


20代の時彼の本に触れた私は、渡辺氏のように机に向かいながら一生懸命勉強することこそが成功への道なのだと思い込んだ。だが、現実は彼の時代とまったく異なっていた。机に向かって勉強したところでまったく生活レベルは向上しない。20代になってまともに働きもせず、専門書ばかり読んでいても誰も金などくれはしないのである。渡部氏から四半世紀遅れて生まれた私たちの時代には事情はまったく変わっていた。昨日の成功例は今日の失敗例である。大学院に何年在籍したところで大学教員の道など開けはしない世の中になっていた。


ただし、ここで断っておくが渡部氏が『知的生活の方法』の中でまったくでたらめなことを書いているわけではない。例えば、会社に早めに出社して翻訳の仕事をし、首都圏に大規模な土地を購入した人の話など、いわゆる副業のすすめ的な内容のことも書いてあり、これは大いに現代でも通用するところである。結局のところ問題なのは私が彼の本を読んで勝手に早合点し、大学院に進めば渡辺氏のように成功できると思ったことにあるのかもしれない。


教授は博士課程への進学も勧めたが、博士課程に進学したところで教官になるまで何年かかるか分からないのではその価値もないように思えた。しかも、この間は無給である。生活費や学費はすべてアルバイトで稼がなくてはならない。30代まで、あるいは30を超えてまでそんなことをやっていられるか?現に早大の大学院には30歳を超えてまだ院生をやっている人が何人もいた。最終的に博士号を取ったところで行き先がないのである。


私は修士を終えた段階で既に150万円近い奨学金の借金を背負っていた。この返済のために私は毎年16年間9万円を返済し続けた。博士課程に進むとなればさらに400万円近い借金を背負うことになる。


私は仕方なく途中で諦めて故郷に帰り、県庁の上級職に合格したが、その時私は既に30歳近くになっていた。「でも、まぁ、いいか。上級職で採用されたのだから、将来は幹部職員になれるかもな」と少しは満足した。


ところがである。何と私が配属されたのは高等学校の事務職員であった。役職は主事であり、一番下っ端だ。本来であれば高卒の学歴の人がなるような職種に大学院卒の私がなったのである。私は10年という長きにわたり遠回りをしたことになる。高校を出てすぐに就けるような仕事にありつくために、わざわざ東京まで出て行き、アルバイトで条件の悪い仕事をしながら、高い授業料を払って大学院まで進学しながら、結局最後は高卒の職場に就職というのは何とも皮肉な話ではなかろうか?


たった数ページの修士論文を書くためにわざわざタクシーを飛ばして東京都港区赤坂にあるジェトロの事務局まで行き、資料をコピーしたこともあった。大学院の授業にも毎回欠かさず出席し成績は全優であった。しかもその間生活費はアルバイトで稼いでいたし、授業料は奨学金で賄った。親の世話にはなっていない。これは奥島氏が私よりも20年くらい前にしたことと似ているのではないか?それでいて結果は高卒の職場に奉職することであった。あまりに報われない努力ではないか?


私は不満であり、頭の禿げた校長などに掛け合ってみたのだが、どうも私の年齢が問題であったらしい。そして、今後も学校事務くらいの仕事しかやらせてもらえそうもないとのことであった。


「君、諦めるんじゃないよ。高校の事務長くらいにはなれるさ。」


ふざけた話であり、私はやけくそになって県庁を辞めた。そして、塾の教師をしたり、宅急便の配達をしたりしながら英語の勉強を続け翻訳家になって現在まで働いてきた。翻訳家になれたのインターネットのおかげであり、これがなかったら本当に私の人生は無に帰していただろう。


まったく恐ろしい話で、大学院だの、学者だの、知的生活だのと東京で踊らされているうちに人生を棒に振ってしまったようなものだ。考えてみれば学者だって商売人であり、自分の知識を売り物にして客(学生)を集めなければ商売にならない。「勉強しているから偉い」とか「学問に励む人が人生に成功する」とか、いろいろ言うが、これも一種の宣伝文句なのではないか。


そういう意味では学問の道も、賭け事の道も、女や酒に溺れる道も、どれも胴元が人を誘惑して金を巻き上げるという点では同じことのような気がする。大阪の商人は店の若旦那が学問に熱心だというと震え上がってそれを止めさせようとする、といった話を聞いたことがある。


「若旦那、いくら酒や女に溺れはってもようございますが、学問だけはお止めください。あれは店が傾く元凶になりますさかい」と泣いてすがった・・・らしい。つまり、学問に夢中になると現実の商売が馬鹿らしくなり、いつも頭の中であれこれ知的なのか痴的なのか、訳の分からない妄想に取り憑かれて現実的でなくなるから、というのがその理由であろう。


親たちは自分の子どもが机に向かって勉強をしているのを見て、楽しみに感じるかもしれないが、20歳を過ぎてまだそんなことをやっていたら楽しみどころか、先行きに恐ろしいことが待っている可能性がある。


私は70歳になって思うのだが、20歳から30歳にかけての10年間は仕事を覚えるために非常に重要な期間であり、この時期にしっかり手に職を付けておかないと人生の後半になって仕事を続けることは難しくなる。


この時期に学者になりますとか、司法試験を目指しますだとか、あれこれ理屈を付けて働かないでいると、あっという間に30代を超えてしまう。私の知人にも何人かそういうのがいるが、やはりその後の人生において大した働きはしないままで終わっている。


こういうのにはまった人物が他にもいるのでここにご紹介したい。以下はインターネットからの引用である(このページは引用可と著者も書いている)。


------------ココカラ

「私、宮崎伸治は、理性の声に従って生きることが人間の幸せにつながるとの信念のもと、理性を磨くことを人間の主要な義務の一つとして捉え、常に理性を磨く。その方法として読書、学位取得、資格取得、内省などを用いる。その挑戦する姿をホームページで公開し、同じ意思をもつ人々の勇気を鼓舞するとともに有益な情報を提供することが私の当ホームページにおけるミッションである。


広島県三原市出身。現在、東京都中央区在住。

青山学院大学国際政治経済学部卒業(学士(経済学))

英国国立シェフィールド大学大学院英語学研究科ディプロマ課程修了(PGディプロマ(英語学))

英国国立シェフィールド大学大学院言語学研究科修士課程修了(修士(言語学))

金沢工業大学大学院工学研究科修士課程修了(修士(工学))

慶應義塾大学文学部卒業(学士(哲学))

上智大学大学院哲学研究科単位取得

日本大学法学部卒業(学士(法学))

英国国立ロンドン大学哲学部卒業(学士(哲学))

日本大学商学部卒業(学士(商学))

英国国立ロンドン大学神学部サーティフィケート課程終了(サーティフィケート(神学)


(MOOC歴)

Coursera

「Learning How to Learn!」(カリフォルニア大学サンタバーバラ校)終了

「Introduction to Philosphy」(エジンバラ大学)終了

「How Things Work」(バージニア大学)終了

「The Addicted Brain!」(エモリー大学)終了

「Effective Problem-Solving and Decision-Making」(カリフォルニア大学アーバイン校)


(専門学校歴)

IT関係=NCBコンピュータ教習所(スタンダードコース2年課程)、東京インターネットアカデミー、東京パソコン倶楽部、JIPS門前仲町校、アウズ銀座校・錦糸町校・新宿校、ISA東京フォーラム校・新宿校、WIN銀座校・新橋校、ナガセPCスクール

語学関係=日本翻訳家養成センター、英会話学校バイリンガル(横浜校)、ベルリッツ(横浜校、自由が丘校、銀座校、有楽町校)、プラディハウス、NOVA、ハロー通訳アカデミー、朝日カルチャーセンター、グレッグ外語学院、慶應義塾外国語学校ドイツ語中級、アテネフランセ、エコール・サンパ、日伊学院

その他=書道教室、柔道教室、ピアノ教室、話し方教室、がくぶん総合教育、東京芸術学舎


資格=125種類の資格保持(等級の異なる同じ種類の資格は1種類として数える)

(資格王としてマスコミ各紙に取り上げられる)。

(そのうち英語・翻訳関連の資格が33種類、IT関連資格が47種類、法律関連資格13種類)

今後、「仏検2級」「伊検準2級・3級級」「西検3級」「CompTIA A+」「歴史能力検定準3級」「ビジネス実務法務検定1級」「WEB検定(WEBプロデューサー)」「経営学検定中級」「オーストリア政府公認ドイツ語検定(B2)」「インターネットユーザー能力認定試験上級」「独検準1級」「ホームページ制作能力認定試験」「FLASHクリエイター認定試験上級」「CIW Perl」「CIWサイトデザイナー」「CIW Eコマース」「ホームページビルダー検定1級」「数学検定2級」「ファイナンシャルプランナー検定」「イータイピング・マスタ級ー2級」「インターネット実務検定1級」「パソコンネットワーク利用技術試験エキスパートクラス」を受ける予定。」


-----------ココマデ


宮崎氏は現在60歳くらいらしいが、現在彼の職業は警備員である。これだけの経歴を持ってしても今の世の中では大学の教員にはなれない。


日本では太平洋戦争に敗北後、学制改革によって多くの大学が生まれた。そのおかげで大学の教官が粗製乱造された。英文学の大学院生が英文法の知識も大してないのにそのまま英文学部の教官に収まるというようなことも起きている。これは私が確かに目撃したのだが、ある英書の購読の際に明らかにその教官は間違った解釈の仕方をしていた。彼があまり英文法の知識がないことはその後徐々に明らかになった。何しろ、thatが名詞節で使われるのか、それとも関係代名詞として使われるのか理解していないのだ!無論、関係代名詞を関係副詞で言い換えることや話法、仮定法、分詞構文、動名詞と不定詞の違いなどまるっきりちんぷんかんぷんである。そのくせ私が訳した文章のことを「でたらめだ、なっていない」となじるのであった。


今はどうか知らないが、当時はこんな有様であった。それは無理もないと同情する余地もある。彼らは昭和の初め(1920年代)の生まれで学徒動員などで軍隊に採られ、ろくに勉強する暇もなかった。中には神風特別攻撃隊の一員として250キロ爆弾を積んだ零戦に乗り、そのまま敵艦に体当たりしていった者もいるくらいだ。そんな時代だからこそ、一冊の英書を読むだけでも「大学教授でございます」が通じたのであろう。


時の経過と共に世間の事情も大きく変わってくる。今時「大学院を出ています」と言ったところで誰も相手にしてくれない、まして尊敬の目で見られるなどということはほとんどあり得ない。「あんたいい年してまだ学生やってんの?」と蔑まれるのが関の山であろう。それにしても大学院とはうまく考えたものである。学部に来る学生だけではまだエサが足りないとばかりに、屋上屋を架すというか、さらに大学院なる組織まで作り上げ学生を誘い込もうとする。


誤解しないでほしいのは、こう言ったからといって私は奥島氏のことを非難しているわけではない。そうではなくて、彼のサクセスストーリーをそのまま鵜呑みにしないでほしいと若者に警告しているだけなのである。彼がやったのと同じようなことを真似てやっても大学の教授になったり、ましてや総長になったりできるわけではない。


彼のように80代以上の人にとって大学院に進学することは当時としては画期的なことであり、授業料の投資効果が高い進路選択である。本当にいいところに目を付けたものだと関心する。先を見る目があったというべきか、あの頃であれば現在のような苦労をしなくても大学の教官になることはたやすかったはずだ。日本全国に雨後の筍のようにどんどん大学はできるし、ほっておいても若者が我も我もと大学に押しかける。


世は高度経済成長の時代である。経済の拡大に連れて大学もマンモス化する。早稲田大学の近辺の髙田の馬場あたりでは日本全国から集まってくる浪人生を対象とした予備校が乱立していた。予備校の生徒などは教室に寸分の隙もないほどに押し込められて授業を聞いた。それぐらい東京には受験生や予備校生があふれかえっていたのだ。早大の先生の中にもこうした予備校で出前の授業をし、お小遣い稼ぎをしていた者もいた(今はどうか知らないが・・・)。


こうした受験戦争の頂点に立つ大学側の教職員は左うちわである。おまけにいったん大学の教官になってしまえば、大学目指して集まってくる受験生の波の流れに乗っているだけで自分の地位は年々高くなっていく。今から50年くらい前の早大の受験生は15万人もいた(2024年度は約9万人)!受験料や授業料が潤沢に入ってくるので大学側は大儲けである。こんなに美味しい商売はない。殿様商売とはこのことか?


そういう意味では、先にも書いたが、有名大学の教授というのはある種の広告塔というかアドバルーンのようなものである。それにつられて親が出してくれるなけなしのお金をはたいて受験生が押し寄せる。これを適当にあしらっているだけで、授業内容は何十年も変わらないままのことをやっておけばいい。ただし、ここで断っておくが奥島氏がそうだと言っているのではない。あくまで一般論である。奥島氏は総長になったぐらいであるし、論文も多く書き、学会にも頻繁に顔を出して精力的な学者としての活動をされたことと推察する。


しかし、玉石混交というか、奥島氏のように優秀な教授もいた反面、大した能力もないのに戦後のどさくさに紛れて教授になったようないわゆる「なんちゃって」先生も多かった。ゼミの女子大生にちょっかいを出すなど、今ならセクハラ教授として訴えられかねないような行為に及んでいた教授もいた。この教授はその方面に関して手が早いので有名だった。年輩の教授の中には年がら年中しょっちゅう休講を繰り返しているもうろくしかけた教授もいた(米国の大学では休講をするというのは大変なことで、すぐに大学の事務室から教授に対してなぜ休講にするのかと問い詰める電話がかかってくるという)。極めつけは、自分の息子を同じ早稲田大学の教授に仕立て上げた古株の教授だろう。それが悪いというのではないが、こうした世襲制にはどこか割り切れないものを感じる。


反面、国立大学から教えに来ている教授はさすがに優秀であった。元裁判官で民事訴訟法の講義をしていた教授は非常に優秀な先生であったし、東大卒で弁護士をしている講師の先生も優秀であった。こうした先生に比べるとどうも早稲田の生え抜きの教授というのはさして感銘を受けるほどの先生がいなかったという印象がある(奥島氏のような例外はある)。


もう何十年も前から「大学の教授くらい気楽でいい商売はない」とマスコミなどで取り上げられている。米国の大学では教授の任用に際して、だいたいの場合、契約期間が設けられている。しかも、誰を教授に任命するかは教授会ではなく大学の運営組織である理事会が握っている。理事会が教授を誰にするかを決めるのであり、教授としての任期も定められているから、いったん教授になってしまえば後は安泰というわけにはいかない。絶えず理事会がチェックを入れているので、業績を上げなければ早ければ3年くらいで契約解除になる。ハーバード大学では同大学の出身者はハーバード大学の教授にはなれないという話を聞いたことがある。また、ハーバード大学の学部出身者は別の大学の大学院に進むのが普通である。ハーバード大学の教授がそれを学生に勧めるからである。


これに反して日本の大学では教授は生え抜きが多い。同じ大学の学部から同じ大学の大学院に上がり、そして同じ大学の中で出世していく。おまけに彼らはクビになる心配はない。1年の大半は休みだし、何の研究もしないし、大して論文を書いたりしなくても高い給料をもらえる(再度断っておくが奥島氏がそうだと言っているわけではない)。現に私自身、早大のある教授が「自分みたいなへっぽこ教授でも教授をやっていられるんだからな」と自嘲気味に話しているのを耳にしたことがある。確かにこの教授はその任期中まったく論文などは書いていない。授業といえば年に100ページくらいの教材(とても大きな活字で書いてあるので文字数は大したことはない)を使って講義をするだけのことだ。私の先輩も、そのまた先輩も同じ授業を聞いている。


これを可能にしているのは、要するに彼らが先に教授職というものを手に入れたからである。そしてそれを目指して後から後からいくらでも学生が押しかけてくれるので、何の競争もなしに自分達の地位が押し上げられていく。よくもこんな大学教育でやっていけたものだと思うのだが、当時はこれで十分通用した。学生は大学に入ってしまえば大して勉強をしない。早稲田大学の周りに雀荘だらけで、学生は大学に勉強に来るのではなく、麻雀を打つための面子を揃えるために大学に来ていた。


だが、時代は変わる。子どもの数は減り、大学間の競争も激しくなる。放っておいても生徒が集まる時代は過去の話になりつつある。「教授」という存在に対する偶像崇拝はもはや通用しないのである。これからの若い人達は過去の成功談にとらわれてはいけない。そんなものにはまってしまうと、先に進んでいる人にいいようにあしらわれ、利益を吸い尽くされてしまうだろう。


とにかく現代は非常に変化の速度が速い。その変化の方向性をうまく見極め、まだ誰も気づいていないような所(ニッチな箇所)を見つけ、そこに進むことが肝要かと思う。何事も最初に新境地を切り開き、そこの征服者になることが大切なのだから。ちょうど奥島氏がやったように・・・。


















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早稲田大学 奥島孝康元総長の思い出 @bingoyotaro

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