第1章 4-5
筒状の陶器とコック栓の開発依頼から10日。辰月の初め。屋敷は段々と忙しさを増している。この月の25日には、系譜の儀式とお披露目会が待っている。私にはどうすることも出来ないが、その分、師匠達と試行錯誤を重ねていた。
宇航(ユーハン)様からの許可は即日下りた。石鹸の香料となる物も手に入っている。
しかしながら、壺とコック栓が完成しない。というか失敗続きだ。
陶器に関して言えば、螺子部分に蓋が上手く噛み合わず、何度も蓋を作り直している。
コック栓に関しては、部品は完成しているのだがはめると、水漏れがする。微妙に隙間が空いているのだ。
ゴムでもあれば簡単な話だが、ここは微調整が必要だ。
然周(ゼンシュウ)は殆ど寝ていないのか、目の下に隈が出来てしまっている。
「然周(ゼンシュウ)様。そんなに根詰めなくても、時間はあるのですから、ちゃんと休んでください。新しい物を作るその情熱はありがたいですが、そんな状態では、良い物は作れませんよ。ちゃんと食べて、寝てこそ、最高の物ができるのでは?」
然周(ゼンシュウ)様は口数も少なく、苦笑いをしている。
師匠もあまり変わらない状態だが、然周(ゼンシュウ)様よりは少し元気に見える。
その後も色々話をして、取りあえず、然周(ゼンシュウ)様を休ませるため、師匠の部屋で無理矢理、横になってもらった。
帰って試作を作り上げると駄々をこねていたが、寝台へ上るとすぐにいびきをかき始めた。
よほど疲れていたのだろう。然周(ゼンシュウ)様はそのまま寝かせておくことにして、師匠にも休むよう言い聞かせて、鈴明(リンメイ)の寝台で寝かせることにした。
女三人で薬草を粉にしたり、花を蒸したりして香料を作る。
菜種油を少し用意してもらったので、新しい香りを作って見るつもりだ。
今、粉にしている薬草は蓬を乾燥させた物だ。薬として普通に売られている物を入手したので、それを乳鉢で炎珠(エンジュ)が潰している。
蒸しているのは茉莉花。こちらも乾燥した物だが、そのままだと香りが取りにくいので、茉莉花茶を作る要領で、緑茶に香り付けをするため、蒸している。これを鈴明(リンメイ)が手伝ってくれる。
私は基本の石鹸を作るために、灰汁と油の量を量り、桶に入れていく。
石鹸用に新しく作ってもらった木型は、桜の花形と牡丹の花形、四角と丸の四種類。花形は女性用で、四角と丸型は薬用と洗濯用だ。
せっせと材料を混ぜながら、ある程度粘り気が出た所で、炎珠(エンジュ)が粉にした蓬を少しずつ加えながら、均等になるように混ぜていく。
混ぜれば混ぜるほど、綺麗な緑色になっていく。
色つきも悪くはない。ある程度混ぜたところで手を止め、型に流し込む。これは丸形に入れてみることにした。
手のひらの大きさで、香りは蓬餅のようだ。
なんだかおいしそうな香りのする石鹸を、外に出す。3日ほど置いた後、型から外して更に干す予定だ。
また工房に戻って、茉莉花用の石鹸を作ろうとしたとき、扉の外に、宇航(ユーハン)様の姿が見えた。
抱き留められてから後、宇航(ユーハン)様も忙しかったのか、顔を合わせていなかった。
宇航(ユーハン)様はいつも通り微笑んではいるが、どこか疲れているようにも見える。
「どうされたんですか?領主様。そんなところに立っていないで、中へどうぞ。」
私が声をかけると宇航(ユーハン)様は工房へと入ってきた。そして私と話がしたいと工房から連れ出した。
お互い黙ったまま、宇航(ユーハン)様の後をついていく。本殿から伸びる橋までやってきた。
池には睡蓮が花を開き、その下を色鮮やかな鯉達が優雅に泳いでいる。
鯉たちが口を開く度に、池には水紋が広がり、まだ足を引きずっている私の歩調に合わせて、ゆっくり進むその橋の上からの光景は、まるで天界にいるような幻想を抱かせる。
しばらく歩くと橋の一角に東屋が設けられている。まるで水面に浮かんでいる花のようなその場所で、宇航(ユーハン)様は足を止める。
床を花形に加工して作ったその東屋には、木製の机と椅子が置かれている。
机の上には、湯気の立つお茶と、桂花糕が準備されていた。
椅子の一つに腰掛けるように促されたので、そこへ腰をかける。
私の前にお茶を置くと、その湯気が香りを運ぶ。
多分、烏龍茶だと思う。初めて目にする物だが、香りと色の記憶がある。しかし、桜綾(オウリン)はこのお茶を飲んだことはなかった。
いつもは名前も知らないが、薄い緑茶の様な物を飲んでいるし、高級なお茶には縁がなかった。
独特で芳醇な香りがする。
宇航(ユーハン)様が口を付けたのを見てから、私もそれを一口、口に含む。
少し苦みはあるが、色から想像した味とは違った。スッキリとした後味は、何を食べても邪魔をしない。そんな味わいだ。
桂花糕をこちらに寄せてくれたので、それも一つもらい、お茶と一緒に頂く。
甘いお菓子と苦みのあるお茶。考えられてこれが出されているのだろう。
ネズミの様にちまちま桂花糕を食べていると、宇航(ユーハン)様が急に口を開いた。
「桜綾(オウリン)、なぜ君は怒らないんだ?」
その話を蒸し返すのか・・・というか、そんな話が聞きたくてここまで連れてきたのだろうか。
取りあえず辺りを見回して、誰もいないことを確認する。
「怒らない事はないよ。私だって怒ります。特に母の事に関して侮辱を受ければ、自分でも抑制が聞かないほどの怒りに支配されるし。私が負傷したのも、元はと言えば、義母が母を侮辱して、私が怒りを抑えられなかったから。普通に腹が立つこともあるし。」
私は自分の足に目をやる。ここまでは回復したが、もう回復の傾向が見られなくなっている。
手を使えば折り曲げる事が出来るが、自由に曲がらず、足も上がらない。右足を庇うので、左足は夜になると関節が痛む。
その原因は、私の怒りだ。あの時、我慢できていれば五体満足でもっと早くにここへ来ていただろうし、皆に迷惑をかけることもなかった。
「自分の事で怒ることは?」
「怒っても、お腹が減るだけ。それに何も変わらない。悲しくはなるし、怒りが湧くこともあるけれど、それを表に出したら、倍になって帰って来るだけだったし。だけど、亡くなった母はもう何も言えない。こうして誰かに話すことも、味方になってもらうことも出来ない。それをいいことに、悪く言われることだけは許せない。私は私の意志で怒らないだけ。でも死者は意思すら持てないから。」
ニッコリ笑って答える私に、宇航(ユーハン)様は言葉通り、頭を抱えている。正確には、片手で両こめかみ辺りを押さえている。
そんな宇航(ユーハン)様を見て、手が大きいんだなと、全く関係のないことを考えていたりする。
「君が感情を出した所で、ここでは倍になることなどない。それに君はもう朱家の人間だ。使用人にへつらうことも、気を遣うこともない。君は怒っても良いし、泣いてもいい。悲しんでも良いし、苦しいと言っても良い。何故、それが難しい?」
「宇航(ユーハン)様。宇航(ユーハン)様はそれが出来る?領主様という立場にあるとき、私情を出すことは難しいのでしょ?」
「それは・・・そうだが、君とは違う。怒る必要があれば怒るし、表に出せなくても、それを出せる場所もある。だが、君はそれを隠してしまう。君を見ていると、何というか・・・こういうのをなんと表現したら良いのだろう・・・」
「壁を感じる・・・もしくは距離を感じる、心を開いてくれていない気がする・・・そういった感情かな?」
「そうだ!そう。君は表現が豊かだな。まぁそれはいい。見ているとこちらが苦しく感じる事がある。」
宇航(ユーハン)様はきっと心配してくれているのだろうし、少しでも、ここに馴染めるように配慮してくれているのだろう。
それは分かっている。分かってはいるが、こればかりは自分でもどうしようもない。
「宇航(ユーハン)様に助けてもらってから沢山、泣きました。感情を全て押し殺しているわけではないの。ただ、自分も本当の自分を知るのが怖いのかもしれない。心の奥底に溜った深く濁った恨みや痛みが、感情と一緒に流れ出てしまいそうで。私にはそれを直視する勇気がまだないから。」
「己の心の醜さを直視出来ない・・・か。人は往々にして醜さを持っている。しかし、君の場合は虐げられた分、それが深いのかもしれないね。されど感情は、吐き出さねば、余計にそれが深さを増す。深さを増しそれが抑えきれなくなったとき、人は悪鬼となる。この世で一番怖いのは人の怨念だ。だから、少しずつで良い。感情を上手く吐き出す方法を見つけなければならない。」
軽い話かと思っていたのに、何だかすごく重苦しい話になっている。
こんな景色の良い場所なのに、なんだか霞んで見える。
「宇航(ユーハン)様。心配していることは十分に分かりました。でも今はその術がわからない。だから今は・・・」
「わかった。もうこの話はよそう。少しでも君の役に立ちたかったが、余計に苦しめたようだ。すまない。」
それは嫌みとかではなく、本心に聞こえた。
「十分助けてもらっています。それにここでは、それほど苦しんでなどいない。今は幸せ過ぎて夢のような気がする。いつかこの幸せもなくなるのではないかって。気がつくと私はここにいないのではないかって。だから嫌なことより、良いことに目を向けていた。例えば、この綺麗な景色とか、おいしいお茶とか。これからどんな事が起きようと、この幸せを忘れないように。」
そう言い終わると同時に、宇航(ユーハン)様の腕が私に伸びる。
私を横から抱きしめると、
「これは夢ではない。絶対に夢にはしない。だから安心して欲しい。君の幸せは必ず守るから。」
そう言われて悪い気はしないが、ここは本殿の近くで、人通りもある。
「ちょっ宇航(ユーハン)様、分かりましたから、離して。人に見られます!」
宇航(ユーハン)様を引き剥がそうと手で宇航(ユーハン)様の体を押すが、離してくれない。
(私は抱き枕じゃないんだから。何かある度ひっつかれても困る・・・)
「もう!宇航(ユーハン)様!離さないなら、また言葉遣いを戻すよ!」
そういうと、やっと解放された。相変わらず胸はズキズキ痛むし、顔も熱いが、ともかく解放されてよかった。
息を整えて、残ったお茶を一気に飲み干す。
「話がそれだけなら工房に戻りたいんだけど・・・?」
「いや、これからが本題だ。」
まだ何かあるのか・・・また暗い話ならどうにかして逃げよう。
「実は贈り物がある・・・と言うか、届くはずだ。君は覚えているか分からないが・・・以前、君の世話をしていた灯鈴(トウリン)という侍女を覚えているかい?」
忘れるはずがない。私の唯一の理解者で、守ってくれた人なのだから。
灯鈴(トウリン)は確か、義母の物を盗んだとされ罰を受けた後、胡家から追い出されたはずだ。
今となれば、私を孤立させるための義母の策略だろうと想像はつく。当時はそんなことも分からず、父や義母の言うように、灯鈴(トウリン)にも捨てられたと思っていたが、使用人の口は塞がらないもので、10歳ぐらいの時に真相を知った。
「覚えてる。私を守ってくれた唯一の人だから。灯鈴(トウリン)が何か?」
「先ほどの事にも関係してくるのだが、灯鈴(トウリン)になら、君の感情を出せるのではないかと思って、探させた。胡家から追い出された後、随分、苦労したようだったが、今は朱璃の近くの村で、細々と農家で働いていた。桜綾(オウリン)の話をしたら喜んでいたそうだ。だからここに呼び寄せた。君の侍女として、また働いてもらうつもりだ。」
灯鈴(トウリン)がここに・・・。また灯鈴(トウリン)に会えるということ?
「それって・・・灯鈴(トウリン)に会えるということ?ここで?本当に?」
あまりのことに驚いて立ち上がったせいで、膝を殴打してしまった。
その痛みに耐えながら、再度腰をかけた。思ってもいない出来事だ。いつか探したいとは思っていたけれど、まさか、宇航(ユーハン)様が探してくれている何て、思いもしなかった。
「桜綾(オウリン)が感情をあまり出さないことは、ずっと気になっていた。だが、この前の様子を見て、決めたのだ。君が辛かったとき、唯一の味方であった灯鈴(トウリン)になら、私達よりも少しは話せることが多いのではないかと。生母の話も聞けるだろう。」
さっきまでの暗い気持ちが一気に晴れる。
でも、灯鈴(トウリン)は変わっていないだろうか。私を恨んだりしていないだろうか。私達の元にいたせいで、辛い目に遭わせてしまった事に、わだかまりはないだろうか・・・
「灯鈴(トウリン)は君を守り切れなかった事を後悔している。君が苦労したことを知らなかったようだ。君が灯鈴(トウリン)に贈った物を今でも大切にしているらしい。」
贈った物?何を渡したのだろう。それが何だったかは思い出せない。多分、他愛もない物なのだろう。
「君の系譜の儀式に間に合うように、こちらへ向かわしている。少しは気分が晴れたかい?本当は灯鈴(トウリン)が到着してから、驚かせようと思ったのだけれど、あのまま工房に戻らせるのは、気が引けてね。」
「ありがとうございます。ありがとうございます。」
宇航(ユーハン)様の手を握り、何度もお礼を言った。
私の為にわざわざ探してくれたのだ。ただ使用人達に陰口を言われただけなのに。私は、もう忘れてしまっていたほど小さな事を気にして、手を尽くしてくれたのだ。
「宇航(ユーハン)様、私決めました。系譜の儀式の後、宇航(ユーハン)様の手が空いたときに、お話したいことがあります。私に出来る最大限の信頼の証として。」
それだけ言うと、宇航(ユーハン)様はいつもの笑顔で答えた。
「では、それを楽しみにしていよう。」
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