呪われた姫神 その18
「あ、綾乃ちゃん?」
「何者です?」
「わ、私だよ。亜里砂だよ!」
亜里砂は、まだ信じていた。
これが、綾乃の冗談だと。
何かの間違いだと。
そう。
そうだよ。
きっと、綾乃ちゃん、ドラマの練習中なんだよ。
私、そこに間違って入って―――。
綾乃の右手が軽く動いた。
ブンッ
何かが、自分をかすめて飛んでいく鈍い音の後、亜里砂は、頬に鈍い痛みを感じた。
さわると、血が出ている。
「―――えっ?」
「倉橋の血を汚す者が、何の用です」
立ち上がった綾乃の手には、棒手裏剣が握られていた。
「えっ?えっ?」
後ずさろうとするが、膝がうまく動かない。
「消えなさい―――この世から!」
冷たい声でそう言い放つと、綾乃は手裏剣を亜里砂めがけて投げつけた。
亜里砂が避けられたのは、亜里砂の生まれもってのすばしっこさ、そして、身についていた手裏剣術の賜以外、何者でもない。
手裏剣の軌道が自分の急所を狙っていたことは、亜里砂の年でもわかった。
「―――っ!」
掛け軸をめくり、亜里砂は一目散に洞窟の中へと逃げ出した。
「はぁ、はぁ―――」
この洞窟は、亜里砂が偶然、発見したものだった。
一見、岩の割れ目にしか見えない上に、入り口が小さく、亜里砂のような子供でないと入ることは出来ない。
洞窟そのものも入り組んでいて、迷路のようになっている。
亜里砂が、あの部屋への入り口を見つけられたのは、本当に偶然だったのだ。
その反面、亜里砂は洞窟の構造を熟知していた。
大人が追ってきても逃げられる場所は、いくつも見つけている。
だから、洞窟の中なら、有利でいられる。
だが、
ここから出て家まで戻る―――。
その距離は、亜里砂には絶望的な長さに感じられた。
そして、
亜里砂は、その道を通るしかないのだ。
ガサガサガサ
藪の音が耳障りなまでに大きく聞こえる。
「いたぞぉ!」
追っ手がついたらしい。
母に知れたら―――
ばあやに知れたら―――
そして、
捕まったら―――
ばくばくする心臓。
がくがくする膝。
すべてが恐怖によるもの。
つぶされそうになりながら、亜里砂は思った。
いつも誰も助けてくれない。
誰の助けも求められない。
それが、私。
でも、綾乃ちゃんが来てくれた。
この家のことはよく知らないはずだから、もしかしたら、助けてくれるかもしれない。
でも―――
助け
その言葉の意味は、よくわからない。
どう助けてもらいたかったのか、それもわからない。
でも、そう思うことは間違いだったというの?
神様は、私に助けを授けてはくれないの?
助けを求めては、いけなかったの?
私、いつも頑張っていたよ?
それでも、ダメなの?
何で、ダメなの?
追っ手の懐中電灯の灯りが、ついに亜里砂を捉えた。
「いやがった!」
「!!」
「捕まえろ!」
亜里砂の耳に飛び込んでくる男達の殺気だった声。
自分に向けられてくるニンゲンの、生々しい罵声、そして殺気。
それは、すでに亜里砂の心を射抜いていた。
視線が向けられる度、
罵声を浴びせられる度、
亜里砂の心は、確実に傷ついていた。
―――逃げたい。
亜里砂は心の底から願った。
いやだ。
こんなのが世界なら、私は世界から逃げたい。
こんな声を浴びながら生きるのは、イヤだ。
どうして、そんなイヤな世界で、私は生きているの?
倉橋亜里砂―――。
それは巫女。
彼女が仕えてきたのは神。
その神が亜里砂にさしのべてきたのは、救いの手ではなく、むしろ残酷な手だった。
ズルッ
「!!」
亜里砂は、木の根に足を取られ、転倒した。
膝や手が痛む中、それでも泣くのをこらえ、亜里砂は走り出そうとして、出来なかった。
「このガキィ!」
ガツッ
「!」
肩に走った鈍い激痛に、息が止まった。
追っ手の男が木刀で殴りつけた痛みだ。
「うっ……ぅぅぅぅっ……」
うずくまって痛みに耐える亜里砂の口からはうめき声が漏れる。
しかし、その苦しむ姿は、むしろ追っ手の男達の怒りに油を注ぐようなものでしかなかった。
「手間かけやがって!」
追っ手の男達は、力任せに亜里砂を蹴り、殴り続け、辺りには鈍い音が響き渡った。
その度に 亜里砂の華奢な体は、まるで人形のようにはじき飛ばされる。
数分、
亜里砂にとって絶望的に長い時間、
もう、亜里砂は動くことすら出来なかった。
それでも、それでよかった。
誰の救いの手も望めない。
かくも残酷なのが世界なのだと、亜里砂は悟っていたから。
ただ、ひたすら楽になりたかった。
闇の中で眠りたい。
眠っている時だけは、私は自由だから―――。
恐い御母様も、ばあやも、いない世界にいけるから。
多分、私は、眠ることが出来る。
遠くで誰かの声がする。
「おい。どうする?」
「殺しちまおう。祐一様へのいい手みやげだ」
「あっ、ああ」
「こんなガキ一人殺したって、誰もどうとも思わねぇよ」
そうかもね。
亜里砂は思った。
誰のことかわかんないけど、そうかもしれない。
亜里砂の意識は、闇の中へと、落ちていった。
第十六話「ぬくもり」
●倉橋分家
「不審者はまだ捕まらないのか!?」
祐一は苛立たしげに怒鳴った。
「子供だというではないか!大の大人が束になって何をやっているか!」
「それどころではありません」
部屋に入ってきた男が祐一に告げた。
「追っ手に出た甲田達が殺されました」
「何?」
「ほとんど挽肉、人間の原型すらとどめてていない状態だそうです。」
「―――水瀬家か」
「水瀬家の嫡男は、背が低く、小学生並ともいいます。綾乃様の略奪に失敗し、追っ手と交戦し―――」
「そんな所か」
苦々しげな顔の祐一が言った。
「綾乃様は?」
「ご無事です。ただ」
「ただ?」
「綾乃様は、侵入者は、亜里砂様だ、と」
「!?」
●倉橋本家
「亜里砂はどこにいるの!」
「そ、それが」
「わからないというのか!?乳母のお前がそばにいながら、この体たらくは何だ!」
「お、お許し下さいませ!」
恐怖に震えながら平伏する乳母を前に、有里香は怒りに肩をふるわせていた。
すでに亜里砂が部屋を抜け出したことが知れてから数時間。
トイレなどという発想は、すでに誰も持っていない。
有里香は、震える声で執事を呼んだ。
「平沢!」
「はい」
「もしものことがある!分家へ行け!」
「もしもの時は?」
「考えるな!言われた通りに動けばいい!」
「はっ」
平沢は、高い背を折り曲げるように一礼すると、部屋を出ていった。
●東家
倉橋神社の摂社は、かつて10を数えたという。
しかし、戦後、未だに神社として体裁を保っているのは、わずかに一つにすぎない。
それが、ここ「水森神社」だ。
老いた夫婦二人が神社を護っている、小さな神社。
というより、隣接する幼稚園と昔ながらの剣術道場の一部といったほうがいい位、神社としては小さく、観光名所も兼ねる倉橋神社とは、最早、縁があるのか疑わしい程、疎遠な関係にすぎない。
「ご迷惑をおかけします」
老夫婦に深々と頭を下げているのは、水瀬だった。
「いや。無事で何よりじゃ。それにしても―――」
ピンとのびた背筋、がっしりした体型、鋭い眼光。長くのばした髭。
意志の強さを感じさせる老人が、襖をにらみつけた。
「無抵抗に近い子供に、何ということを―――」
その声は、憤慨に彩られていた。
「一命は取り留めています。今、僕たちが代わる代わるですけど、治癒魔法をかけていますし」
ガラッ
襖が開き、隣の部屋から出てきたのは、由忠だった。
「終わったの?」
「ああ。後は由里香が見ている。熱が引かない」
「連続で治癒魔法ですからね。やむを得ませんね」
「悠理、電話で聞いたことだが、もう一度、話せ。何があった」
ドカッ。と不機嫌そうな顔であぐらをかいた由忠は、水瀬の茶碗に手を伸ばしながら言った。
「家庭内暴力の現場に居合わせたというわけではあるまい?」
水瀬の説明は、簡単だった。
闇に紛れて進入路を探索中、数名の男が何かを追っているのに気づいた。
近づくと、何かに暴行をふるっている。
よく見たら、この子だった。
追っ手を始末した後、この子を運ぼうとしたが、この家の側まで来た時、容態が悪化。
家の陰で治癒を続けていた所を、この老人に発見された。
「で、電話を借りて、俺たちを呼びつけたというわけか」
「装備をほとんどもっていないもん。人手が必要だから…」
「助かるのですな?」老人が、まるで念を押すように訊ねた。
「ああ。肩をはじめ、骨折10カ所、内臓破裂3カ所、打撲擦り傷数知れず。重傷どころじゃない。よく助かったもんだ」
はぁっ。水瀬が深い安堵のため息をついた。
「だが、ただの子供というわけではあるまい?」
「無論です」
言下に言いきったのは、老人だった。
「あの子は、ただの子ではありません」
何故か、老人は居住まいを正した。
「あの子は」
ガラッ。
「東」
老人の言葉を遮ったのは、隣部屋から出てきた由里香だった。
「間違いないのですね?」
「……」
訝しそうな顔で由里香を見つめる老人と、老婦人。
「……あなた?」
「ばあさん。誰だったかな?」
「おじいさんが覚えてなければ、私が覚えているはずがありませんよ」
「ばあさんの方がモウロクしておるまい」
「あの……」
ばつが悪そうに由里香は言った。
「……もう、お忘れですのね」
由里香もまた、居住まいを正して老人に頭を下げた。
「お久しぶりです。倉橋由里香でございます」
「!!」
「!!」
そう。目の前にいるのは、かつては倉橋家家督相続の筆頭にいた女性。
忘れることなぞ出来る存在ではない。
「い、いやはや!これは失礼いたしました!お嬢様!このようなあばら屋によくぞ!」
最早、老夫婦は平伏していた。
「何をおっしゃいます」
由里香は笑っていった。
「東は私にとって武道の師匠。ここの道場のことも、よく覚えています」
「お、恐れ入りまする」
―――
「なるほど、儀式を」
老人は、そう言うと、深いため息をついた。
「馬鹿げたことを」
「馬鹿げた?」
「倉橋の巫女の力は、いや、神の力は、本来、私利私欲のために使うものではない。それは、この地、民のためにこそ使われるべきもの。歪んだ力は、歪んだ結果しか生まぬ」
老人は言った。
「先々代までは、こんなことはなかった。先々代の巫女様は、その点を正しく御自覚されていた。だから、この地は豊かになった」
「?」
「代々の巫女様の功績に尾びれ背びれがついたとはいえ、巫女様の本来の力のありようは、治水、つまり、水を治めるためのものじゃ」
「水を?」
「そうじゃ。この辺りは、昔から夏の日照りと、雨期には伏川の氾濫に苦しめられてきた。犠牲も半端ではない。だが、この村だけは違った。何故かわかるか?お嬢ちゃん」
「わかりませんっていうか、僕は男の子です」
「ウソはいかんぞ」
「本当ですよぉ……」
「まぁ、いい。答えは、巫女様がいたからじゃ」
「……治水っていうより、天候を操作していたんじゃないんですか?」
「そうじゃ」
「……」
気象コントロールが可能な魔術―――。
それは、歴代の「大」の形容詞がつく魔導師達ですら容易に出来ることではない。
それを、歴代の巫女はやっていたというのか?
「じゃから、この村周辺は、巫女様のおかげで、常に温厚な環境が維持されていたというわけじゃ」
そういうこと、何でもないって顔で言わないで欲しい。
水瀬はそう思った。
「で、その力が、他でも求められるようになった」
「そうじゃ。どんな将軍、殿様といれわようと、お天道様相手に勝てるか。米の出来の善し悪しが全てじゃ。だから、昔は倉橋の巫女の力を皆が求めたのじゃ。じゃが、時代の中で、倉橋の巫女の力も変質していった。気象操作の力は、いわば地を生かす力。そのものなのじゃが、やり方によっては―――」
水瀬は、ちらりと由里香を見た。
下唇をかみしめた由里香の顔は辛そうだった。
「逆も出来る」
「逆?」
「そうじゃ。正しく使えば生かす。逆を行えば、殺せる」
「地を、殺す?」
「地を殺せば、作物は作れない。人も住めない。生きていけん。倉橋の敵となった者は、その住む地を殺される。地の殺し方は、やりようによっては人のみを殺すことも出来る。そういうことじゃ」
「呪い?」
「そう。呪いそのものじゃ。今日日、倉橋の力を求める者のほとんどは、この呪いの力を求めてくるといってもよい」
「先代の頃は、やむを得なかったがな」
「何故です?」
「倉橋を、先祖代々守り抜いてきた自然を破壊するような開発から護るためじゃ。代々護り続けてきたもんを守るためじゃ。やむを得ぬわ。東京のコンクリートの中しか知らぬ者達に、この地をいいようにされてたまるものか!皆のため。大義のためじゃ」
「―――そして、それしか知らない有里香は」
由里香はつぶやくように言った。
「負を正として使い続けてきた」
「お嬢様……」
「正と負は、常に一つではありませんからね。負も時には正となり、正もまた、負になる」
由里香は肩を落とした。
「難しいものです」
「……儂ら、儀式も倉橋の力も、いらんのです」
老人は言った。
「儂らは、昔ながらの生活を守りたいだけなのですわ。力に左右され、血と欲望にまみれた神域なぞ、見たくもありませんわ。現に」
老人は、ちらりと襖を見た。
「あんな年端もいかぬ者をああする連中に成り下がっておる」
「おっしゃる通り……です」
「だから、儂は倉橋とは縁を切りました。倉橋に仕える中でも、まともな奴らは皆そうです。いつか、また昔のような平穏な倉橋が戻ることを信じて、皆、精進だけは怠っておりません。……まぁ、儂ん所は、おかげでバアさんには迷惑かけっぱなしじゃが」
亜里砂が目を覚ましたのは、翌日の昼過ぎだった。
―――ここ、どこ?
見慣れない天井
おでこが冷たい。
冷たさを感じるように、目を閉じる。
ああ、なんだか体中が痛い。
ズキズキする。
それに、
くーっ
おなかが空いた。
ガラッ
「あら?起きたのね」
誰かが部屋に入ってきたらしい。
見てみたいけど、体が動かない。
「お粥、作ってきたけど、食べられる?」
「う、うん……」
「じゃ、起こしますよ」
上半身が起こされて、ようやく顔が見えた。
それは、亜里砂が見知った人物だった。
「お、お母様?」
亜里砂の顔が、蒼白になったかと思うと、亜里砂は布団に突っ伏して泣き始めた。
「ご、ごめんなさいごめんなさい!もうしません!もうしませんから!」
「あ、亜里砂ちゃん?」
手が亜里砂に近づく。
「やぁぁぁぁっ!!」
亜里砂の絶叫が、部屋に響き渡る。
「!?」
「ぶたないでぇ!いうこと聞くから!いい子になるから!!」
「亜里砂ちゃん!」
驚いて伸ばした手を、亜里砂は乱暴に払いのけた。
最早、亜里砂は暴れていた。
それが、今の亜里砂にとって、どれだけ危険なことか、由里香にもわかっていた。
「やだやだやだぁっ!!!」
いつも、亜里砂に近づくその手は、怒りと憎しみに満ちあふれていた。
罵声と共に振り下ろされるその手は、常に亜里砂にとって恐怖でしかなかった。
それが、今、側にいる。
イヤだった。
一番イヤなモノが、今、目の前にある。
「大丈夫だから!」
だが、違った。
その手は、力強く、そして、優しく、亜里砂を抱きしめた。
「大丈夫。大丈夫よ?もう大丈夫。私たちが護ってあげるから」
「うっ……うっ……」
きゅっ。と抱きしめられた感触。
柔らかい。
いいにおいがする。
昔、本当に昔、嗅いだ覚えのあるような匂い。
泣きたくなるほど、安心できる匂い。
「大丈夫よ」
耳元でささやかれる声の、何という安堵感だろう。
私は、これが何なのか知っている。
味わっている。
でも、それは昔、ずっとずっと昔のことだ。
何だったんだろう。
―――そうか。
あの時だ。
亜里砂の出した答えは、子供の亜里砂にとって、例えようもなく惨めで、惨めであるが故に、あまりに悲しすぎた。
「うっ……ぅっ……」
「亜里砂ちゃん?」
ひとしきり、“それ”に包まれた亜里砂は、
「うっ、うぇぇぇぇぇぇんっっっ!!!」
声を上げて泣き出した。
気がゆるんだのか?
悲しいことを思い出したのか?
そうかもしれない。
しかし、違う。
亜里砂が、“それ”の正体に気づいたから。
亜里砂が味わうことすら出来ずにいた“それ”
求めても恐怖でしか報われなかった。
でも、亜里砂は“それ”を求め続けた。
“それ”は……
母の、ぬくもりだった。
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