藤のみなと
伴美砂都
藤のみなと
ドライブに行きませんかと誘ったのは俺のほうだった。お久しぶりっす。帰省してるって聞きました、ヤマさんから。ラインが立て続けに既読になってから、我に返ってスマホを放り投げて頭を抱えた。
ヤマさんは、
〈来週の水曜以外なら空いてます〉
果枝さんのメッセージはずっと簡潔だ。ロック画面に浮かんだ文面を見て、俺はもう一度スマホを放り投げた。
友達が働いている怪しげな中古車屋で買ったボコボコの軽で国道沿いのマックの駐車場に滑り込むと、所在なげに佇んでいた果枝さんはすぐこちらに気づいて小さく手を振った。
「ふつうの靴で来ちゃったけど大丈夫かな」
大丈夫っす俺ビニサンなんで、と即答すると、助手席の果枝さんは黙ったまま笑った。晴れて、五月の陽ざしはもう夏のようだ。
国道を左に折れて、南のほうへ走って行く。仏壇屋、民家、閉まっている小さな書店、商工会議所、インドカレー屋。小さなまちだなと思う。
昔からずっとある小さな内科医院の看板を右に見てカーブをぐっと曲がると、まだ海は見えないのに景色が一気に海辺になる。もともとふるい家も多いのかもしれない、潮と浜風に晒された壁が赤らんでいる。いつしか道は分かれ、頭上に隣町の名前が表示され、一車線になる。
何台かまえにゆっくり行く車がいるのだろう、速度を落とした車が連なる。じいちゃんの乗るような軽トラかもしれない。結構混んでるすね、と言うと、隣がふっと緊張した。
「あ、えっと、……犬すかね?」
「犬?」
「荷台に」
「……?」
「あ、昼飯ラーメンの予定なんですけど大丈夫すか」
「うん、」
「、 」
「……」
「……」
指先が迷ってカーステのスイッチを押す。Bluetoothなんて洒落たものは付いてないわけでもないかもしれないが使わない、いや、たぶん壊れてる。そんなことも面白おかしく話せばいいのに、何をどれだけ知っているような顔をしていればいいのか、知らない顔をしなければならないのか、わからなくなった。
中古ショップで買った洋楽のCDを入れていたはずだったのに、流れ出したのはなんとアリスの「チャンピオン」だ。なんてこった、このまえ親父にこの車を貸したせいだ、親父世代にしてもちょっと古い気はするが。吹きかけた口笛は霧消した。仕方ないので熱唱したら、果枝さんは今度はふっと声を出して笑ってくれた。
「この歌すきだよ」
「え、世代すか」
「そんなトシじゃないよ」
「冗談す」
「これでただの男に戻れるってところ」
「が好き?」
「うん」
道沿いの民家に入って行った軽トラの荷台には枯草がたくさん積まれていたが、犬は乗ってなかった。車の流れはスムーズになり、でも、そんなに速度は変わらない。なんとなく、果枝さんはあんまり飛ばしたら嫌がるかなと思った。
ラーメン屋は結構地元では人気の店みたいだが、平日の昼すぎで、すぐに入れた。窓辺の四人掛けの席に、はすむかいに座る。田舎の海辺によく生えている椰子の木の偽物みたいな木が、駐車場の片隅に一本だけボンと生えている。どこかから連れて来られただろうか。ラーメンはちょっと太麺の、普通のみそラーメンだ。ふと見ると果枝さんは箸を持ったまま手を止めて、どこかぼんやりとした目をしていた。
「濃すぎたすか」
「ううん、美味しい、……んだけど、ちょっと、だけ、苦しくなっちゃった」
「食いましょうか」
「、食べかけだよ?」
「全然いいすよ」
若いね、と言って果枝さんはこちらに丼を差し出し、その手をそのままに、ごめんね、と言った。
「若さとかじゃないよね、こういうのは」
「いや、まだまだ若いつもりっす」
「そう」
果枝さんだって、と喉もとまで出かかって言わなかった。だって俺たちは、たった数年しかちがわない。でも、大人だった。果枝さんは、ずっと大人だった。俺が高校生でバイトに入ったとき、院生になったばかりだった彼女。化粧気がなくて黒髪で、背が低くて制服のエプロンがでかく見えた。新卒の社員に年下に見られたといって複雑そうな顔をしていた。女子のバイトでひとりだけ飄々とラストの深夜零時まで入って、小さいバイクで帰って行った。いつもジーンズにTシャツで眠そうで、誰よりも仕事ができた。誰の悪口も言わず、口数は少ないけど、いつも飲み会には来てくれた。皆の輪の端で、ちょっとだけ居心地悪そうにして、あとは楽しそうに笑っていた。
果枝さんは大人で、でも、それでも、こんなに寂しそうな大人では、なかったような気がするのに。ラーメンは余裕だった。ただ、やたら喉が渇いた。
ラーメン屋を出て、またしばらく走る。古びた民家の外壁に、よく見る黒地に白と黄色の文字の、謎の看板がくっついている。「人の道も行いも 神は見ている」。空がふっと一瞬曇って、また晴れた。暑くなった気がして窓を開けると、潮の匂いがした。
海が見えた。
ゆったりとしたカーブを進むと助手席側にきらきらと水面が揺れる。波は高くない。何か養殖でもしているのか点々と浮かぶブイに、うまいこと一個につき一羽の海鳥が休んでいる。海を見るふりをして果枝さんのほうを伺うと、彼女も少し窓を開けて、海風に髪をもて遊ばれるがままに外を見ていた。車通りは少ない。人も歩いてないが、すぐ視線は前に戻した。
半島の突端まで行くと港がある。漁港というよりは、ここから発って隣県や小さな島へ行く、観光用の高速船やカーフェリーなどが多く行き来する港。チケット売り場や食堂なんかが入っている建物の、色褪せた青色の壁に、フェリーのりば、の文字だけ塗り直されたのか色鮮やかだ。シーズンオフというほど時期はずれではないが、駐車場は空いていて、一日五百円。フェリーに乗らなくても停められる。車を降りると、低い汽笛が聴こえた。
観光客を当て込んでか、向こうに屋台が幾つか並んでいる。いか鉄板焼き、あさり焼き。香ばしい匂いが流れてくる。じいちゃんとばあちゃんたちのグループが、楽しそうに木のテーブルを囲んでいる。看板と見まがうような位置に、四方にぐんと腕を伸ばされたタコが張りつけになって天日に干されている。
「晴れてるね」
「そうすね」
果枝さんの白い頬が、もう少し日焼けしたような色をしていた。申し訳ないような気もしたが、思い込みでなければさっきまでより少しだけ、彼女の表情も晴れ晴れとしたように見えて、俺ははしゃいでちょっと踊りながら走った。近所の人だろう、犬連れで話し込んでいたおばちゃん二人は話し込んだまま、犬だけが不思議そうにこちらを見た。フェリー乗り場は駐車場を除けば柵も何もなくフラットで、どこからでも普通に入ったり出たりできるのだ。駐車場もフェンスに囲まれているわけでもなくブロックが敷かれているだけだから、頑張れば乗り越えて侵入できるかもしれない。しないけど。
しばらく海を眺めた。堤防に猫がいて、近づいても逃げない。魚をもらったりしてるんだろうか。鳴きもせず、ふてぶてしそうな顔で座っている。白と、少し薄くなったような黒色のぶちの、ざらざらとした毛並みの猫だ。海風に晒されると、猫の毛も硬くなるんだろうか。老いているようにも、頑丈なようにも見えた。
「果枝さん」
「え、うん」
あ、間違ったかなと一瞬思った。そういうふうにあのころも呼んでいたのだったか、俺が、脳内で呼んでいただけか。しかし彼女は一瞬だけ、びっくりしたような顔をしただけで、海からこちらへ視線を移して少し待ってくれた。
「山、ちょっと登ってもいいっすか」
「山?」
駐車場の脇、張りつけのタコを横目で見ながら敷地を出て少し行くと、坂道を登って行ける階段がある。山、というまでもない、小高い丘、という感じで、でもけっこう傾斜はある。ウォーキングコース、という色褪せた看板が日陰に、どちらを向くともなく立っている。木漏れ日が落ちている。
ここ登るの、と言った彼女は、たぶんだけどほんの少し、怯んだような顔をしていた。たしかに、それはそうだ。果枝さんの足もとは柔らかそうな白いローファーで、膝丈の花柄のスカートも、たぶんウォーキングにも向かない。サンダルの俺に言えたことでもないけど、でも、たぶん、ボロボロのビニサンよりもっと、ずっと向かないだろう。
「すみません、やっぱり、」
やめときましょう、と俺が言いかけたのを遮るようにして、わかった、のぼる、と顔を上げた果枝さんは、キリッとして、少し覚悟を決めたような顔をしていた。
「俺、うしろ行きますから」
「……落ちないように?」
「そうです」
「……、やさしいんだな、マキくんは」
そう言って彼女は笑った。きれいで、儚くて、寂しい笑み。
ごつごつした石を積み重ねただけの無骨な階段を、果枝さんはゆっくり登って行く。からっとしているが暑くて、首筋と背中を汗が流れる。時折、風が吹く。黙って歩く。現場仕事で肉体労働しまくっているはずなのに、意外なほど息が切れる。俺は、緊張しているのかもしれない。
果枝さんも、少し息を切らしながら足を運んでいく。白いローファーは結構傷んで汚れていて、これは、きっと、階段のせいではないけど、見ていると申し訳なくて泣きそうになってきた。スカートから伸びる果枝さんの脚のほうが、人形のように、ずっと白い。浅い息の中で、果枝さん、と心の中で呼んだ。当然だが、彼女は振り返らない。果枝さん、昔がよかったなんて言えないけど、果枝さんは、こんなふうじゃなかったです。こんなに悲しそうで、疲れて、何もかも怖がって、がりがりに痩せてしまって。わざとらしいぐらい暗すぎず明るすぎない茶色の髪も、ぼんやりした色のサマーニットもスカートも、ピンク色の薄化粧も、果枝さんらしくない。あのころみたいに、染めないさらさらの黒髪をガッと結んで、ラフな格好で、「大型二輪の免許取りたい」と言って笑っていた、果枝さん。
果枝さん、ごめんなさい。俺は、果枝さんのことを、一度も好きだと言えなかった。でも、どうしても諦められなくて、あなたのブログだけずっと見ていました。だから、知ってしまっていました。大学院を卒業して、研究職に就いて、でも、うまくいかなくて体調を崩してしまったこと。同僚だった男と結婚して、何年かして、「頑張ったけどうまくいかなくて」、離婚して地元に戻ってきたこと。
果枝さん、あなたをそんなにボロボロになるまで頑張らせた男は、もういないです。あなたをそんなにつまらなくて寂しそうな人にしてしまった奴は、もう近くにはいない。ちょっと渋滞するだけで不機嫌になってあなたを怯えさせる人は、服装も、髪色も、化粧も、こうでなければならないと、言う人はもういない。もう頑張らなくていい。もう自由になっていい。もう、いつだって元気になって、大型二輪の免許だって、取りに行けるのに。果枝さん、俺だったら、ぜったいにそんな思いはさせない。俺だったら、もし、俺だったら……。でも、それでも、果枝さんが、一度は愛した人だ。俺は自分のことがあさましくて、情けなくて、Tシャツの裾を引っ張って、額に滲んだ汗と一緒に涙を拭った。
「んあ゛」
果枝さんが立ち止まっていたのに気づかずに、危うくぶつかるところだった。一度、深夜に二人でバイトに入っていて、暇で、レジに並んで立っていたとき、マキくんって結構でかいよね、とふいに言われたことを思い出した。果枝さんの頭は俺の胸もとまでぐらいしかない。なんて返したかは、忘れてしまった。挙動不審だったかもしれない。
吹っ飛ばしてしまいそうで怖いと思った、が、果枝さんはしっかり立って、上気した頬で、そこに現れた景色を見つめていた。もう、頂上に来ていた。
そこは少し開けていて、晴天に輝く海が水平線まで見渡せる。海水は思ったよりずっと澄んでいて、海に突き出す岩々の裾のほうまではっきりと見える。そして、その風景を縁取るように、新緑の緑と、紫色の花が咲き誇っていた。野生の藤の花だ。
この場所を見つけたのは去年の今ごろだ。ひとりで来た。それからずっと、俺はここに、果枝さんを連れて来たかった。
「すごい」
「……」
「すごいね」
「……、はい」
「きれい」
「……」
果枝さんの目に空と海がうつってきらきらと光った。そして、彼女の目線は確かに、茂り咲き誇る藤のほうも見た。嬉しくて、せつなくて、汗を拭うふりをして何度も涙を拭った。
藤はつる植物だ。近くの樹木に巻き付いて、太陽をめざして上に伸びて行く。巻き付かれたほうの木を枯らしてしまうことがあるので、林業を営む人にとっては邪魔な植物なのだそうだ。この小さな山は、たぶんそういう、なにかに役立てるための木は植わっていない、だれかがいつか植えたのかもしれないけど、半分野生みたいな木ばかりだ。だから藤も、そして、見分けはつかないけど藤が巻き付いている本体の木も、そこそこに伸びている。どの葉っぱが何の木なのか俺には正直よくわからないし、この花々を見ればもしかしたら藤のほうが、少し優勢なのかもしれないけど。
「藤って、わたし、小学校の藤棚でしか見たことない」
「俺もっす」
「でも、知ってたんでしょ、ここのこと」
「はい、でも、たまたまです」
「泣いてるの」
「、すみません」
「どうして」
「綺麗で」
「……、そっか」
「はい」
「ありがとう」
「、」
「ありがとう、マキくん、わたし、今日、来てよかった」
見晴るかす、海は穏やかだ。しかし小さな波はいつも立ち、止まってしまうことはない。ぼー、ぼー、と汽笛が鳴った。白い船体が遠くをゆっくり行く。どこかへ旅に出るのだろう、いや、帰って来たのかもしれない。さらさらと初夏の風が、藤の花たちを揺らした。
藤のみなと 伴美砂都 @misatovan
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