第3話 肉じゃが

 奇妙な事態が起こっている。

 ふたりの美しい幼馴染が、かわりばんこに俺の世話をしてくれるらしい。

 俺の意見は聞かれることなく、空とあかりちゃんが話し合って決めた。

「明日来るね、ふゆっち」という言葉を残して、明るい茶髪の派手な美少女は左隣の家へ帰っていった。

 彼女が出ていった玄関を、右隣の家に住むもうひとりの美少女は険しい目で見つめていた。


 くるっくー、という鳩の鳴き声が聴こえた。

 空は俺の方に視線を移して、「で、カレーか肉じゃが、どっちにする?」と言った。

 つくりもののように整ったその容貌をぼんやりと眺めながら、俺はひとまずこの事態を受け入れようと考えた。

 いま、長く途切れていた幼馴染たちとの関係を取り戻すチャンスが訪れている。

 このチャンスを逃すべきではない。

 俺は空とあかりちゃんがふたりとも好きだ。

 彼女たち同士は仲が悪い。それは俺にはどうしようもないことなのだろう。だが、俺がそれぞれと友達づきあいをするのはかまうまい。


 空はついさっきあかりちゃんと激しく言い争ったことなどまるでなかったかのように、表情を消している。

 彼女の無表情は不機嫌なのではなく、それが通常運転なのだと思う。

 小学生時代からそうだった。

 静かにお絵描きをしていたり、本を読んでいたりして、自分からはあまりしゃべらない女の子だった。

 喜怒哀楽がないわけではなく、話しかけると微かに笑いながら、なにかしら答えてくれる。ちょっと拗ねたり怒ったりもする。でもあまりはっきりと顔には出ない。そんなおとなしい空を、俺は好ましいと思っていた。

 まれに怒りが爆発すると非常に怖い。そんな子だ。

 最近は交流が乏しいけれど、たまに高校で見かけると、やっぱりクールな表情をしていることが多い。


 空は黙って、俺の選択を待っていた。カレーか肉じゃがか。 

 カレーライスは大好物だけれど、女の子の手づくりの肉じゃがは男子の憧れと言っても過言ではないだろう。

「肉じゃがが食べたい」と答えた。

「わかった。キッチン借りるわよ」

「手伝うよ」

 俺がそう言うと、空は微かに笑って首を振った。そのあるかないかわからないような控えめな笑みは、小学生時代の彼女を思い出させた。 

「いい。冬樹の世話はおじさんから託されたわたしの使命だから」

「使命?」

 ずいぶんと大袈裟な物言いだ。 

 でも空が言うと、しっくりくるような感じがあった。

 彼女はキッチンへ行き、水を流してじゃがいもを洗った。

 俺は肉じゃがの完成を楽しみに待つことにして、ソファに座り、買ってきた女性作家の純文学を読み始めた。

 俺はすぐに物語の世界に引き込まれた。


「あれっ、じゃがいもをむくの、けっこうむずかしい……」

 つぶやきが耳に入って、俺は本から目を離し、顔を上げた。

「うっ、くっ、あれえ、こんなはずじゃないのに……」

 空が包丁でじゃがいもの皮をむいている。苦戦しているようだ。

 ついには「いたっ」と叫んだ。

 台所で彼女が顔を歪めている。


 本を置いて駆け寄った。じゃがいもを持った空の左手の親指から血が流れている。右手には包丁。

「だいじょうぶ?」

「平気……」

 彼女はそう言ったが、赤い血がぽたぽたとシンクにこぼれ落ちている。

「病院へ行く?」

「そんな大怪我じゃないわ」

 俺は彼女の指を水で洗い、救急箱から消毒薬とバンドエイドを取り出し、傷口を消毒してからバンドエイドを貼った。手当てをしているうちに血は止まった。

「あ、ありがとう……」

 空の頬が赤くなった。


「休んでなよ。料理は俺が引き継ぐよ」

「嫌よ。わたしがつくるわ」

「家で料理とかしてるの?」

「あんまりしない。お母さんのごはんが美味しいから……」

 そう言ってうつむいた。

「でも、できるわよ」

「空は意外と不器用だね。無理しなくていい」

「不器用じゃない。慣れてないだけだもん」

 彼女はけっこう強情だった。

 これ以上包丁傷ができるのは困る。


 俺は台所の引き出しからピーラーを出して、空に渡した。

「なにこれ?」

 ピーラーを知らないのか。

「これは皮むき器だよ。じゃがいもの皮をむくのに便利。怪我をすることはまずないよ」

 俺はピーラーで皮をむき、じゃがいものくぼみをピーラーについている芽取り器でかき取った。

 空は魔法でも見るような目つきで俺の手元を呆然と眺めていた。

「ちょっと貸して」

「うん」

 空はピーラーで皮むきを始めた。

「なにこれ、超便利じゃない」

 声に歓びが混ざっていた。

 彼女は夢中でじゃがいもに取り組んだ。


 その横で、俺はにんじんの下ごしらえをした。包丁で薄く皮をむく。

 これもピーラーを使うと楽だが、にんじんの皮むきはでこぼこが多いじゃがいもより簡単だし、皮むき器はひとつだけしかなくて、いまは空が使っている。

 にんじんを手早く処理し、たまねぎをきざんだ。

 空は唇を尖らせていた。近くにいると、実は感情が豊かだということに気づく。

「なんで冬樹が料理してるの? わたしの使命なのに。本を読んでなよ」

「まあいいじゃないか。ふたりでやれば早いし、楽しいよ」

 俺は包丁で怪我をしてしまった空が心配で、彼女をキッチンでひとりにする気にはなれなかった。

「でも……」

「慣れない台所で、やりにくいこともあるんじゃない? 一緒に調理しようよ」

「わかったわ」

 空はうなずいた。


 俺は鍋に油を引き、牛肉を炒めた。肉の色が変わると、野菜も放り込んだ。

 そんな俺を空は唖然として見つめていた。彼女はスマホを持っていた。肉じゃがをつくる手順がわからなくて、レシピを確認しているようだ。

「冬樹、料理は得意なの?」

「別に得意ではないかな。簡単なものしかつくれないよ」

「でも肉じゃがはつくったことがあるのね?」

「まあ2、3回は」

「実はわたしは初めてのチャレンジなの」

「つくろうとしてくれただけでうれしいよ」

「ちゃんとつくるから! 冬樹は手伝ってくれるだけでいいの!」

 空はそう言ったけれど、結局はスマホを見てあたふたとレシピを確認している彼女ではなく、俺が肉じゃがをつくった。

 醤油、酒、砂糖、味醂、顆粒和風だしで適当に味を付けた。

 空は最後は指をくわえて見ているだけだった。

「わ、わたしの使命が……」

 優等生の彼女の意外にポンコツな一面が見られて、俺はくすりと笑った。こういうのも楽しい。


「美味しい……」

 炊きたてのごはんと肉じゃがだけというシンプルな夕食を食べながら、空がつぶやいた。

「家に帰って食べなくてもいいの?」

「いい。今日は冬樹の家で食べるって、お父さんとお母さんに言ってある」

「そう」


 俺と空の家は家族ぐるみの付き合いで、特に父親同士は釣り仲間で仲がいい。親友と言ってもおかしくないほど、よく一緒に遊びに行っていた。今回タイへ赴任するにあたって、ふたりだけの送別会を開いていたほどの仲だ。

 ちなみにあかりちゃんの家とも同じような関係で、こちらは母親同士が異様に仲がいい。ふたりとも手芸が趣味で、長い間同じ先生に習っている。やはりタイへ行く前にふたりで食事会をしていたようだ。


 夕食を食べ終わった後、一緒に洗い物をしようとした俺を拒否し、「これくらいは絶対にわたしだけでやる」と言い張って、空は食器を洗った。

 その一生懸命な姿が愛しかった。

 時計がときをきざんでいく。


「あさってまた来る。おやすみなさい」

 帰りがけに玄関で空は言った。

 本当に世話をしてくれるつもりのようだ。

 彼女は熱のこもった目を俺に向けていた。

「おやすみ」と俺は答えた。

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