あの時助けていただいた蜘蛛です。

桑野

あの時助けていただいた蜘蛛です。

 夜の帳が降りていく。僕は月と金星しか見当たらない空を眺めていた。そろそろ寝なければな、そう思っていても、中々寝ることができない。僕はそんな時、よく部屋の掃除をする。蛍光灯は切れかかっていて黄色く、ぼんやり光って頼りなく、狭い部屋の殆どを占拠するベットは僕が子供の時から使っているからガラクタみたいだ。大学生になって、一人暮らしを始めて三年。僕の部屋は一部屋から増えることなく、入学式のその日から同じ通学路を飽きもせず歩いている。夜ご飯は大抵カップ麺で、母さんからはそろそろ自炊しなさいと言われるけれど億劫だ。缶とペットボトルは階下まで捨てに行かなければならない(僕は東京郊外の学生寮の二階に住んでいる)ので机に溜まりがちで、偶に買うお菓子もいくつか床に転がっているので不衛生。けれど、それ以外は特に何もない平凡な部屋だった。そういう部屋を眠れない夜に丹念に掃除するのが僕の趣味だった。





 机の上の缶ペットボトルを一斉にかたずける。貧相な机に林立した機械工場地帯はガラガラ音をたてて凹み、まっさらな面白みのない不毛な更地に成り果てた。僕はパソコンと幾つかの書籍を置いて額にきらりと光る汗を拭った。僕がもし神様であれば、汗の星が不毛なる夜空に列席しただろう。やっぱり書籍はしまって、ティーポットを置いた。僕は実学主義なのだ。福沢諭吉万歳!彼はそろそろ一万円を降板させられるようだ。ざまあみろ!





 本棚。僕が実家からいくつか持ってきた本。殆どが海外文学。ヘミングウェイにトルストイ。アガサクリスティーとシェイクスピア、ドストエフスキー。大物作家がひしめきあっているのを国ごとに仕分けたり、名前順にしたり、ばらばらにしたりする。次に掃除する時の楽しみのために出来るだけへんてこな並びにしている。それから神保町で買ってきた古本。初版本がいくつかと、大正時代の円本がいくつか。ツウな友人は初版本が良いと力説するけれど、とくに違いはわからない。読めればいいと思う。ふしだらだ。全集も並べてある。研究資料だ。大学院にいくほど金に余裕はないから、普通に就職するけれど、いつか役にたつかもしれないと思って買いこんでいる。作家の名前は言わない。言うと友人にまたこいつあいつの話してるよとか思われてしまう。僕は人見知りで、もう初めて会った人には何も話しかけられないくらいに人見知りなので、数少ない友人を失うと外界と意思疎通出来ないために、機嫌を損ねたくないのである。カバーを外して表紙を撫でる。冷たくて心地いい。熱に魘された時に母さんがそっと貼ってくれた冷えピタくらい心地いい。僕は並べられた本を出し入れする瞬間が好きだ。文庫本の最後のページを読み終えた時の感覚に近いかもしれない。埃を払って、本棚の上に置物と調味料を並べる。柚子入り七味。豆板醤。伯方の塩にウスターソース。暇な時にカップ麺に彩り添える。それ以外の用途には使用しない。怠惰だ。





 ベットメイキング。母さんがよくしてくれた。母の味は忘れたけれど、母のベットメイキングはホテル並み。それだけ憶えている。薄情だろうか。実家には永らく帰っていない。寂しがっているだろうか。僕も寂しい。金がなくて財布も寂しい。満点の星が描かれた紺色のシーツを敷いて真っ白なさわさわした心地の布団を被せる。僕は新雪にダイブする兎みたいにベットに寝転がりたい思いに駆られるけれど、我慢する。眠い?いや眠くない。僕はいつだって元気だ。寝ないでも生きていけそうである。




 床掃除。これが大変だ。古代文明が愚かな戦争の果てに生み出したというカップ麺の残骸をあらかた拾いあげると、ユーラシア大陸みたいに広大な木製の床をコロコロを使って少しずつゴミを取っていく。掃除機?あんな文明の利器使っているようじゃだめだ。頽廃的で時代遅れだ。髪の毛。食べかす。消しゴムの屑。普通の人なら汚いと思うんだろうけど、僕は好きです。そりゃ僕だって他人の髪の毛は嫌いだ。生えてる時から嫌いだ。別に僕はハゲじゃないけれど。じゃあ何で好きかって?僕にもわからない。多分、僕という存在の痕跡だからだろう。結果がどうであれ、そこに僕が生きていたことが証明される。だからそれを余すことなく掃除するのは何となくもの悲しいね。しかし掃除をしたという結果が僕を満足させる。大丈夫、また汚せばいいのだ。




 僕はミニマリストなので、掃除は何事もなく完遂された。いや、待ちなさい。僕は窓際の床に小さな黒い点を認める。完璧主義ではないけれど、見つけてしまった以上は除去せねばなるまい。僕はのしのし近づいて点を眺める。僕は目が悪い。日に日に目が悪くなっている。視力検査の結果が悪いと、テストが零点でも怒らない母さんがどうしてか不機嫌になる。多分大叔父(母さんの叔父さん)さんが眼科医だからだと思う。良いじゃないか、世の中目が良い人ばかりじゃ、大叔父さんも商売あがったりだろうに。兎も角僕は学校から配られる視力検査の再検査勧告を悉く隠し通したツケで視力はとてつもなく悪い。一説にはもぐらより悪いとか。僕はしゃがんでその黒い点を摘まんでみる。その点が僕の掌でもぞもぞ動きだして気色悪かったが、ああなるほど蜘蛛だったかと合点がいった。点だけにね。座布団、取らんでくださいよ。





 その蜘蛛は僕に懇願するように前脚を擦りあわせていた。知っている。これは別に拝んでいるわけでも哀願しているわけでもないと。けれど、僕は人情に篤い。犍陀多50人分くらい人情が篤い。仮に地獄に落ちて僕のために垂らされた糸に大勢の罪人が登ってこようが別に文句は言わない。芥川は多分、僕を主人公にはしないだろうな。蠅だろうが子猫だろうが人だろうが僕は助けることにしている。偽善だと御尤もなことを思われる友人もあるかもしれない。そんな不届きなことを思う友人いないだろうか、いやいてもいいのだけど。兎も角、僕に助けを求めている命がある一方で地球の裏側で誰かが誰にも助けてもらえぬまま死んでいると考えると、僕はどうしても目の前の命を助けたくなるのだ。時に地球の裏側でなくても、助けられぬ命もあるんだけど。僕は掌に蜘蛛を優しく、それはもう白チャートくらいやさしく、ベランダにお引き取り願った。蜘蛛はすごすごと帰宅していった。多分迷子だったんだろう。僕も独り立ちして直ぐのころはよく迷子になったものだ。迷子の挙句大学の近くに下宿してる友人の家に忍び込んで巣をつくったこともある。その友人は僕の尻を蹴り上げて、それはもうつらく、インドカレーとおなじくらい辛く僕にお引き取り願いやがった。僕はあの日のことをまだ許していない。冗談である。





 事件はその次の日に起こった。ベランダになんともまあ可愛らしいロリっ子がいるではありませんか!!その女の子は白いワンピースに黒のカーディガンを着ていておめめはパッチリ、襤褸い蛍光灯に照らされて曖昧に微笑すると覗く八重歯が愛らしさを倍増させるのでした。僕はまあ事情は後で聴くから、と平日の夕方くらいの再放送でよく見る警察のオッサンみたいな口調で彼女を招き入れたのでした。成功。

「あの時助けていただいた蜘蛛です。」

彼女はそう呟くように言ったので、僕はああ昨日の、と納得した。僕は順応するのは早いタイプなのだ。断じてご都合主義的展開ではないので悪しからず。僕は彼女にベットに座るように促し、彼女は大人しく従って腰掛けた。僕は備え付けの椅子に座って彼女と向かい合った。彼女は言った。

「あの時助けていただいた蜘蛛です。お礼を言いに来ました。それから、お父さ、、族長に頼み込んで貴方のお願いを一つだけ叶える能力を習得しました。一つだけお願いを叶えてあげます。大それたお願いは出来ません。あくまで等価交換が原則、なのです。」

「例えば人を蘇らせるとか、地獄に落ちてしまった僕を助けてくれる、、とかは無理なわけですか」

あたりまえじゃないですか、という顔をして彼女は肯いた。ああ可愛いなあそっくりだ。そういうところがそっくりだ。

「どんな感じのお願いを叶えてくれるわけでしょうか?」

僕は神妙な面持ちを装って聞いてみた。まるで儀式をするインディアンみたいだったけど、僕は真面目な雰囲気に耐えられないのだ。つい言わなくてもいい冗談を言ったり、噴き出してしまいそうになる。そういう時も君だけは笑ってくれたんだよな。

「そうですね、、。失くした鍵を見つけるとか、床のお掃除だとか、風呂掃除だとか、服をたたんだりとかですかね。」

彼女はおめめをくりくりさせて言った。些細なことですが、すごいでしょ!みたいな風に彼女は思っているようだ。確かに僕たちは風呂掃除とか床掃除とかさ、当番制でやったけれどもね。僕は服たためなかったからさ、いつもお願いしてたけど。今はもう一人暮らしなわけで、全部自分で出来るように身体を嫌でも鍛えたわけなんです。

「どれもいまいちパッとしないねえ」

僕がからかうように言うと、彼女は頬をやや膨らませて睨みつけてきた。僕はふう、と溜息をついた。意識しないと唇が歪んできちゃうじゃんか。泣いちゃうじゃないですか、男は泣かないって相場が決まってんの。

「じゃあさ、カップ麺、一緒に食べようよ」

「うへえ不健康ですよ。」

彼女はそう言いながら瞳はきらきら輝いていた。よっぽど腹を空かせていたんだろう。君はさ、覚えたてのベジタブルとかいう言葉使ってさかんに健康志向だったけどさ、本当は僕、知ってるんだぜ。真夜中に僕がこっそりカップヌードル食べてんのを君がうしろで指くわえてみてたの。そのあと、僕は君とわけあってカップヌードル食べたよな。僕は「麺職人」のほうが旨いって言ったんだけど、君は僕と食べるカップヌードルの方が百倍旨いとか適当なことを仰りやがりましたね。




「君はどうしてその姿で現れたんだい?」

「お父さ、、族長に魔法の粉をかけて貰って(どおりで彼女は甘じょっぱい匂いなわけだ)、あなたが一番逢いたい人の姿に変身したんです。その方が警戒心解きやすいですしね。」

「いつもは何食べてるのさ。まさか、蜘蛛の世界にカップ麺なんて概念、ないでしょ」

「いつも、、ですか?わたしは肉食系なんで、蝶の羽とか羽蟻とか食べてますね。でも一番はやっぱり蠅!蠅が一番おいしいです!とくに前脚の付け根のどろどろした部分が、、」

折角のカップ麺が不味くなりそうなので僕はあわてて話を切り上げた。そうか、君は肉食系なのか。まあ蜘蛛がベジタリアンだったら吃驚するけどな。





 狭い部屋に湯気が立ちのぼる。僕は普通のカップヌードル、彼女にはシーフードのカップヌードルを手渡した。どうして蜘蛛なのにお箸が使えるんだろうと不思議なくらいに彼女は器用に上手く操って麺をすすった。ああそうか、君は編み物が上手いんだっけね。僕のためにつくってくれた手袋、あれ小っちゃくなりすぎてもう入らないぜ。またつくってくれても良いんだぞ。僕なんかお構いなしに麺を夢中になって啜った彼女は満面の笑顔。眼鏡が曇ってよく見えないのが残念だ、少しでも彼女を、一人前のカップヌードルが食べれるようになった彼女を記憶に残しておきたかったのに。でもまあいいか。これでこころおきなく僕は泣くことができるってわけだ。神様の、粋な計らいってやつだ。






僕たちは暫く無言でラーメンを啜ったもんだから、僕の「カップラーメンを一緒に食べる」というお願いは15分で終了してしまった。名残惜しいけど、これ以上君を見ると目に毒だからな。君は毒をもっているのかい?君の種族にはけばけばしい腹をしたジョロウグモとか、赤い稲妻が走ったセアカゴケグモとかいるわけですが。

「あの、、スープは残してもいいですか、、?わたし、ダイエット中なんで。」

ふと思い出したかのように、まるで当然であるかのように、生物界の本能として絶対あり得ない「ダイエット」という驚天動地な言葉を彼女は紡ぎだした。蜘蛛だけにね。座布団、取らんでくださいよ。

「駄目に決まってるでしょーが!君のあられもない姿、僕は知ってるですからね。あんなに貧弱な身体してちゃ生きていけません。飲みほして大きくなりなさい!」

「エッチスケッチワンタッチ!!!」

彼女は小さな拳で僕の頬を殴った。あまり痛くなく、むしろ懐かしい感じがして、思わず涙がこぼれるよ。ああ、ごめん。みっともない姿をみせちまったね、なんで泣いてるのかって?そんなに痛かったのかって?まあ、そんなところだよ。君が居なくなったのは僕の人生で最も大きな痛手だと思うな。





「じゃあ。帰ります。女の子なので門限も厳しいのです。アディダス!」

「もう迷子になんなよ。それから、アディオス、な」

彼女はずずっと扉を開けてさっさとベランダから帰ってしまった。薄情じゃんか。まあ仕方ありませんか。門限が厳しいなら仕方ないな。あんまり引き留めてしまうと親御さんが可哀想だしな。それに、きっと彼女には背の高い、あんましぱっとしない、冗談のあまり上手くない生き方が下手な兄貴が、一番心配してそわそわしてるだろうからな。僕はカップ麺が不在になったファミマの袋からピースを一箱取り出してベランダに出た。夜空には月しか浮かんでなかった。





煙草をくゆらして木々のざわめきを聴き、曇天に顔の殆どを隠され、ぼんやりとした輪郭の月を眺めた。僕は詩人じゃないけれど、こんなことを思った。晴れていようが曇っていようが見えない星はある。今日みたいに月しか見えない日もある。けれど、星が消滅したわけではないのだ。見えていないだけで、そこにちゃんとあるのだ。そんなことを思った。煙が曙の空に伸びていく。ずっと伸びていく。



望遠鏡、買ってみるか。金欠だけどな。



僕は携帯を取り出して(僕だけがまだガラケーだ)、久しぶりに母さんに電話してみる。今度妹の墓参りに行こうと思う。あいつはユリが好きだったけね。それからカップ麺をお供えしてやろう。「麺職人」だ、きっとあいつは夢中で麺を啜って、5分も経たないうちに完食してしまうだろう。

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