第1話 5
久しぶりのお湯での入浴は、控え目に言っても最高だった。
川のそばを通った時なんかには、水浴びはしていたし、余裕のある夜なんかは布を濡らして身体を拭いていたけれど、浴槽に浸かるとお湯にはみるみる垢が浮き上がって、すごく恥ずかしかった。
でも、メイドさん達は嫌な顔ひとつせず、わたしを浴槽から引き上げ、リーシャさんがまたオーガに化生して、お湯を入れ替えてくれた。
そうして二度ほどお湯を入れ替えた後、わたしは東屋の中に設置された寝台に寝かされて、全身を洗い上げられた。
強すぎず弱すぎない絶妙な擦り洗い。
髪を誰かに洗ってもらうなんて、お父さんが家に居た頃以来で、また涙が出そうになった。
そうして石鹸の泡を流された後は、良い香りのする油を塗り込めながらのマッサージ。
わたしも勇者になる前の経験で、それなりにマッサージには自信があったのだけれど、メイドさん達に比べたら、子供の真似事レベルに思えてしまう。
頭の芯がぼーっとして、まるで蕩けてしまうような心地良さ。
「……さ、ミィナ様。終わりましたよ。あとはゆっくり温まってください」
と、アリアさんに声をかけられて、わたしはぼんやりとした心地のまま身体を起こす。
「お、やっと終わったか! ミィナ、こっちだ! こっち来い!」
奥の大きな露天風呂から、ヒノエ様が手を振って声をかけてくる。
「――あ、はい……」
火照った身体に夜風が心地良い。
ふわふわした感覚のまま渡石を進み、わたしはヒノエ様が待つ露天風呂へと辿り着いた。
「ほれ、ここ座れ」
と、自身が座る縁石の隣を尻尾でぺちぺち叩くヒノエ様は、アニメやマンガのキャラみたいで、すごく可愛らしい。
浮かべている表情も、ほんわかとした優しげな笑顔で、謁見の間で見せられた王者然としたものとはまるで違う。
わたしは促されるままに、彼女の隣に腰を下ろす。
すると、まるで待ちかねていたかのように、リーシャさんがわたしにグラスを差し出してきた。
「よく冷やした
鼻息荒く勧めてくるリーシャさん。
一口含めば、柑橘系のすっきりした味が、乾いていた喉を爽やかにしてくれた。
「アリアよ、妾には――」
と、ヒノエ様が言い終えるより早く。
「わかっておりますよ……」
アリアさんはお猪口を差し出し、ヒノエ様が受け取ったそれに、徳利を取り出して中身を注ぎ込む。
白く濁ったそれは、甘い香りと一緒にお酒の匂いがした。
ヒノエ様はお猪口を一息に煽って。
「かーっ! うまいっ! やっぱ風呂で呑む酒は最高だなっ!」
上機嫌にそう告げる。
空になったお猪口に、アリアさんが無造作におかわりを注ぐ。
ヒノエ様はそれを、今度は一息に呑み干したりせず、舐めるようにして一口含むと、わたしを見た。
「あー、それでミィナよ。さっきの話の続きなんだがな?」
「あ、はい。なぜ、わたしが勇者になったか、でしたよね?」
「ああ。だが、その前に……」
ヒノエ様はそのふっくらした左手を、わたしの首元へと差し伸べて来た。
白く細い指がわたしの首輪に触れて。
「……ふむ。やはりな。ずいぶんと悪趣味な改造が施されておる。どれ……
――解き放て、ステータス・マーカー……」
短い喚起詞をヒノエ様が囁くように唄う。
ただそれだけで。
「……うそ……」
どうしても――それこそ死んでさえ外れなかった勇者の首輪が、ガラスを弾いたような澄んだ音を立てて左右に割れて、そのままお湯の中にポシャリと落ちた……
それをヒノエ様は拾い上げて。
「おまえは気づいとらんかったようだが、コレにはおまえの思想誘導を行う刻印が施されておったぞ。
……ローカル・スフィアへの魔道干渉技術は、人類連合で禁止されとるゆえ、この星には持ち込まれとらんはずなんだが……新たに思いついたのか? だとしたら、どこのバカがやりおったのやら……」
「え、ええと?」
ヒノエ様の言葉の意味が理解できず、わたしは首を捻る。
「どこまでの干渉を行っていたのかは、解析してみんとわからんがな」
と、首輪をアリアさんに手渡し。
「わかりやすく言うなら、おまえはアーガスに反抗心を持てないようにされておったのよ。
小娘ひとりをここまでして縛るとは、本当にアーガスはどうなっとるのやら……」
ヒノエ様は腕組みして、深々とため息。
それから顔をあげて、わたしを見る。
「さあ、これでおまえは晴れて、心から自由だ。文字通り、な」
満面の笑顔だ。
わたしが解き放たれた事を、心から喜んでくれているのが伝わってくる――そんな笑顔。
「どうだ? 思い返してみよ。これまでおまえがされた扱い――当たり前だと思えるか?」
そう言われて。
――おお、勇者よ! 死んでしまうとは何事だ!
玉座にふんぞり返って怒鳴ってくる王様……
なら、わたしなんかより、もっと強い人を送り出せばいいじゃない!
――街を魔獣から守った? そんなもの勇者ならできて当然だろう?
報奨金を投げ渡してくる領主様……
勇者だって、傷つけば痛いし、なんでもできるワケじゃない!
――なんで! なんでもっと早く来てくれなかったのっ!? アンタが遅かった所為でウチの人があ……!!
侵災被害に遭った村――旦那さんを亡くした奥さんの嘆き。
わたしだって、救えるならすべてを救いたかった!
でも、わたしはひとりぼっちで弱くて!
どんなに足掻いても、いつもなにか取りこぼしてしまうんだ……
湧き上がってくる久しぶりの感情に、目の前が真っ赤に染まってクラクラする。
唇を噛み締めて、両手を握るけれど、溢れ出る涙が止まらない。
「……そっか。わたし、ずっとこの感情を封じられてたんだね……」
小さく呟き。
わたしは立ち上がって顔を上げて欠けた月を見る。
思い切り息を吸い込んだ。
真っ赤に染まって涙で歪んだ夜空の中で、砕けて輪を持つこの世界の月が、ひどく眩しく思えて。
「アァ――――――ッ!!」
湧き上がってきた感情を声に乗せ、心の底から解き放つ。
――たぶん、こんな大声を出したのは生まれて初めて。
ぶわりと、溢れ出た魔道に反応して、周囲の精霊達が真っ赤な光を放って、激しく舞い踊る。
――何度も何度も死を経験したけれど。
「――なっ!? ななな――!?」
ヒノエ様が驚きの声をあげ、メイドさん達が目を見開いてうずくまるのがわかった。
露天風呂のお湯が激しく波打つ中、息を吐き切ったわたしは、肩で息しながら、ため息をひとつ。
――こんなにすっきりしたのは、本当に初めてだ。
「……生まれ変わったんだ。わたし……」
自分を殺しに来たはずのわたしなんかに……なんの得もないのに、優しくしてくれたヒノエ様の手によって……
わたしは、大きな目を真ん丸にして驚きの表情を浮かべるヒノエ様を見下ろす。
……この人の為に、わたしはなにができるだろう?
こんなにも良くしてくれた人に、わたしはどうやって報いたら良い?
脳裏を過ぎるのは、もう顔さえおぼろげなお父さんの声。
――良いかい、
初めて幼稚園に行って、意地悪してきた子とケンカしてしまった日の夜。
一緒にお風呂に入りながら、お父さんはそう教えてくれた。
――だから。
わたしはヒノエ様に向けて、お辞儀をひとつ。
「改めまして、ヒノエ様。こんなに良くしてくれて、ありがとうございます。
わたしは玲那。
――この世界の人から言うと……異世界人――召喚者です」
ずっと使うことのなかった、本当の名前を名乗る。
「ふん、やはりな……」
ヒノエ様は予想していたのか、驚いた様子もなくそううなずき。
「――アレだろ? 今回の召喚じゃなく……失敗したとされる、前回の召喚の時に、こちらにやって来た。そうだな?」
わたしはうなずく。
お城で働くようになって、そういう噂を聞いた事があるから、たぶん間違いないと思う。
「聞いてもらえますか? わたしの話を……」
ヒノエ様がうなずくのを見て、わたしは話し始める。
長く苦しい――そして臆病で無知だった、わたしのこれまでを……
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ここまでが1話となります。
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