アンビリカルワールド

kumotake

第1話プロローグ

『人間が慣れることのできぬ環境というものはない』 by レフ・トルストイ


 大昔の、それもロシアの小説家である彼が残したその言葉は、まるで今の日本に対して向けられた皮肉だと、そう友人は俺に言いながら、見るからに上等なソファーに腰掛けて、先ほど淹れた紅茶を口にする。


 そして一口飲み終えると、ティーカップを静かに置いて、友人は微笑を浮かべながら、話を続ける。


「最もそれは、この国の人間が、今よりもずっと昔から、奪われるという国からの行為に対して、あまりにも関心を持たずに、漫然と日々を過ごしていた結果なのだろうけどね......」


 そう語りながら俺の目を見る友人の瞳は、酷く澄んでいた。


 まるで曇りなど知らぬ様な、もしくはもう既に、元の色がわからぬ程に、ベッタリと何かで塗り潰されているような......


 そんな友人に対して、俺は視線を逸らしながら、言葉を返す。


「手厳しいんだな......」


「そう思うかい?」


「何も気付かずに搾取される人間がほとんどだ。そしてそのほとんどの人間には、予めそれらに関する情報が開示されていない。気付かないのも、仕方のないことなんじゃないのか?」


 そう言いながら俺も、目の前の友人と同じように、ティーカップを口に近付ける。


 そして友人は、俺のその行動に、俺のその言動に、ニヤリとした不気味な笑みを口元に携えて、言葉を返す。


「君は、冗談が上手いな......」


「どういう意味だ?」


「そのままの意味だよ。予めそれらに関する情報が開示されていないだって?そんなことはない。情報は予め、全て開示されている。しかし大半の人間はそれを調べようともしないんだ。そしてもう大半は、たとえそれらに辿り着いたとしても、ほんとうの意味で、それらを理解出来ていない」


 そう言いながら、友人は紅茶をもう一口含み、香りを愉しみながら飲み込んで、言葉を続ける。


「無知と無能は、物事の本質から最も遠い場所に、その人を置いてしまう。気付かぬうちにね......」


 そう言いながら友人は、どこか満足そうな表情を、俺に見せる。


 だから俺は、その表情に、その友人に、言葉を返す。


「気に入らないな。その言い方だとまるで、お前はその大半に属していないみたいだ。そしてその大半が知り得ない情報を、大半が理解できない情報を、まるで何もかも、全てを持ち得ている様な言い方だ。自分は周りとは違う、特別な存在だとでも言いたのか?」


 そう言いながら俺は、一度逸らしていた視線を彼に戻し、そして意識して、険しさを目元に添える。


 しかし友人は、そんな俺に視線を合わせながら、口元を緩ませるのだ。


 まるで俺の反応を、愉しむ様にしながら......



「フフッ......」


「何がおかしい?」


「いいや、べつに君のことを嘲笑したわけではないよ。ただ単に、嬉しかっただけさ......こんな他愛のない、しかしながらそれでいて、とても有意義なこの会話を、友人である君と出来ることが、僕は堪らなく嬉しいんだ」


 そう言いながら友人は、今度は紅茶の横に置いてある焼き菓子に手を伸ばす。


 そして一口、その焼き菓子を口にして、しばらく咀嚼をした後に、また友人は、言葉を続ける。


「......けれどやはり、嘆かわしいモノだ。コレで人は、生まれついてから死に果てるまで、本当の自由を知らぬ生き物になってしまった」


「それはいくらなんでも、悲観のしすぎだ。これしきのことで、人の自由が完全に損害されるわけではない。もっとも、ここで言う自由というのが、一体どういう定義なのかにも、よるけれどな......」


「フフッ......君と僕の考えている自由が、違うと言うのかい?」


 そう言いながら友人は、俺の方をジッと見つめる。


「さぁ、どうだろうなぁ......」


 そう言いながら俺は、友人の方をジッと見つめる。


 ジッと見つめながら、ゆったりと、友人はまた口を開く。


「少しだけ、話題の絞りを締めようか」


「......」


「自由という言葉についてだ。自由とは、思い通りに振る舞えて、束縛や障害が存在しないさまのことを言う。しかしまた同様に、道理などを無視した身勝手な自己主張。そういう風に説明することも出来る」 


「同じ言葉を指している筈なのに、随分とニュアンスが違うんだな」


「あぁ......しかしこの説明は、紛れもなくどちらも、自由という言葉を説明するのには、十分に足り得ている」


 言葉を切って、友人は座っていたソファーに、さらに深く腰掛ける。


 そして脚を組みながら、言葉を続ける。


「しかし、そこが問題なんだ。言葉というモノは、同じモノを定義している筈なのに、その説明一つ、文章一つで、受け手に与える印象は大きく変わる」


「しかしそれは、言葉というモノの特性上、仕方のないことだ。言葉には、目には見えない幅がある。だから俺達人間は、文字というモノに置き換えることで、それを可視化する」


「けれど全てを可視化することが出来ないのも、また事実だ。そこには必ず、隙間が生まれる。そしてその隙間は、いずれ大きな溝となる。人を呑み込める程の深さを、伴いながら......」


 そう言いながら友人は、俺の方をジッと見つめる。


 しかしそれでいて、その友人の視線は、その友人の言葉は、まるで俺の方を向いていない。


 俺ではない誰かを、俺ではない何かを、友人は最初から、ずっと見つめ続けていたのだ。


 だから俺は、友人に尋ねる。


「お前は、一体何の話をしている......?」


 しかしその疑問符の返答が、友人から返って来ることはなかった。


 その代わりに、けたたましい程のアラーム音が、聞こえてくる。


 そしてしばらくして、自分がコッチ側にいることを、自覚する。


 自覚して、目を開いて、意識を取り戻す。


 仮死状態から、通常の活動が出来る状態にするために、身体が起動する。


 そしてその状態のまま、もう朧気となってしまった、友人の声を想いながら......


 ノイズ混じりの、途切れ途切れの、不思議な記憶......


 そんなモノを想いながら、俺は呟く。


「そっか......夢か......ったく、趣味が悪い......」


 そう言いながら手で顔を抑えて、そう自覚して、自分が生きている世界に視点を合わせながら、身体を起こす。


 仕事に行くために、身支度を整える。


 洋服を着替えて、髭を剃り、顔と髪の毛を整える。


 朝から流れるニュースには、天気予報が流れている。


 そしてその後に、昨晩のスポーツのハイライト、流行の店や服の特集、街中の人に対しての、どうでもいい様なインタビュー、その他諸々......


 それらが全部終わって、番組が切り替わる。


 時刻は丁度、八時を十分ほど過ぎた頃だろうか......


 職場へ行く用意を全て済ませ、テレビを消して、冷蔵庫からゼリー飲料を取り出して、家を出る。


 職場には電車を使って通勤しているから、鍵を閉めた後に、そのままの足取りで、最寄りの駅に向かって歩き始める。


 歩きながら、手に持ったゼリー飲料の蓋を開けて、それを口から流し込む。


 そしてその間に、もう最寄りの駅には到着しているから、流し込んで、空になったゼリー飲料の容器を手に持って、改札を通る。


 そしていつも使う階段の、近くにあるゴミ箱に、空になった容器を捨てて、その勢いのまま、歩みを止めずに、階段を上がる。


 これが俺の、新堂 浩一しんどう こういちの、いつもの日常だ。


 正直に言ってしまえば、不満はある。


 乗っている電車は地下鉄のはずなのに、どうして階段を上がらなければいけないのか......


 朝はそこまで得意じゃないから、激しい運動は控えたい。


 けれど......


 この世界に生きている今の俺の不満なんて、結局のところ、その程度のモノなのだ。


 そんな風に、自分の不満の小ささを、自分の中で消化しながら、俺は今の時間を確認するために、左手の甲を見る。


 そしてそこには、青白い光で、今の時刻が映し出される。


 時刻は八時二十分。


 漢数字で表示されたその時刻は、俺が視線を外すと消える。


 そして外した視線の先で、到着した地下鉄の扉が開く。


 西暦四千二十三年の日本。


 今日もいつも通り、電車は他人ヒトで、溢れている。



「僕たちの仕事って、結局のところただの監視ですから、別に人間がやる必要はないと思うんですけれど。そのへん、新堂さんはどう思いますか?」


 そう言いながら、しかし視線は、仕事を行うためのPCに向けられていて、忙しなく書類作成をしている同僚は、今年に入ったばかりの新人だ。


 そんな新人に、俺も仕事を熟しながら、言葉を返す。


「どんなに完璧に見えるシステムにも、結局のところ穴がある。それを補完するのが、俺等の役目だって教えただろ?」


 そう言うと新人は、また言葉を返す。


「それも結局、そういう口実を政府が欲しいからってだけですよね?それに本来、システムは人間が作ったんだから、逆だと思うんですよ」


「......っというと?」


「人間の仕事を補完するのがシステムの役目です。違いますか?」


「これだと逆だって言いたいのか?」


「そうでしょう。バイタルデータと周辺の監視映像を見れば、こんな書類がなくたって、その人がどんな生活をしていたのかが、ほとんどがわかるんです」


「でもだ。全てじゃない」


 そう言いながら、変わらずにPCのキーボードを叩き続ける俺に対して、仕事の手を止めて、新人は言う。


「そんなのは詭弁です。なんて言ってしまったら、それこそ、どこかのお偉いさん方が、人権侵害だって、騒ぎ立てるんじゃないですか?」


 そう言いながら仕事の手を止めている新人は、どうやら自分の仕事を終わらせている様だった。


「......そうかもなぁ」


 そう言いながら、俺も自分の仕事を終わらせる。



 二人して横並びになって書いていたこの書類......


 昨日監視していたバイタルデータの中から、生活習慣病リスクのある人物を洗い出し、それらを数値化して、分析課にデータを提出する。


 まぁ提出すると言っても、書類作成で使っていたPCをそのまま使って、行政府の府内メールを用いて、分析課に送信するだけだ。


 つまりこの仕事は、監視から報告する業務に至るまで、全てデスクの上で完結するということになる。


 そしてそうなると、どうして出社しなくてはいけないのかと、そういう話にもなりそうなモノだが、しかしその理由は、たった一つ。



 国民全てのバイタルデータを管理する行政府のシステムであり、今の日本国民全てが例外なく、誰もが所有している複合型再生デバイス(Complex Of Reproduction Device)通称『CORD』を、行政府の外に持ち出さない様にするためだ。



 そう、たったそれだけのために、俺達は毎日この場所で、仕事をしている。



 午前中の業務を終えて、昼食を摂るために食堂へ向かう。


 食堂には予め、仕出しの弁当が用意されていて、俺も新人も、その弁当を手に取って、それを昼食として食べることにしている。


 もちろん無料タダというわけではなく、毎月の給料から、キッチリと一万円、差し引かれている。


 それでも、独り身の俺にとっては、有り難いシステムだ。


 毎日同じメニューというわけではなく、日替わりで様々なモノを入れてくれるから、飽きることはない。


 もしも自分で毎日用意しなくてはいけなくなったら、多分この仕出しの弁当よりも、高い出費になってしまうだろう。


 もしくは何処かのタイミングで挫折して、結局即席のラーメンとかうどんとか、そういうモノだけを食べる様になってしまう。


 たぶん、そうなる確率の方が高いな......


 そしてそうなったら、何処かで身体を壊して、薬代やら治療費やらで、より大きな出費に繋がりかねない。


 場合によっては、仕事を休むことに、繋がってしまうかもしれない。


 それならいっそのこと、普段は金に困っているわけでもないのだから、こうして毎日、健康的な食事を食べている方が、ずっといい。


 そしてそれは、今目の前で一緒に食事をしている新人も......っというよりも、この行政府に勤めているほとんどの人間が、同じ考えなのだろう。


「......っ」


 同調圧力......


 決して悪いことではないけれど、なんだか......


「まるで、この国の縮図ですよね、この職場って......」


「......そうか?」


「そうでしょ、皆同じ様な服装で、同じ様な仕事をして、同じ様なランチを食べて、同じ様な時間に業務を終える」


「別に悪いことじゃない。むしろ最後は有り難いことだろ?残業がほとんどない」


「それはまぁ、そうですけれど......」


 そう言いながら新人は、昼食の副菜であるキノコのソテーを箸で掴み、一口食べる。


 そしてそれを咀嚼して、飲み込んだ後に、また話を続ける。


「......でも、なんだかそれって、変ですよ。自分たちは個人として確立されている筈なのに、常に集団として動いている。仕事はそうであって良いかもしれませんけれど、服装やら昼食は、もう少し個性があっても良いと思うんです」


 そう言いながらも新人は、毎回必ず、何も残さずに、綺麗に弁当の中身を平らげる。


 そんな意見を謳う癖に、結局のところ、味には満足しているのだ。


 だからきっと、コレは新人には関係のない話なのだろう。


 大方、彼の同期の中で、そういうことを言っている奴が居るという、たぶんそんな程度の話だ。


 だから俺は、特に何も気にせずに、その新人の言葉に意見できる。


「服のことはまぁ、わからんでもないが......昼食のことに関しては言わせてもらう」


「えぇ、どうぞ......」


「......それなら自炊しろ。以上だ」



 そう新人に告げた俺は、既に食べ終わった弁当を片付けて、一度席を離れる。


 そして冷たい珈琲を紙コップに注いで、もう一度同じ席に戻る。


 戻るとまだ食事中の新人が、俺のことをジッと見ながら言う。


「新堂さんのそれ、コスパ悪くないですか?一度席を立つなら、最初から珈琲を用意しておけばいいのに」


「それだと区切れないだろ?」


 そう言いながら俺は、自分が注いだ珈琲を口にする。


 しかしそんな俺を見ながら、新人はまた軽快に、言葉を返す。


「区切るって......一時間しかない昼休みを、どんなに区切っても、それ以上にはなりませんよ?」


 そう言った後に、新人もようやく最後の一口を食べ終える。


 そして新人は、自分がさっき言ったように、予め用意してあった冷たい珈琲を口にする。


 どちらの珈琲も、買ったわけではない。


 福利厚生として無料で飲めるモノだ。


 しかし新人は俺とは違い、自分専用の小さな水筒を用意して、そこに入れている。


 俺はそんな新人に対して、言葉を返す。


「べつに、なんとなくだよ。昼食の時間と、食後の休憩を区切ってる。そして徐々に、気分を午後の業務に切り替える。まぁ所謂ルーティンだよ」


「それ、効果はあるんですか?」


 そう言いながら、新人はまた珈琲を口にする。


 なんだかんだ言いながら、こうして俺の昼休みに付き合っている新人は、俺に対して、軽口を叩きながらも、それなりに好感を持ってくれているのだろう。


 うん、そう思う様にしよう。


 そう思いながら、また俺は言葉を返す。


「さぁな、そんなモノは知らん。けれど俺はそうやってこの仕事を熟しているし、これからもそうするつもりだ。何事も『効果があるからやる』とか『こうすることが合理的だ』とか、そういう理屈だけで成り立っている様な社会なら、今の世の中は、もっと発展しただろうよ......」


 そう言いながら俺は、新人に向けていた視線を、 食堂の中央にある放送用プリズムに移す。


 そこに映し出されているのは、昔から未だに進まない、政府の税金と国債の問題、他国との領土問題、汚職議員の処遇についてなど......


 そんなどうでもいい情報が垂れ流しにされている。


 その俺の視線に気が付いた新人は、また楽しそうに、皮肉を口にする。


「なんか、もうずっと昔の事ですけれど、AIが国を統治してた時期もありましたよね、この国」


「あぁ、小学生から高校生まで、歴史の教科書にはよく出る話題だよな」


「こういうのが続くようなら、いっそのこともう一度、そういうことをしてもいいんじゃないんですかね、この国は......」


 そう言いながら、口調は明るいけれど、やはり何処か、彼の中にも蟠りの様なモノがあるのだろうか、視線はその彼の口ほど、明るくはなかった。


プリズムで流れているニュースキャスター曰く、この国が今の形に落ち着くまでは、様々な紆余曲折があったらしい。


 特に二千年代後期、人の意思が一切介在しない、発達したAIが全てを統治する社会が成立した頃、最初は、人の私利私欲が政治に反映することがなくなったことから、合理的で平等な社会の実現という謳い文句が体現した。


 しかしそれを成立させた人間達は、では物足りなくなったそうだ。


 だんだんと、時代が進むにつれて、様々なことをシステムが決める様になっていった。


 その人が就職する職業、結婚する相手、子供に対しての教育、医療的な措置全般など、人が人らしく生活する上でしなくてはならない選択を、全てAIが行う様になった。


 そしてその結果、もはやこの国の法治国家としての体裁は、脆く崩れ去ってしまったそうだ。


 しかし三千年代後期、その現状に警鐘を鳴らしたのが、今の行政府だ。


 人が人らしく生きるための、新たな統治国家システム『複合型再生デバイスComplex Of Reproduction Device(通称:CORD)』の開発、運用、さらには法治国家としての体裁回復を、長い時間を掛けて、実現した。


 そんな風に語られる、ニュースキャスターのわかりやすい解説を聞きながら、新人は言う。


「要は、程度の問題なんでしょうね......決められ過ぎは気に入らないけれど、ある程度は決めて欲しい......みたいな......今の時代だって、CORDを使うことで、その人の健康状態をモニタリングして、食生活や医療措置の決定を、その人には選択させない。通知書を受け取った場合は、その指示通りの行動を義務付けている」


 そこで言葉を切って、新人は自身の水筒に残っている珈琲を飲み干す。


 そして飲み干した後に、言葉を続ける。


「どうなんでしょうね......人として一番大事な健康という部分を、垢の他人の判断に任せるのって......」


 そう俺に言いながら、しかし一貫として、新人の視線は俺ではなく、饒舌に話し続けるキャスターに向けられる。


 だから俺も、新人には視線を合わせずに、言葉を返す。


「まぁでも、それが一番いい落し処だったんだろうよ......」


 そう俺が言葉を返すと、新人は俺の方を見て、自分の頭を自分で指差しながら、言葉を放つ。


 そしてその言葉は、このCORDの運用方法を指していた。


 最初の頃は到底、受け入れられなかった方法だ。


「生まれた時から、脳にコンピューターを埋め込むことが......ですか?」



「......」


 その新人の言葉に、俺は何も返さなかった。


 しかしそれは、その新人の言葉を否定しているわけではなく、むしろそんな普通のことを、当たり前のことを、俺は何も言わずに、肯定したのだ。


 そんな俺の様子を見て、新人がまた、言葉を続ける。


「生後間もない子供の脳に、再生型ナノデバイスの移植って、今では当たり前過ぎて、誰も気にしませんけれど、それこそ昔は、大変だったんじゃないんですかね......」


 そう言いながら新人は、席を立つ。


 そんな彼の行動を見て、時間を確認して、俺も新人と同じように席を立ち、共有の場所に置いてあるウエットティッシュを使って、自分が使っていたテーブルを拭く。


 その後に、結局ほとんど飲んでいなかった珈琲を、一度に全て飲み干して、使ったウエットティッシュと一緒に、紙コップも捨ててしまう。


 そんな俺の姿を見て、新人は言う。


「べつに、無理して飲まなくても......」


「一度手を付けた食べ物、飲み物は残さない、ウチの御先祖様から続く家訓だ。ほっとけ」


「それはまた、随分と生活感のある家訓ですね」


 そう言いながら新人は、食堂から出てすぐのエレベーターのボタンを押す。


 押してから数秒後、エレベーターが到着して中に入り、新人がボタンを操作していると、彼はまた、思い出したかのような声色で、言葉を紡ぐ。


「......ところで、どうしてそんな大変なことが、『一番いい落し処』だったんですかね......普通に考えたら、もっと楽な方法があるでしょうに」


「CORDのことか?そうだなぁ......」


 そう言いながら、その後は何も返さない。


 無論、これは肯定ではなく、単にわからないのだ。


 ただでさえ、脳に何かを移植すること自体、当時は難しい医療技術だった。


 もちろん、リスクもあるだろう。


 俺は医学や解剖学に関して、大した専門的知識は持ち合わせていないが、しかしそれでも、何らかの後遺症のリスクがあることくらいは、仕事柄、最低限の知識として知っている。


 しかもそれらを、生後間もない子供に施すのだ。


 自分で『一番いい落し処』なんて言ってしまったが、どう考えてもそれらは、当時は危ない橋以外の、何者でもなかっただろうに......


 そんな風に、ただ知っていることだけを並べて、わからないという結論を再確認していると、そんな俺の様子を見て、新人はまた、言葉を放つ。


「新堂さん、実は何も考えていないでしょう?」


「考えても仕方ないからなぁ。それこそ、自分の先祖に訊いてみたいよ」


 そう俺が言葉を返したところで、エレベーターの扉が開く。


 いいタイミングだ。



 







 





 



 





 




 


 


 


 

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