第58話 ナイジャーとエデル

 その夜、与えられた部屋でエデルはウンウン唸っていた。夕方にヘデラに出された宿題である〝恋をしてはいけない気がする〟気持ちがどこから来るものなのか、なぜなのか、ずっと考えていたのだ。

「エディ、どした?」

 その部屋にやってくる人があって、エデルは寝台から身体を起こす。

 ナイジャーだった。

 エデルは今、この〝深淵の館〟でナイジャーと部屋を共にしている。本当は別に部屋をくれる予定だったが、そもそも深淵の館は宿屋のようで、実際にはその体を成していない。部屋数が多いわけではないのだ。だから二部屋を客間として空ける余裕はなかったので、ナイジャーと一緒の部屋で寝泊まりしていた。

 一部屋で良いと言ったのは、ナイジャーとエデル本人だった。

 そのほうが安全は守れるしな、と彼は言ったし、エデルも異論はなかった。部屋には衝立もあるのだし、十分プライバシーは守れる。そう言えば、ミューリアたちには困惑されたのを覚えている。

 二人は恋仲なのかと聞かれたのは、そのときだった。それをエデルとナイジャー、両方がきっぱりさっぱりと否定したので、この館の人たちをより混乱させたらしい。

 いい歳をした男女が同じ部屋で寝泊まりするのはおかしい、とミューリアもみんなも言ったが、部屋数がないのだから贅沢は言っていられない。

 どうしてナイジャーと同じ部屋で忌避感を覚えないのか、とも尋ねられた。そもそもエデルは一年前まで養父と同じ部屋で眠っていたし、今だってなし崩し的とはいえ、ルーシャスとナイジャーと三人一部屋で過ごしてきたのだから、こんなものは〝慣れ〟以外にどうとも答えようがなかった。

 そのときのことを思い出しながら、エデルは「なんでもない」と首を振る。

 居心地の良い場所を探していた白蛇を構いながら横になると、ナイジャーはふたりの間に引っ張ってきた衝立の向こうで着替えを始めていた。

 これくらいのプライバシーを考えることは、ちゃんとしている。それでも男女で一部屋というのは、おかしいのだろうか。

 これをおかしいと思わないと、〝恋をしてはいけない気がする〟の答えにはきっとたどり着けない。たぶん、男女の問題の話だということは、エデルにもなんとなくわかっている。

 それはわかるのだが、やっぱり、お互いに納得してるんだから良いじゃないかとしか思えなくて、エデルは衝立の向こうのナイジャーに声を掛けていた。

「あのね、ナイジャーは男女で同じ部屋で寝るのはやっぱりおかしいと思う?」

「えー、なに? 藪から棒に」

 着替え終わったらしいナイジャーが話を効いてくれようと思ったのか、衝立をまた足元へ遠ざける。そうすると、ふたりの寝台の間には二、三歩程度の距離しかない。それでも、エデルにはまったく〝忌避感〟というものは抱けなかった。

「最初に、ミューリアさんたちからおかしいって言われたじゃん? ナイジャーも全然平気な顔してるから、こんなのは慣れだし平気なものなんだと思ってたんだけど」

「んー。まあ、ふつうはやんねえってわかるけど。でも一晩だけでもエディをひとりにするのは悪手だぜ。いくらここが姉さんたちのおかげで守られてるっつったって、完璧じゃねえもんな」

「うん……。でも、そういう合理的な部分を除いて、気持ち的な部分で一緒に寝るのは変だってみんな言うし」

 言い募ると、ナイジャーはちょっと驚いたように目を瞠った。

「あれぇ? 気になっちまった? ま、それならそれで別の部屋にしてもらえるように言うけど」

「う、ううん。わたしは一緒でも良いの。おとうさんともずっと同じ部屋で寝てたし。だけど、ナイジャーはどうなのかなって」

 ふーん、とナイジャーは隣の寝台にごろりと横になる。すると、寝台から足がにょっきりとはみ出る。本当に大きな人だ。

 〝深淵の館〟にはこれ以上大きな寝台はないので、彼の足元には小さな椅子を置いてやり過ごしているが、それでもナイジャーにはあまり快適な寝台とは言えないだろう。

 しかしナイジャーは気にしたふうもなく、長い黒髪をシーツへと流し、肩肘をついてこちらに身体を向けた。

「多分さ、俺とエディは〝寝る〟ことに対しての根っこの感覚が同じなんじゃねぇかな」

「同じ?」

「うん。睡眠は必要だし眠くなりゃ寝るけど、でも同時に、睡眠って死と隣り合わせだろ。ひとりで寝たら、寝てる間に凍えて死んでるかも。誰かに襲われるかも。――そういう感覚、ないか? だから子どものときはさ、仲間内で固まって団子になって寝てたろ。なんつーか、今もその名残りがあるっていうのかな。寝るときに誰かそばにいると安心するっていうか」

「……ああ、なんかわかるかも」

「だろ? まあ、誰かがそばにいるほうが寝てる間にうっかり刺されたりすんだけど」

「え……」

 わはは、とナイジャーが笑いながら仰向けになる。

「俺は確かに、誰かと寝ることが、ただ健全に睡眠をとることだけを指すわけじゃないって知ってるけどさ」

「…………」

「あ、言ってる意味わかるか? 男同士でも女同士でもあるけど、特に男女で寝室に放り込まれたら人肌求め合ったりしちゃうよなってことなんだけど」

 ああ、とエデルはうなずいた。

「さすがにそれもわからないわけじゃないよ」

「良かった。俺がエディにおしべとめしべの話しなきゃいけねぇのかって一瞬考えちゃった」

 ナイジャーがほっと胸をなでおろす。

「まあ隠してもしゃーないから素直に言えば、小さいときは誰かと寝ることは〝死なないための知恵〟でしかなかった俺も、今は誰かと寝るってなったらおしべとめしべの関係のほうが多いわな。この見た目ですし?」

 ナイジャーはふたたび肩肘をついてこちらを向き、きりりと真面目な顔をした。

 ゴロゴロしているだけなのに、本当に美しい人だ。この人に抱かれたいと思う人は多いだろう。それはエデルにも一般的な感覚としてわかる。

「どっちかっていうと、絵に残しておきたいなあっていう美人さだと思うけどね」

「エディでも俺のこと格好いいって思うんだ? 言われたことなかったからてっきり趣味の範疇外なんだと思ってたぜ」

 ナイジャーは笑う。

 エデルはじっくりとナイジャーを眺めながら「思うよ」と返した。

「最初会ったとき、緑層の大きな街にある噴水みたいって思ったもん」

「ふんすい?」

「街の中心にある広場みたいなところにさ、よくこういう像があるよなあって」

「――わははは!」

 突然、ナイジャーは大声で笑い出した。笑うだけに留まらず転げ回っている。大きな身体でバタバタと子どものようにはしゃいでいた。

 一体何がきっかけだったのかわからずエデルが若干引いていると、笑いの発作の合間に涙を拭っている。

「やべー。今度から顔褒められたら広場の像におすすめって言お」

 ヒーヒー涙を拭いながらナイジャーは続ける。

「エディは俺のこと、格好いい! 抱かれたい! とか思わないじゃん」

「思……わない、けど……?」

 きれいな人だな、格好いいなと思うことと、抱き合いたいと思うことがなぜイコールになるのか。

 首を傾げると、ナイジャーはちょっと呆れたように言った。

「まあ理屈は置いといて、多くの人は、格好いいやつとか美人な人間を見たら特別な仲になりたいなって思うんだよ。別に、必ず全員がそうではないけど。で、特別な仲になる方法がおしべとめしべなのな」

「別に、セックスって言葉を知らないわけじゃないけど……」

 なぜ回りくどい言い方をするのか。首を傾げると、ナイジャーはピシャリと額打った。

「エディはたまにめちゃくちゃデリカシーがない」

「え、ええ……? ごめん……」

「良いよ。まあ、そういう傾向があるってことだけわかっといて」

「うん、それはなんかわかるよ」

「わかる? よかった。で、俺は結構求められるほうなの。応えるのもやぶさかじゃない。時間と状況が許せばな。俺は人肌好きだし。だけど、エディはそういうの求めてこなかっただろ」

「それは、うん」

「だろ。だから俺も、別にエディを抱きたいとは思わないな。たとえ同じ部屋で、同じ寝台で文字通り抱き合って寝たとしてもな。俺がただそういう嗜好なだけなの」

 求められた場合にだけ応えたい。そうでないのなら、相手がどんなに仲が良かろうと、魅力的であろうと、性衝動は起きない。そういうものなのだと。

 だからエデルから求めない限り、ナイジャーは同じ部屋で眠っていようが性的な感情は抱かない。ただそれだけだと彼は重ねて言った。

「……そっか」

 完璧に理解したわけではないが、ひとまず、エデルがナイジャーと一緒の部屋で眠ることによって、眠る以外のことが起こることはない。それがわかっていれば、やっぱり、エデルには何の問題もないように思える。

「こういうのはさ、お互いの合意ってやつなんだよな」

「うん?」

「セックスするのも、健全な関係を続けるのも。俺たちも合意の上に成り立ってんだぜ」

 不意にナイジャーが立ち上がる。何をするのかと眺めていると、エデルの寝台に近づき、急に乗り上がって覆いかぶさってきた。

 仰向けになったエデルの真上にナイジャーがいる。顔が影になって、薄い竜の目だけがじっとこちらを見つめた。そこに感情は見えない。

「ここまで来たら何されるか、さすがにわかるだろ。――どう思う?」

 静かに尋ねられて、エデルはじっとナイジャーを見つめたまま、慌てず騒がず感想を口にした。

「どうって、一緒に寝たら暖かそうだけど、寝てる間に潰されそうだなって」

 本当に大きな人なのだ。こうして近づくと、エデルがすっぽりと隠されてしまう。これでは下手をすると圧死しかねないな、とちょっとした恐怖すら感じた。

 素直に答えると、ガクッとナイジャーがうつむいた。長い黒髪がエデルの上に落ちて、カーテンが上から降ってきたような心地だった。

「わぁ! ナイ、ナイジャー、どうしたの?」

 エデルの顔の横に両肘をついたナイジャーの身体が震えている。エデルは慌てて様子を伺おうとしたが、わずかに身体を上げたナイジャーは「んんふ」だとか「ひひひ」だとかなにやら唸り声を漏らしていた。どうやら笑っているらしい。

「エディさぁ、ほんとさぁ……」

「なに?」

「や、良いけど。はー。ほんとこの子ったらニブチンなんだから。今俺がこうしてるのがルースだったらどうするわけ?」

「…………」

 ――今、エデルに覆いかぶさって逃げ道を塞ぎ、顔と顔がくっつきそうなほど近づいているのが、ルーシャスだったら。

 瞬間、ぐわっと頬に熱が上ってきた気がして、エデルはナイジャーの腕の中で器用に身体を反転させてうつ伏せた。

「えっ何? どした?」

「なんでもない‼️」

「あ、あれぇー? なんかごめん……?」

 エデルの上からナイジャーが退いた気配がする。想像の中のルーシャスがようやく離れてくれたような気がして、エデルはほっと息をついた。

 まだ顔が熱い。心臓が走っている。

 細く息をついてそっと背後のナイジャーを伺うと、もう自分の寝台に座り直した彼がじっくりとこちらを見ていた。

「もしかして俺、大正解引いちゃったっぽい?」

「な、何が?」

「んー」

 ナイジャーが膝に肘をつき、そこに頬杖をつく。こちらを見つめる竜の目がなにやら生ぬるく和んだ。

「エディはさ」

「うん?」

「自分の気持ちに蓋をし過ぎだよ」

「……?」

 突然何を言い出すのか、とようよう身体を起こそうとした。だが、ナイジャーがそれを留める。

「自分の気持ちに素直なれ――ってのはまたちょっと違うか」

「なに?」

「自分を許してやんなよ。楽しくなったり、嬉しい気持ちを抱いたり、誰かを好きになって、誰かに好きになってもらいたいって思う気持ちを許したって、それを咎めるやつはいないよ。過去にいたとしても、今はもういないんだ。今エディの周りにいる人間は、誰もそんなことで怒ったりしねえの」

「…………」

 ナイジャーの薄い青い竜の目は、穏やかなやさしさを湛えていた。

 どういう意味かと尋ねようと思ったが、けれども彼は起き上がろうとするエデルの額を突っつく。

「もう寝な。明日にはルースが帰ってくるかもしれないぜ」

「うん……」

 強引だったが、もう夜も遅いのは確かだった。

 白蛇は、まだ寝ないのかとエデルをつっつき、ひたすらあくびをしている。付き合わせるのはいい加減可哀想だ。

 いろいろと疑問ばかりでまだなにも解決していなかったが、今日中に問答するのは諦めて、エデルは素直に床についた。


 その翌朝、〝深淵の館〟が完全な店じまいをする直前に来訪者があった。

 ――ルーシャスだった。

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