君の記憶に僕だけがいない

晴 時雨

プロローグ

 2085年12月25日。僕が好きだった彼女は3秒後に死んだ。

 

 彼女―――沙知は、僕と恋人関係になる前から、全身の細胞を一つ一つに分解し、その自分の細胞を遠く離れた場所へ転送しそこで再生する、いわば転送装置の研究者だった。


 大学の研究室に何日も泊まり込み、食事すら忘れてしまうほど自分のやりたい研究に熱中している沙知の姿が僕は好きだった。


 そして、二年前の冬。付き合って六年目になるクリスマスに、僕たちの全てが崩壊した。

 

 「装置があと少しで完成するから、今日のデートは明日に延期させてほしい」というメールが、との最後のやりとりになってしまった。


 沙知はこのメールを送った直後に、自分の体をどこかに転送させたらしい。


 3秒後、転送自体は成功したそうだ。


 ただ、再生する際に細胞の並びが一部変わってしまった。


 そして沙知は、僕に関する記憶だけを全て失ってしまった。


 沙知のなかでは、実験に成功したという事実だけが残った。


 僕だけを忘れた沙知と僕は、その後もちろん自然消滅した。


 いや、これは人工消滅かもしれない。


 こんな風に思えてしまうほどにどこか冷静になっていた自分に嫌気がさしていた。

 

 沙知と会うことがなくなって2年が経つ頃、僕は酒に溺れる毎日を過ごしていた。


 一瞬でもいいから沙知を記憶から消さないと悲しみに押しつぶされそうだった。


 自堕落な生活をだらだらと送っていたとき、運命というものは存在すると見せつけてくるかのように、その日は突然やってきた。


 深夜0時。2時間ほど過ごした行きつけのバーの帰りに突然後ろから誰かに声をかけられた。


「あの、御影 優という人を知りませんか?」


 声の主が出したその名は、紛れもなく僕の名前だった。


 振り返ると、そこにはあの頃と同じままの沙知がいた。


「――――すみません。知らないですね。どうして突然?」


「そうですか……すみません。貴方なら、なぜか何かを知っていそうな気がしたんです。忘れてください」

 

 嘘をついた。


 彼女に再び会えたことは、僕のくだらない人生の中で一番の幸福で、沙知が僕を探していることが嬉しくて仕方がなかった。


 それでも、もし沙知が僕を思い出したとき、こんな堕落した僕を見てほしくなかった。


 そしてなにより、僕を思い出した沙知が再び僕を忘れてしまうことがこの上なく怖かった。


 歩を進めて、僕は沙知から遠ざかった。


 路地裏への道に入るとき、沙知がいた方を振り返った。


 沙知はその場に立ち尽くしたまま、一人、涙をながしていた。

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