第4話

 俺の勝手な妄想から生み出した不安とは裏腹に、風呂から上がっても怖いお兄さんはおらず、ダイニングのテーブルに宇津木さんが座っているだけだった。


「宇津木さーん、あがりましたよー」


「ひゃあっ」


 後ろから声をかけてみると、可愛らしい悲鳴が返ってきた。


 驚いてこちらを振り向く宇津木さんのその手には、先程の写真立てが握られていた。


「あ……」


 俺の視線に気づいたのか、すごすごと写真立てをもとの位置に置いた。


 宇津木さんは表情を陰らせ、


「あの……、やっぱり私帰ります……」


 そう言って立ち上がった。


「? さっきのこと気にしてるんですか?」


「……そりゃあっ! ……だって――」


 だって――、その続きの言葉は紡がれることはなかった。


 まあ、母親のいない人間に、母親と喧嘩したから家に泊めろなんて言えないよな。


 俺だったら無理だ。厚顔無恥と言われても反論はできない。


 しかし、半ば俺が泊めさせたようなものだし、母親がどうこうはもう何年も前に割り切っている。


 今更掘り返されたところで、ノーダメ―ジなのだ。


 そんなことを考えている間にも、宇津木さんはカバンを持って出ていこうとしている。


「ちょっとちょっと、そんな恰好でどうするんですか!」


 宇津木さんは俺が貸した服を着たまま家を出ようとしていた。


 もちろん彼女の制服は干したばっかりで、乾いているわけがない。


「早乙女さんは嫌じゃないんですかっ!? こんなわがままなヤツを泊めるなんて!」


 宇津木さんは悲痛気に叫ぶ。きっと優しい人なんだろう。他人にここまで同情できる人間は多くはない。


 俺のことを思いやってくれるのは正直嬉しい。なんだか人の優しさに久しぶりに触れたような気がして、胸の奥が熱くなる。


「嫌なわけないじゃないですか。いやだったら、学習センターで話を聞いた時点で断ってますよ」


「でもっ、あのときは私の悪ふざけで断りづらい空気になっちゃったし!」


 確かにそうだが、そのあとネタ晴らしをされても引き下がらなかったのは俺なのだ。


「気にしないでくださいって言ってるじゃないですか」


「私……、お母さんがいないなんて知らなくてっ……!」


 とうとう宇津木さんの目尻から涙が零れた。


「な、泣かないでくださいよう……」


 泣かれるとは思わなかったので、動揺してしまう。




 それから暫く宇津木さんは泣き続けた。


 その間、俺はずっと彼女の背中をさすっていた。


 そのときに彼女が下着を身に着けていないということに気づいてしまったが、これは俺の胸に留めておくことにする。


「ぐすっ……、すいません、取り乱してしまって……」


 ようやく泣き止んだ宇津木さんは、顔を赤らめて俯いてしまった。


 母親と喧嘩して飛び出してきたみたいだし、情緒不安定になるのも頷ける。


「あの……。もう撫でなくて大丈夫ですよ……」


 気づけば俺の右手は彼女の頭を撫でていた。宇津木さんはさらに顔を赤らめた。


「あ、ごめんなさい」


 若干名残惜しいが、手を離す。


 すっげぇ髪サラサラだった。今日に限っては同じシャンプーを使っているはずなのに、この差はどこで生まれるのだろうか。


 宇津木さんが何か言いたげに、こちらを上目遣いで覗いていた。


「ほんとに泊ってもいいんですか? 気を悪くしてませんか?」


 やっぱりそのことか。一体この問答は何回目になるのか。何回聞かれたところで俺の答えは変わらない。むしろおいしい役回りとさえ思っている。


「まったく気にしませんって。そんなことより、宇津木さんは男の家に泊まるリスクを考えた方がいいです!」


 なぜこの少女はこんなにも無防備なんだろうか。


「リスクですか?」


「はい。俺に襲われるかもしれないんですよ?」


「襲っ……!」


 俺の言葉を理解した宇津木さんは顔を真っ赤に染め上げる。


 本日何度目の赤面なのだろう。


「い、一応理解しているつもりです……」


 彼女はそう言う。


「もしそうなっても、早乙女さんなら、へ、平気です……」


 消え入りそうな声でそう言う宇津木さん。


 今度は俺が赤面する番だった。


「な、なに言ってるんすか……!」


 俺をからかうわけでもなく、おそらくは本気で言っているのだろう。そういえば家に着いてすぐのときにもそんなことを言っていたな。


 この話題は童貞には刺激が強すぎる。


「も、もう遅いですし、寝ましょうか!」


「寝るってそういう……?」


「違います!」


 随分と耳年増なようだ。本人に悪気はないのだろうが、本当にやめていただきたい。


 初恋の人なんだから、意識してしまう。


「宇津木さんは俺のベッド使ってください」


 強引に話を進める。


「早乙女さんはどこで寝るんですか?」


「俺はもう一つの部屋で雑魚寝するから大丈夫ですよ」


 来客のことなど考えていなかったので、布団などはないが、多分雑魚寝でも大丈夫だろう。


「え、雑魚寝じゃ体痛めますよ! 早乙女さんがベッド使ってください!」


 いやいや宇津木さんが、いやいや早乙女さんが、とここでもひと悶着あったが、結局宇津木さんがベッドを使うことになった。




 翌朝。俺はいつもどおり学校の支度をし、宇津木さんは乾いた制服を着て、お互いの学校へと向かった。


 二人で家を出るときに、必ずお礼をしますからと言われたが、次に会う約束はできなかった。


 でもまあ、また学習センターに行けばきっと会えるだろう。


「それで? 男女二人きりだったんだから、キスくらいはしたんだろ?」


 今は昼休み。


 下世話な質問をぶつけてくるのは数少ない友人の、小島晴樹こじまはるき。こいつに昨日の出来事を話したら、案外食いついてきたので事の仔細を話しているところだ。


「するわけねぇだろ。初対面だぞ?」


「何だよ、つまんねぇ。ほかに面白い話ねぇの?」


 そう聞かれたので、家に招いてからのことを話す。


「はぁっ!? 襲われてもいいとか言ってたの? ぜってぇビッチだよソイツ」


 そんなことを言う晴樹。


「なわけあるか! 宇津木さんはマジ天使なんだからな!」


「そうかぁ? そういう女は大抵かわい子ぶってるだけで、男に簡単に股開いちゃうようなもんなんだぜ?」


「股開くとか言うな! 宇津木さんはそんなことしない!」


 晴樹が失礼なことを言い出したので否定する。


「お前さぁ、本気でそう思ってる? 簡単に男の家に上がり込むようなヤツだぜ? 泣いたのだってお前の気を引くためにしか思えん」


「うぐっ……」


 確かに客観的にみたらそう捉えられるし、ぐうの音も出なかった。


「お前の恋愛は応援したいけどさ。馬に蹴られたくねぇし。でもよぉ、相手くらい選んだらどうなんだ?」


 晴樹はため息をつく。


 やっぱり宇津木さんはソウイウ人なんだろうか。とてもそういう風には見えないが。そもそもお嬢様学校の生徒だし、その可能性は低いと思うのだが。


 晴樹も実際会ってみれば分かってくれるだろうか。


「なあ晴樹、お前宇津木さんと会ってみないか?」


「はあ? 俺が? ビッチに?」


「ビッチ言うな! 会えば分かるって!」


「お前がそこまで言うならマトモなんだろうけど、会うってどうすんの? 連絡先持ってんの?」


「あ……」


 晴樹にそう言われて、連絡先を交換していなかったことに気づく。


「普通、好きな人の連絡先とか真っ先に聞くけどなぁ」


「完全に失念してた」


 買い物だの家事だの宇津木さんが泣いたりだので、そんなことする暇もなかった気がする。


 連絡先、貰っときゃよかったなぁ。


「それで? 連絡先も知らないのにどうやって会うつもりなんだ?」


「俺たちは運命で繋がってるから、どこにいたとしても会える! はず!」


「はぁ……。アホらし」


 そう言って晴樹は何度目か分からないため息をついた。


「告白はおろか、連絡先も聞けねぇチキン野郎が運命語んじゃねぇ」


「こ、告白……」


 告白という言葉を聞いてたじろいでしまう。


 これが初恋の俺にとって、告白なんてハードルが高すぎる。


「何だよ、するつもりねぇのかよ」


「いやぁ、恋愛なんて初めてだからな。よく分からん……」


「モテるくせに今まで恋愛してこなかったもんな、お前」


 そんなことはないと思うのだが。


「で? どうすんの?」


 三白眼をこちらに向けて、そう聞く晴樹。


「どうするって?」


「そのビッチちゃんと会いたいんだろ? 連絡先も知らないのにどうすんだよって話」


「だからビッチ言うな」


 ビッチと言われるのは腹立つが、実際晴樹の言っていることは客観的事実だ。


 連絡先を知らないと確かに手詰まりなのだ。


 どうしよう。


「とりあえず、学習センターに行こう」


「学習センター? あぁ、初めて会ったとこだからか」


 そのとおりだ。


「なんだか会えそうな気がする」


「運命ねぇ……。まぁいいよ。会えなくても勉強して帰れるし」


 晴樹が承諾したので、今日の放課後も学習センターに行くことになった。

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