第32話 変貌



 ポツポツと降り出した雨が、アスファルトを黒く染める。



 鬱陶しかった日差しが厚い雲に遮られ、辺りから光が消えていく。遠くから車のクラクションが響いて、ジメッとした重たい空気が肌に張り付く。


「あー、くそっ」


 忘れていたはずの何かが、ゆっくりと胸の内に広がっていくのを感じる。地面を蹴る度に、嫌な予感が増していく。それでも俺は、見覚えのある背中を追って走り続ける。


「ほんと、何やってんだよ」


 走りながら、昔のことを思い出す。蓮吾と俺は友達だった。家が近くの同い年。仲良くなった理由はそれだけで、趣味も性格もまるで違う。きっと近所に住んでいなければ、仲良くなることなんてなかっただろう。


 それでも俺たちは、確かに友達だった。あいつが俺のことをどう思っていたのかなんて知らないが、少なくとも俺はずっとそう思っていた。


「……なんて、嘘だな」


 吐き捨てるように呟いて、走るスピードを上げる。これはきっと、余計なことだ。後で浅間さんに、怒られてしまうかもしれない。……いや、或いはもっと、大事になってしまう可能性もある。そう分かっていても、足は止まらない。


 それはきっと、ただ単に……


「そんなに急いで、どうしたんだよ? 進」


 そんな声が響いて、足を止める。徐々に激しくなっていく雨の中、傘もささずに路地裏に佇む1人の男。俺はその男を正面から見つめ、呆れたように息を吐く。


「別に、大した用じゃないよ。……ただちょっと、気になることがあってな」


「気になること?」


「お前のその髪だよ、蓮吾。なんだよその中途半端に白い髪。夏休みデビューか? 似合ってねーぞ」


「……ああ、これか」


 中学生が自分で染めたような雑な染まり具合の白い髪を撫でつけ、蓮吾は乱暴に口元を歪める。


「これは才能の……天才の証だ。ようやく俺も、お前に追いつくことができた。この力さえあれば、俺はもう誰にも負けねぇ」


「……何言ってんだ? お前」


「はっ、お前には絶対に分からねぇことだよ。……産まれながらの天才に、才能に焦がれる凡人の気持ちなんて分かる訳がねぇ」


 蓮吾は苛立ちを抑えるように舌打ちし、言葉を続ける。


「ま、いいさ。言葉なんてどれだけ重ねたところで、意味なんてねぇ。だから俺たちは絵を描く。そうだろ? 進」


「……今日はよく喋るな、蓮吾」


「そりゃ、気分がいいからな。ようやく俺も、自分の才能を見つけることができた。ようやく俺も、俺が俺であることを証明できる。土俵が同じなら、お前になんて負けやしねぇ。もう誰も、俺を否定できない。なんせ俺は、本当の天才になったんだから」


 雨音に混じって響く蓮吾の言葉。強い言葉を使って自分のことを大きく見せようとする今の蓮吾は、あの日……屋上から飛び降りた時の俺と、少し似ている気がした。自分の弱さに足を引かれながら、それに気づくことができないほど弱った人間。……きっとあの時の俺も、こんな顔をしていたのだろう。


 ただ、それでも俺は、蓮吾に助けを求めるようなことはしなかった。蓮吾も俺に、助けるを求めるようなことはしないだろう。その結果、俺は人間ではなくなり、蓮吾は……何になったのか。


「…………」


 もう一度、目の前の男に視線を向ける。蓮吾は楽しげに口元を歪め、言った。


「眠っている才能の開花。誰しも本当は天才で、才能が眠っているか目覚めているかの違いしかない。最初は俺も馬鹿馬鹿しいと思ったが、今は酷く気分がいい。進、お前はいつもこういう世界を見てたんだな」


「……胡散臭い言葉だな。お前、なんか変な連中に騙されてるんじゃないか?」


「それはテメェの方だろ? 浅間 衣遠にそれから……さっきの連中。ぼっちの進くんにも友達が沢山できたみたいで、俺は安心したよ」


「……お前、さっきのあれを見てたのかよ」


「さあな。ただ、俺はお前が何をしてようが、興味はねぇ。戦いごっこは、小学生で卒業したからな。いい歳して、変な能力使って戦うほどガキじゃねぇよ、俺は」


 蓮吾は笑う。俺は……笑わない。きっと蓮吾は、自分がどんな世界に足を踏み入れてしまったのか、まるで理解していないのだろう。


「……馬鹿な奴」


 雨で張り付いた鬱陶しい前髪をかきあげ、正面に立つ男を睨む。蓮吾も俺から視線を逸らさず、真っ直ぐにこちらを睨みつける。しばらく雨の音だけが響く沈黙が流れて、蓮吾は言った。


「今度の部内コンペの話、覚えてるよな?」


「当たり前だろ」


「はっ、どうだか。どうせお前、自分みたいな天才が俺みたいな凡人に負ける訳がないとか、んなこと思ってるんだろ?」


「……だったらなんだよ?」


「あんま俺を、舐めんなって言ってんだよ。これ見よがしに黒板にあんな絵、残しやがって……。あれで俺が、ビビって逃げるとでも思ったか?」


 蓮吾の瞳が憎悪に染まる。さっきの白髪の少女たちは正気を失っているように見えたが、蓮吾の意識ははっきりしているように見える。蓮吾の瞳には、以前と変わらない俺への明確な悪意がある。


 俺は大きく、息を吐いた。


「あれは別に、お前に向けて描いた絵じゃないよ。お前があの絵に何を見たのかなんて知らないけど、お前があの絵と戦う気でいるなら、悪いけど勝負にならない」


「あぁ? 俺じゃあの絵を超えられねぇと?」


「ちげーよ。あれはいい絵だけど……ベストじゃない。長いブランクがあったし、何より黒板アートは初めてだったからな」


「…………は?」


 蓮吾はポカンと口を開く。俺は気にせず、言葉を続ける。


「だから今度のコンペでは、もっといい絵を描く。他人と比べてどうとか関係ない。俺の中には、まだまだ美しい世界が沢山ある。だからお前が、あの絵と戦う為に才能を手に入れたって言うなら、悪いけど勝負にもならないよ」


 そう。あの絵は完璧じゃない。八坂先生の言う美と醜のことはまだ分からないが、それでも今の俺ならあれよりもっともっといい絵を描ける確信がある。


「……なんだよ、それ」


 俺の言葉を聞いた蓮吾は、どうしてか唖然とした表情を浮かべ、後ずさる。


「くだらねぇ。くだらねぇよ、進。それで俺が、ビビるとでも思ったか?」


「ビビる? 何言ってんだ? お前」


「……ちっ、くそっ」


 蓮吾は怒りを堪えるように歯を噛み締め、俺の胸ぐらを掴む。


「何度も言ってるよな、進。俺はお前のその、悟ったような顔が大嫌いだってよ!!」


「だったらなんだよ? また殴って、それで勝手に自己満足するのか? ……お前もいい加減、学習しろよ。いくら威張って虚勢を張ったところで、宇佐さんはお前のことを好きになったりしない。あの子が好きなのは結局自分だけで、宇佐さんは──」


「うるせぇ! あいつから逃げたお前が、今さら知ったふうなこと──」


 蓮吾が拳を振り上げる……が、すぐに腕を下ろす。


「……辞めだ。馬鹿馬鹿しい。こんなところでお前と話しても、意味なんてねぇ。つーかなんでお前、追いかけて来たんだよ? 俺が何をしようと、お前には関係ねぇだろ?」


「別に。お前を追いかけてきた訳じゃないよ。ついでだよ、お前は」


「……ま、なんでもいいさ。これ以上、お前と話しても疲れるだけだ」


 吐き捨てるように言って、そのまま背を向けて歩き出す蓮吾。もう追う理由も止める理由もない俺は、黙ってその背を見送る。


「結局、俺もお前もまともじゃいられないんだな……」


 少し、昔のことを思い出す。楽しいことばかりじゃなかった。寧ろあいつとの思い出は、辛いものの方が多い。……ただそれでも、何もなかった訳じゃない。


 胸に刺さった小さな感傷を笑い、そのまま俺も歩き出す。


「さて、本題はここからだ」


 前座は終わった。蓮吾、やっぱり俺は今さらお前に興味なんて持てない。お前は知らないのかもしれないが、天才なんてこの世界には腐るほど存在するんだ。才能、それ自体に価値がある時代なんて、とっくの昔に終わっている。


 だから蓮吾、お前が本当に才能を手に入れたと言うなら、俺がそれを否定してやる。天才と天才の削り合いで問われるのは、才能の多寡ではない。そんなことも分からず才能に酔っているだけの人間は、天才だろうと凡才だろうと変わらない。ただの馬鹿だ。


「…………」


 ただそれでも、無視する訳にはいかなかった。


 あそこで蓮吾を見送っていたら、きっとあいつはもうこの世にはいなかっただろう。あいつが誰と何をしようが興味はないが、そんな形で勝負に水を差されるのは気に入らない。


「さて、鬼が出るか蛇が出るか」


 ゆっくりと、足音がこちらに近づいてくる。不死者になって敏感になった五感が、今すぐ逃げろと警鐘を鳴らす。それでも俺は覚悟を決めるように手を握り締め、が姿を現すのを待つ。


「……っ!」


 ふと、叫び声のような強い風が吹きつけ、壊れたような声が響いた。



「──わざわざ、追いかけてきてくれるとは思ってなかったよ」



 その言葉が響いた瞬間、雨が止む。まるで時間でも止まったかのように雨音が遠のいて、1人の女性が笑う。


「ふふっ」


 まるで夜空がそのまま落ちてきたような、飲み込まれるような黒髪。こちらを見る赤い眼光は、空に座す月ですら目を背けてしまうほど神々しい。



 生物としての、格が違う。



 ひと目見ただけで分かった。この女性には、決して勝てない。浅間さんを見た時よりも強く、生き物としての違いを感じる。この女性はどう見ても人間にしか見えないのに、


「はじめまして、蒼井 進くん。私は浅間あさま 奏多かなた。娘がお世話になってるみたいだね?」


 その女性──浅間 奏多はそう言って、少女のような華やかな笑みを浮かべた。


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