春は来ない

あまがさ

第1話

「一緒に逃げよう」

そう言われたとき、彗ちゃんの背中をさする私の手が止まりました。少しの間、私は息をすることを忘れました。

彗ちゃんの大きな瞳から大粒の涙が絶えず零れています。

「春月、一緒に逃げよう…?」

空耳かも、という私の考えはなくなりました。

彗ちゃんは、自分の背中にある私の動かなくなった手を優しく握ってから離して、私と向き合えるように体の向きを変えました。

彗ちゃんの首に貼ってある絆創膏に目が止まりました。その下にあるのはただの傷ではないことくらい、私には分かります。

「逃げるって、どうゆう、」

自分の声が震えていることに気がつきました。彗ちゃんはまた私の手を握って、肩で大きく呼吸してから言いました。

「わかんない。でも、大丈夫。私が働いて、なんとかする」

彗ちゃんは片手を私の手と絡め、もう片方の手で私の体をゆっくりと撫でて、それから両手で私をぎゅうと抱いて

「おねがい」

と言いました。

そのあとは沈黙が続きました。冷房の音がやけに響いて聞こえます。蝉も遠くで鳴いていました。

「彗ちゃん、」

「好きだよ」

彗ちゃんは立ち上がって部屋を出ていってしまいました。

そのとき1度だけこちらを振り返った彗ちゃんは、もう泣いてはいませんでした。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る