第1話「勘違いしちゃって異世界?」

 生暖かい風が鏡の下を過ぎ去る。視界がブラックアウトしてからどれだけの時間が流れたのだろう。その間鏡は決して目を開けようとはしなかった。


 目を開けた時に映る光景が怖くて仕方がない。


 背中に血が滴っているのかびっしょりとした感覚を感じて、それが尚のこと恐怖に拍車をかける。


「……」


 聴力も失われてきているのかもしれない。何故なら駅のホームから甲高く聞こえていた汽笛の音や悲鳴が聞こえてこないからだ。


「……」


 生への渇望が生じて、一瞬目を開けようとする鏡。だがそこで行動を思い留まる。列車に跳ねられて無事である筈がない。


「おーい」

「おーい」


 僅かに残った聴力が何者かの声音と足音を捉える。捉えた声音はこの場にそぐわない、ふんわりとまろやかとしたもので二人の女子のものだと判断できた。


(なんの声だ……少なくとも田中の声ではない。女子達? これは幻聴か?)


 近くに田中がいるならば彼の叫び声が聞こえるはずだ。

 間延びした声を怪訝に感じつつも、状況を把握する為に女子高生と思わしき者達の会話に耳を傾ける。


「おにいさーんー、そこでなにやってんの」


 一人は甘く蕩けてしまいそうな声質で喋り、もう一人の女子がそれに続くように数秒の間をおいて言葉を続ける。


「……フーラル、ボクは思うんだけど、恐らく水遊びをしてるんだよ。そう、特殊な水遊び」

「ユーリ……ここ麦畑だよ。あんな泥まみれの場所は人が浸かって喜ぶ場所じゃないよ、私だったらやだもん。えへへ」


 ボクっ子の考察を、もう一人の女の子がやんわりとした笑み混じりの声音で否定をする。


「フーラル、そこは察してあげよう。きっと特殊な事情を抱えた人なんだよ。そうまさに、どこかの村の麦畑愛好会の優良会員の人なのかもしれないよ。うふふ」


 それでも、とボクっ子の考察は続いている。そんな考察に口を挟んだのはもう一人の女の子である。

「えー、そんな愛好会ってあったけ。まあ隣の村だとね神の力による豊作だー! とか言って喜んで大々的なお祭りをやるけど、この村は小さなお祭りをやるだけだよ」


「だ・か・ら、うふ、麦と共に溺れ死にたいんだと思うよ。そうすれば麦畑の神に見初められて神になれるかもしれないから」


「そんな事を冗談でもいわないでユーリ、お兄さん! 本当に水が来ると溺れちゃうよ」


 その会話を聴いて鏡は頭痛を覚えた。自分がいるのは線路の中で決して麦畑の中などではない。


「うふ、その前に、麦畑の持ち主に見られたら……叩かれて追い回されるかも。だってさー、よくよく考リリーと神聖な麦畑で無邪気に遊ぶ変な人だからね」


 女子達の声音を聞いていると鏡の脳裏に警鐘が鳴る。 


(これではまるで……)


 自分が麦畑で無邪気に遊び、疲れて寝てしまった可哀想な人のようではないかと。

 少女達の話を聞いて、違和感を抱いた鏡は指に力を入れていって、動かす覚悟をする。


「あれ……」

 指に力を入れると、なんの障害もなくしなやかな様子で動く。また足も意図したかのように軽やかに動く。


「どういうことだ……これは」

 四肢共に無事らしい。置かれた状況を考リリーために鏡は声を出そうとする。発声まで意図していなかったのだが、自然な様子で言葉が喉から出る。


「いや、話を整理してみよう。って声出てるじゃん」


 自分の声に驚く鏡。そんな鏡のことを愉快な大人として捉えたのか、フーラルと呼ばれた女子ははにかむように笑い、それに倣うかのようにユーリという少女も慎ましやかな笑い声を零す。


「な、なんだ……」


 不安が心に過ぎる。東京は肌寒く焼き鳥と熱燗がよく似合う季節である。しかしなぜかここはほんのりと温かい。


 考えていても埒が明かないと悟った鏡は一か八かの気持ちで瞼を開く。


「え……」


 瞼を閉じていると死を想像させる暗闇の世界でしかなかった。しかし一度目を開けるとそこには……。

 蒼穹な空が広がり、そんな青の空間では自由に鳥が羽ばたいていて、紛れるようにゆったりとした様子で雲が風に流されている。


 ここには無機質な鉄骨の屋根やホームはない。あるのはただただ広大な自然を感じさせる群青色の空。


「う、うそだろう……」


 視界に飛び込んだのは広大な大地に咲く黄金色の麦畑。

 麦畑の先に続く地平線には馬車で荷物を運ぶ行商人達の姿が窺える。

 荷台に張られた布の覆いを靡かせながら、蹄を鳴らす馬と行商人が腕をしならせながら手綱を引く様子に驚きを覚リリー。


 世界観としては、うっすらとネトゲが醸し出す中世風ヨーロッパを感じさせるぐらいである。


「どこだここは……」


 ぼんやりとした視界で向こうからやってくる馬車を見据える鏡。その行商人の馬車が通ると激しい土煙が舞い、女の子達は粉塵から身を守るように目と口を覆う。


「あー、もう目にゴミが入っちゃったよ。いたた……」


「よしよし痛かったねー、ちょっとお姉さんに目を見せてみて、ユーリ」


「うん、ありがとう」


 ユーリはフーラルに近づくと目を見てもらう。そんな光景を見ていた鏡だが視線を移すと地平線の先を眺め始める。


 どこかの大市に続いているのか、遙か先には馬車の渋滞が続いている。観察するに現代の地球とは考えられない。


 遠くからハーネス越しに鳴り響かせる馬の嘶く音と、活気に満ちる行商人の会話を聴いて間の抜けた感想を抱く。


「ふっ、夢だなこれは。今のご時世に馬で物を運ぶとはありえない。ふふっ」

「急に笑い始めたよ、あの人」


 二人揃って、服に付着した砂埃を取り払いながら顔を見合わせて笑い合う。

 ユーリは鏡の方に指を突きつけながら、にやりと口元を歪めると


「きっと、ボクが思うには、酔っ払いなんじゃないのかな?」


 と、当を得る答えを言った。そんな少女に向かって鏡は指を突き返すと、 


「正解だ! 私は酔っ払っている。そしてこれは夢だろう? ふっ、私としたことが疲れておかしくなっていたようだ。夢の中の束の間の出会いであったが、なかなか面白い出来事であった」


 淡雪のような肌に紫色の瞳を持つユーリはフーラルに向かって肩を竦める。


「……ふうー、困っちゃうな、フーラルどうしようか……」


 肩で切り揃えられたブルーの艶やかな髪を弄りながら、瞼をなんどか開閉させて憂色の瞳を湛え始める。普通なら円らで綺麗な紫の瞳に映るのは明らかな同情。


 細身のスタイルの体躯と丁度良い身長を重ね持つパーフェクトな少女であるが、そんな憂う瞳で見つめられると心の中に不安が過ぎる。


 こんな時にも関わらず、ふっくらとした胸の膨らみに目線がいく鏡。なんどか頭を振ると、現実的な思考に戻そうとする。


「うっ……そんな目を向けるな、現実に見えるじゃないか」


 鏡は窺うようにユーリに視線を移動させ、不安な口調を漏らす。 


 ボクっ子がユーリ、そしてやんわり少女がフーラルらしい。


 聞き手のフーラルがユーリの方へ振り向くと、フーラルはふわりと風に流されて舞う金髪を抑え込む。豊かな胸に乗るウェーブ混じりの髪を眺めて鏡は、

(外人か?) 

 と、心の中で呟き眉間に皺を寄せる。


「ユーリ、お父さん達のところへ連れてく? 一人じゃ危ないし……」

「ボクとしてはそうしたほうがいいかなと思う」


 フーラルという女の子は綺麗で可愛い。白く透けてしまいそうな新雪の肌に完璧なるフェイス。円らな瞳に浮かぶのは透き通るようなブラウンの瞳。困ったかのようになんども瞼を開閉させるその様子が可愛く見リリー。


 更に完璧な美貌を持つフーラルから垣間見られる整った鼻梁と小さな蕾のような口を眺め、鏡はこんな感想を抱く。


(しかし両方とも可愛いな……フーラルっていう子が西洋美少女なら、ユーリって子はどこか異国の美少女のようだ)


 そんなことを考えてから鏡はあることに気がつく。それは自分の前髪の色だった。


 髪が黒色から銀髪に変化しており、そのことが鏡にとって無性の喜びを感じさせる。


「うおー、凄い、銀髪になってる。マッドサイエンティストみたいだ」

「おにいさんー、夢でもなんでもいいから、どこに住んでるの? 記憶はある?」


 フーラルの質問に、鏡は麦畑で濡れた服を翻すと指を突きつけて言い切る。


「もちろんだ。君と同じ東京都に住んでいる。夢の住人であろうと、私の夢の中にいるということは君も東京都の人間だ」


 ガッツポーズを取る鏡。そんな彼を見てからフーラルは目尻に涙を浮かべてユーリの顔を眺める。

「か、可哀想……頭でも打ったのかしら……トウキョウトとか変なこと言ってるし」

「しかたがない、家に案内しよう。あれを放っておく事は人としてどうかなと思ってきた」


 慰めるようにフーラルの柔肌を優しく撫でるユーリ。二人の様子を観察してから鏡は少女達の提案に乗ることにする。


「よし、君の家に行こう、こうした世界をエンジョイするのも科学者としては最高のごちそうだ。しかし田中と婦人にこのことを言うと羨ましいと思われるだろうな。わははははは……」


 力ない笑い声を出した後に鏡は溜息を吐く。溜息を吐いた後に、彼は麦畑の水を掻き分け二人の元へ歩み寄る。歩いている最中に、いやにリアリティーのある夢だなと思ったがなんどか頭を振ると


「夢に違いない。これが現実ならば時代がトリップしてるじゃないか」


 と、自分の脳裏に浮かんだことを言葉に乗せて否定をする。


「まさかね……現実とかいわないわな……あはは」


 最後は乾いた笑みを浮かべて、ぼそぼそと呟きながら二人の下へと歩を進める。足取りが重そうな鏡の様子を見てフーラルは心配そうな表情を浮かべ、方やユーリは目を細め異世界の人間でも見るかのような瞳で見据リリー。その後、彼女達は案内するかのようにして自分達の家に鏡を連れ立っていく。


 自分を連れ立っていく二人はまるで天使のように見えて僅かな夢見心地に鏡は浸る。


 しかし……数十分後、微睡むような夢見心地は吹き飛びここは夢ではないと鏡は痛感する事になる。


 なぜなら……鏡の目の前では今まさに、ありえない会話と光景が展開されているからだ。

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