蓼食う虫も

小狸

短編

「最近の小説の、××先生みたいにワンパターンじゃないところが好き」


「××先生風かと思って最初は敬遠していたけど、良く読んだら面白かった」


「××先生以外の小説が好き」


 友達とそんな会話をした。

 

 ××先生とは、友達が苦手とする小説家の、苗字である。


 その友達は自分の「好き」を語る時、「好きでない何か」を引き合いに出す。


 その範囲は小説に限らない。


 何か彼女が好きなもの、ことを語る際には、「好きでない何か」が登場し、それと比較して、自分がどれだけその物事を好きかをこちらに提示してくる。


 必ずといって良い程、である。


 それは、先に挙げた例文のような三文からでも理解できると思う。


 まあ、そういう家庭に生まれたとか、そういう教育を受けてきたとか、そういう環境で育ったとか――そんな何となくの理解で良いのではないだろうか。別段私も、友達の深淵を覗こうとは思わない。


 「好き」のり方、語り方というのも、令和の多様性が叫ばれる昨今、たくさんあってしかるべきだと、私は思う。


 しかし友達のその姿勢に関しては、やや遺憾の意を表明したいと、私は思ってしまう。


 というのも――一応名誉のために××先生としているが――私はその××先生のファンなのである。


 小説の話になると、毎回引き合いに出され、否定され拒絶され忌避される。


 いちファンとしては、内心穏やかではない。


 まあ、穏やかな風を装っているけれど。


 少々話は前後するが「誰かを傷付けなければ自分の『好き』を表現できない人間」というのは、存在すると私は思っている。


 勿論、「誰も傷つけない表現など存在しない」「ありもしない悪意を汲み取って、勝手に被害者になることは誰にでもできる」という前提を考えない場合での話である。


 先程例に挙げた友人が分かりやすいだろう。


 何かと何かを比較して、自分の好きなものがより優れていると思わなければ、「好き」ということにはならないと、恐らく彼らは勘違いしているのだろう。


 誰だって自分の好きなものは、他人からだって好かれていたいものだ。


 要するに、そこの自他の境界が曖昧なのである。


 自分が「好き」だから、他人も「好き」に違いはない。


 だからこそ、平然と他の何かを貶めるような発言ができる。


 他人の「好き」が、自分と完全に重複していると、思い込んでいるから。


 まあ。


 そんな風に分析してみたところで、私は別に心理学者でも何でもない、ただの会社員である。そんな友人の性格を矯正しようとも思わないし、考え方を強要しようとも思わない。彼女とは大学時代からの付き合いだけれど、そろそろ話についていくのも限界かなとも思っている。


 それでも私は、彼女から飲みなり遊びなりの誘いが来れば、多分快諾してしまうだろう。


 そして小説の話をして、不快な思いをして帰路について、溜息を吐くのだ。


 だったら交友関係を絶てばよいという話だが――それこそ、切ろうと思って簡単に切れる縁などあるまい?


 いや、それも所詮は、私の側の言い訳か。縁を切るには、労力がいる、勇気がいる。

 

 それでも、そうしないのには、私にも理由がありそうだ。


 なんだかんだと言いつつ、私自身も、そうやっていつまでもはっきり「嫌い」と表明できない可哀想な彼女を下に見て安心したいから、付き合っているだけなのかもしれない。


 いずれにせよ、人付き合いなんてこんなものである――と。


 ここまで書いたところで、丁度ちょうど日をまたいだ。


 令和6年の、5月3日の話である。




(「蓼食う虫も」――了)

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