第7話 親しくなる

 コロナの時期を正確に覚えていないけど、電車はとにかくガラガラだった。車両の窓がちょっとだけ開いていて、隙間から風が入って来て、コロナのウイルスを外にきれいに外に飛ばしてくれそうだった。手すりにつかまったりしなければ、電車で菌が移る気はしなかった。


 俺は基本的にはあまりスーパーには行かないで、食材は宅配を頼んでいた。今考えるとあまり意味ないけど、人との接触を可能な限り避けていた。こういう生活をしていると、俺みたいに友達のいない人間は一日中ほとんど人に会わなくなっていた。オンライン会議とか、電話で話すのは普通にあったけど、面と向かって人と合わないと無性に人恋しくなったのは間違いない。


 親しい人が誰もいないから、寂しいからと言ってオンラインで人に連絡することもできなかった。


 だから、毎朝少年と話すのが日課になっていた。

 俺は朝会社に行くと、わざわざ少年を探して声を掛けた。

 少年は手を止める。そして、俺に向き合った。相変わらず目は合わせないけど、少しづつ喋るようになっていた。


「不織布のマスクしないの?」

「持ってないので」

「俺があげたのは?」

「母にあげました」

「あ、そっか。偉いね」

「すいません、あげちゃって」

「いいんだよ。好きに使ってくれれば。よかったらもっとあげようか」

「いいんですか?」

「うん」

 俺は机の中から、マスクをひと箱取り出して渡した。

 彼にあげるつもりで持ってきたものだった。

「君は小顔だからなぁ。ちょっと大きいかもしれないけど」

「大丈夫です」

「今のマスクは洗って使ってんの?」

「はい」

「ガーゼより不織布がいいみたいだよ」

「すみません。助かります」

「ちょっと休憩しない?」

 俺はちょっと喋りたくなって、少年を引き留めた。

「なんか飲まない?」

「はい」

 俺はカップにコーヒーを注いだ。

 はっきり言って、コンビニのコーヒーの方が美味しいのだが、金がもったいなくて自販機のをただで飲んでいた。


 少年は炭酸飲料だった。俺は健康志向だから、新鮮だった。


「何分くらい大丈夫?」

「15分くらいなら」

 少年はマスクを外した。超絶イケメンだった。そして、唇がピンクで、女性的でかわいかった。もてるだろうなと思った。

「忙しいね」

「大体、このフロアはいつも9時くらいまでに終わらせるんです」

「そっか。その後は?」

「別のフロアをやります」

 どうやら、彼は午前中は各フロアのごみを集めたり、ガラスを拭いたり、掃除機をかけたりして、昼休憩の後、地下でごみの分別をするようだった。コロナだし、感染症が怖いと言っていた。マスクがそのまま捨ててあるということだった。俺も覚えがあった。今度から必ずビニール袋に入れようと心に決めた。


「最近は、君以外の人と直接しゃべってないかも」俺は言った。

 実際はそうでもないが、話を盛ってしまった。彼はそうでもないだろう。同僚がいるだろうし。

「独身なんですか?」

 少年がいきなり言うからびっくりした。

「はは。嫌なこと聞くね。一人暮らしだよ。君は?」

「親と住んでます」

「兄弟いる?」

「はい。兄が一人」

「じゃあ、ご両親と四人家族?」

「今は母と二人です」

 複雑な家庭なんだ。しかも、貧困の。なるほどと思った。

 同時にちょっと関わってはいけない気もした。

「家計を支えるために働いてるとか?」

「はい」

 あ、そうなんだ。

 世の中、そういう人もいるんだな。

 こんなにかわいいのに。

俺が生活費を出してあげたいくらいだが、理由がない。


「若いのに偉いね」

「他に働ける人がいないんで…」

 お母さん、働いてないのか…。

 生保世帯かな。俺はショックを受けていた。

「ごめん。プライベートなこと聞いちゃって。もう、時間だね」

「はい」

「午後も頑張って」

「はい」


 シングルマザーの家庭の子で、掃除夫か。ちょっとあり得ないなと思った。ひどい親だ。どんなに貧しくたって、こんな若い子を働かせるってどういうことだろう。月いくらもらってるんだろう。清掃の仕事の月給って正社員で二十五万くらいだろうか。それだと手取りは二十万くらいだ。結構もらっている。その金を家に入れているのか…。仕事が終わるのも早いし、家に帰ったら好きなことできるのかな。だったらいいのか。


 それにしても、小遣いはどのくらい残るんだろう。気が付くと俺は彼のことを一日中考えていた。そして、同時に彼のことを性的な目で見ていることにも気がついていた。しかし、そんな様子を態度に出すつもりはなかった。ただ、勝手に心が反応しているだけである。彼は俺をテナント先の社員としか思っていないし、俺もそう振る舞うつもりだった。当たり前だが。


 ***


 彼たちはさらに親しくなった。

性格が素直でかわいかった。俺の子どもたちよりも。


「君、仕事何時に終わるの?」

「16時です」

「え、そんな勤務時間長いんだ」

「はい」

「8時間?」

「はい?」

「君、もしかして正社員とか?」

「はい」

「え、まじで?」

 ただのバイトかと思っていたら、正社員でやってるのか…。もっと楽な仕事がいくらでもあるだろうに。俺はそう聞いてみた。

「でも、中卒だと仕事なくて」

「え、中卒で働いてるんだ」

「はい。親が病気で」

「あ、そうだったんだ…。立ち入ったこと聞いて悪いけど、医療費のために働いてるの?」

「病院はタダなんで、それ以外にお金がかかって」

「生活費?」

「はい」

「もしかして、生活保護もらってる?」

「はい」

「じゃあ、家賃払ってもちょっとは残らない?」

「母に借金があって…」

「それを君が返してるってわけ?」

「はい」

「それはおかしいよ…」


 時間切れだった。彼は他のフロアの清掃がある。彼は無知で搾取されていると俺は思った。何とか救済される方法を教えてあげたい。

「昼、一緒に食べない?おごるよ」

「はい」

「昼休憩ある?」

「はい。11時から1時間」

「あ、そう。じゃあ、昼行こう。一緒に」

「はい」

 店に行くのは嫌かもしれないと思った。

「もし、嫌なら、買って来て食べようか」

「はい」

 少年はおごってもらえてラッキーと思っていそうだった。全然嫌がっている感じはなかった。

「じゃあ、買いに行こうか?何時に出れる?」

 少年の午前の仕事が終わったら、ビルの前で待ち合わせることにした。

 今考えると本当に奇妙だったと思う。


 オフィスの会社員と掃除の人が一緒にランチなんて。

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