詩乃先生の憂鬱
詩乃先生の憂鬱
教育者とて人間だ。
故に、頭に来ることだってある。
それが、かわいいはずの生徒だったとしても、だ。
では、どんな生徒が頭に来るのか?
例えば―――
授業をさぼる生徒
授業を妨害する生徒
授業を聞かない生徒
中には、
自分を殺しにくる生徒
援交したのにサセてくれない生徒
というのもいるかもしれない。
しかし、ある種の教育者の場合、
自分の授業を聞かなくてもテストで高得点をとる
こういう生徒こそ、最も頭に来るらしく……。
キーンコーンカーンコーン
「じゃあ、次の時間までに宿題、忘れないようにねぇ」
「きりーつ。礼!」
授業が終わり、生徒達があわただしく教室から出る中、一人の先生がため息をついて廊下を歩いていた。
桜井詩乃(さくらい・しの)
明光学園教諭。担当は数学。
”ツボ”を押さえた的確な授業展開、生徒の興味を引く話術と、まさに教師の鏡のような存在だ。
この先生にも、やはり悩みはある。
授業には自信がある。
そのはずなのに―――。
”また、あの子だけ寝ていた”
どうして?
私の授業、つまんないのかなぁ……。
思わず、ため息が出てしまう。
授業には、結構自信があるんだけど……。
はぁ……。
「どうしたんですか?桜井先生」
振り向くと、英語担当の南雲がいた。
筋肉系男は嫌いな詩乃だが、性格がさっぱりした南雲のことは、気に入っていた。
「あら。南雲先生。授業でしたの?」
「ええ。ため息なんて、らしくないっすよ?」
「はあ……実は」
「?」
「先生は、授業中寝ている生徒をどうしていますか?」
「放っています」
「放って?」
「ええ。いけませんか?」
「だって、授業聞いていないんですよ?」
「聞かなくて困るのは、俺達じゃないですよ。あいつらです」
「それは、そうですけど……何だか、見捨ててるようで、好きにはなれません」
「そりゃあ、考え方だと思いますがね。アイツらが俺達の授業を見捨ててるんですから」
「考え方、ですね」
でも、
ううん!
頑張れば、きっとあの子だって、授業を聞いてくれるはず!
私は、誰も見捨てたりはしない!
よし、頑張るのよ!詩乃!
詩乃の教育者としての精神と背中は、その崇高な使命に燃え上がった。
「あ、あの?先生?突然、背中に炎なんてしょっちゃって、どうしたんです?」
「演出です!」
「は、はぁ。……あの、スプリンクラー、作動してるんですけど……」
”とにかくわかりやすく”
これが、詩乃の授業の基本理念だ。
わかる→面白い→勉強したくなる
分かり切った理屈ではあるが、これを授業で実現出来る教師はそう多くはない。
それを軽々とやってのけるが故、詩乃は教師として高い人気を得ているのだ。
「――というわけで、ここにXを代入することにより、答えはすぐに出てきます」
生徒達の間からは、感嘆の声が上がる。
「クソまじめに努力することはないんです。要は要領です」
詩乃は微笑みながら数学を学ぶ秘訣を言った。
「要領よくやって、後は神様に任せていれば、神様は”正しい答え”という奇蹟を、あなたのおケツに突っ込んでくれます」
生徒の沈黙を、了承と勝手に受け取った詩乃は思う。
難しすぎることから生徒達が敬遠するこの手の問題でも、大切なのは、解き方をどう教えるか。
問題を解決した後,基になる考え方が何かを明らかにし、明らかにした基になる考え方を活用し,それを自分のものにする。
これが基本だ。
これに、私流のちょっとした工夫を加えれば、ほら――。
生徒達の眼の色が違うでしょ?
世界の破滅かアノミーの局地に立たされたようなあの眼。
「それが出来ない人は、両生動物のクソをかき集めた値打ちしかないのです。いいですね?」
これだけやれば、あの子だって―――。
ちらっ
問題の生徒を見た詩乃は、愕然とした。
また、寝てる……。
「コホン。水瀬君?」
横の席の生徒が、机に突っ伏したまま、ピクリとも動かない生徒を突いて起こす。顔を上げ、まだ授業中であることに、この生徒は驚いているらしい。
――ちょっと、バツが必要かしらね。
詩乃は、黒板一杯に複雑な数式を書き出した。
先程までの方程式の応用問題。
ただし、大学で相当なレベルの数学を修めた者でなければ解ける代物ではない。
解けなくて当たり前だ。
解けなくていい。この数式をきっかけに、授業に集中させよう。
うん。いい方法だ。
「――さっ。水瀬君?この問題解ける?」
「X=16」
「――え?」
「だから、X=16です」
一呼吸で解かれてしまった。
普通、一流大学の学生でも答えるのに20分は必要なはずなのに。
でも、違ってくれた。
内心、詩乃は生徒の間違いに安堵していた。
「はぁい。違いまぁす。この場合のXは、25です。ダメよぉ?授業聞かなくちゃ」
「……先生、方程式書き間違えてる。……えっと、4行目と24行目、YとXの代入、逆だったら、25だけど、式通りなら16だよ?」
「……えっと……」
よくよく見てから、詩乃は青くなった。
「ち、ちょっと待ってね!?」
15分後
詩乃は結論に達した。
この子の指摘は正しい。
確かに、このままで解けば、答えは16にしかならない。
「あ、あはははははっ!ゴメンね。水瀬君」
笑ってごまかしたが、計算ミスをほとんど授業を聞かない生徒に、一瞬のうちに指摘されたことに、内心で焦りすら感じていた。
この子にとって、私の授業の価値って何だろう。と。
「――なるほど、そういうことですか」
今までの経緯を告げられた南雲は、うらやましい。という顔で頷いた。
「オレなんて、マトモに授業をするのが夢だというのに、なんて贅沢な……」
詩乃の悩みは、南雲にとっては地上に存在すること自体信じられないような悩みだった。
「まぁ、アイツは浮世離れした変人ですからね」
「それはわかっています。でも、かわいい生徒にかわりはありません。きちんと授業を受けてもらいたいと思うのは当然じゃないですか」
「そりゃあ、まぁ……」
「先輩にも言われました。教師の仕事とは、”可愛い豚娘共をシゴき抜いて一人前の海兵隊員にすることだ”って」
「何か違う。それ違う。一体、どこの誰なんですか?それ……」
「元は海兵隊の指導教官だったそうです。軍隊でモメゴト起こしてそのまま日本に逃げてきたと……あ。まだFBIから指名手配中のはずです」
「……それが、先輩?教師?」
「はい」
さも当然という顔で頷く詩乃。
人のことは言えないが、上には上がいる。と南雲は妙な感心をした。
「はぁ。このままでは先輩に申し訳が―」
「先輩とは大学時代に知り合ったんですか?」
「ただしくは大学院です。サークルで知り合った先輩でした」
詩乃は遠い目を窓の外に向けた。
「教師として尊敬すべき方のみならず、スプラッター映画……いえ。それ以上に、女同士のすばらしさを一から教わった、かけがいのない、お姉様でした。……ああ、お別れのあの夜のすばらしさを、体が忘れられません」
語りつつ身悶えする詩乃を、ひき気味に見る南雲。
「……は、はぁ……」
「あぁぁ……思い出すたびに……お姉様ぁ……(はぁと)」
南雲は、その光景を想像することを、夜まで待つことにした。
それからというもの、詩乃は手を変え品を変え、何とか授業に集中させようと躍起になった。
あらゆる授業改革の本を読みあさり、教材を工夫し、参考になるものはどん欲に授業に取り入れた。
”桜井先生の授業は面白い”という評価は、生徒達の間で当然となりるのに、さほどの時間はかからなかった。
生徒達の変化はめざましかった。
"生まれて初めて数学の授業が面白かった"
"予備校の授業よりためになる"
”先生と二人っきりの課外授業が受けたい”
”あの巨乳でオンナのすばらしさを教えてほしい"
と、わずかの期間で、詩乃の授業は学園中の評判をさらっていた。
他のクラスの生徒が紛れ込んでまで受けたがる授業として、生徒達からの評価と成績は鰻登り。
定期テストでも、他の数学教諭受け持ちの生徒と比較して、偏差値で10以上の開きが生じていたことが、それを裏付けていた。
しかし――
テストでトップ成績をとった生徒は、今日も机に突っ伏したままだ。
詩乃は、正直落胆していた。
この子は、私の授業を聞かなくても、トップをとった。
この子には、私の授業が必要ないんだろうか……。
詩乃の考えは悪い方へ悪い方へ進む。
結局、私の努力って何だったんだろう。
生徒一人、授業を聞かせることが出来ないなんて―――。
私が悪いの?
それとも、この子が悪いの?
私は精一杯のことをしたつもり。
それでも、授業を聞いてもらえない。
そうね―――。
私の努力が足りなかったってことかな……。
自分の至らなさに泣きたくなるのを押さえながら、続ける授業。
私、やっぱり、教師に向かなかったんだ。
だから、この子は、授業を聞いてくれない。
でも、学園でトップの成績なんだ。
私の授業に、意味はない。
不意に目頭が熱くなった途端――。
ふわぁぁぁぁぁぁっ……ムニャムニャ
間の抜けたあくびがクラス中に響き渡り、詩乃は思わずつんのめって、手にしたチョークの先端を割った。
「……へ?」
振り向くと、あの生徒が、気持ちよさそうに眠っていた。
その寝顔は、確かに可愛らしい。
可愛らしいけど……。
そうね。
格言で言う、アレなのね。
詩乃の理性は、文字通り、キレた。
ツカツカツカ
穏和な表情はどこへやら、鬼のような形相で、生徒達の間を抜け、清掃用具入れからバケツを取りだすと、教室の外へ。
何事かと見守る生徒達の耳に、水道の蛇口を開いた音が聞こえ、しばらくした後、その形相の恐ろしさから、全員が眼を合わせようとしない中を詩乃は歩き、そのまま―――。
ガンッ!
教室中に、そんな音が響き渡った。
「害虫は消えました」
「あ、あの……」
バンッ!
美奈子の声を遮ったのは、教壇に叩きつけられた指示棒の音だった。
静まりかえった教室を冷たく睨んだ詩乃が怒鳴る。
「はっきりさせておきます!わたしは数学”訓練教官”です!」
ざわつきが消えない教室に、詩乃の声が響き渡る。
「授業中だ!話しかけられたとき以外は口を開くな!口でクソたれる前と後に“サー”と言え 分かったか、ウジ虫ども!」
「は、はぁ……」
「Sir,Yes Sirだ!日本語すらわからないのか!?」
「さ、Sir,Yes ……Sir」クラスの全員が呟くように復唱する。
「ふざけるな! 大声だせ! タマ落としたか!」
「Sir,Yes Sir!」今度は絶叫に近い。
「よろしい」
詩乃はようやく普段通りの顔に戻った。
「さぁ。みんな、授業に集中しないと、同じメにあうんだからね?」
詩乃は、そういうと、いつも通りの明るい笑顔をかわいい生徒達に向け、授業を続けた。
へしゃげたバケツを被ったある生徒が、ピクリとも動かないのは、決して眠っているからでない中を―――。
この日の授業以降、
”桜井先生だけは怒らせるな”
それが、生徒達の合い言葉となり、そして、問題の生徒たる水瀬も、最初から最後まで、マジメに授業を聞くようになったという。
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