春霖と君
雨田キヨマサ
第1話
その日は、春であるのにもかかわらず、寒かった。
駅の近くのビルにある、学習センターと呼ばれるところで、俺は柄にもなくテスト勉強をしていた。
窓際の席に陣取り、小雨が窓を叩く音を聞く。
普段から勉強する習慣などないので、当然、目の前にある課題には手がつかない。
このままでは課題は一向に終わらないだろう。
一旦手を止め、ペンを置き、大きく伸びをする。座ったままの姿勢で凝り固まった背骨が小気味よい音を鳴らした。
伸びついでに辺りを見渡すと、空席を挟んだ右隣に、俺と同じように伸びをしている人を見つけた。
偶然俺と同じタイミングで伸びをしたらしい。
制服をカチッと身にまとった、女子高生であった。
その制服は、ここいらでも有数の進学校の制服だ。
うちの高校の隣で、確か女子校だったはず。校則もかなり厳しいらしい。
そんなことを考えていたら、その女子と目が合った。
整った顔立ちだと思う。パッチリと大きく、澄んだ二重の瞳。瑞々しい、うす桃色の唇。黒髪をうしろで束ね、(ポニーテールというやつだ)凛とした雰囲気である。
ふと我に返る。しまった、ガン見してしまった。
絶対におかしなやつだと思われただろう。
その女子は、今もこちらを見つめている。
俺が内心焦っていると、その女子はふっ、とこちらに微笑んだ。
その柔らかな笑みが、何を意味しているのかはわからない。
だが俺は、自分の心臓が高鳴るのを感じた。
今日もまた昨日と同じように、駅前の学習センターでテスト勉強だ。
まだテスト開始まで八日もある。
いつもであれば、この時期はまだテスト勉強なんぞ始めてはいないが、足が学習センターへと向かってしまう。
雨だというのに。
まあ、理由なんて簡単である。また、昨日の女子高生に会いたいのだろう。
自分でもらしくないと思うが、俺はこんなにも惚れっぽい野郎だったか。
偶然の出会いに運命の再会。
そんな再会を心より望んでしまっている。
いささか、少女漫画チックというか、乙女すぎるというか。
とどのつまり俺は、あの柔らかな微笑みに、恋してしまったらしかった。
男ってのは単純なのだ。
今まで、恋と呼べる経験がなかった俺は、こういう時にどうしたらいいのか、皆目見当もつかない。
積極的に話しかけるべきか、否か。
いやいや、そもそも今日会えるかどうかすらわからない。
それでも、もし、会えたとしたら……。
……って、乙女か、俺は!
会えたとして、何を話すと言うのだ。いきなり話しかけて、何だこいつ、みたいになるのがオチに決まっている。
成功するのなんて、イケメンに限るのだ。
これほどまで、イケメンに生まれなかったことを後悔した日はない。
古びたアーケード街のそばを通り、駅前のロータリーにつく。
ロータリーの周りには、無機質なビルが立ち並んでいた。
その無機質なビルの立ち並ぶ中に、学習センターはある。
学習センターのあるビルは5階建ての建物で、4階と5階が丸々自習可能なスペースになっている。そこが学習センターと呼ばれている。正式名称があるようだが、詳しくは知らない。
学習センターのあるビルに入る。エレベーターに乗って4階のボタンを押す。
頭はあの女子のことでいっぱいだった。見てくれはむさ苦しい男子高校生でも、脳内だけは恋する乙女だった。
どうせ会えはしないという諦観と、ほんのちょっとの期待が混ざって、グルグルと渦を巻く。
そんな渦中、エレベーターのドアが開く。
春だと言うのに暖房がついているのだろうか。ムワッとした湿気を含んだ暖気が顔を包んだ。今日の天気も相まって、不快指数はかなり高めだ。
学習スペースの空いている席を探す。平日の夕方は、――特にテスト前のこの時期は――空いた席を確保するのはなかなか難しい。
しかし、ラッキーなことに、今日は意外と人が少ない。まばらに人が座っているのみで、ほとんどの席が空席だった。雨だからだろうか。昨日と同じ窓際の席に座り、勉強道具を広げる。
昨日投げ出した、中途半端な数学の課題(昨日はあの少女と目が合ってからというもの、全く集中できなかったのだ)に取り掛かる。
カリカリと、シャーペンの芯が紙を擦る音が響く。
少し難易度の高い問題で手が止まった。二項定理の問題だ。
教科書で確認するためにペンを置く。
窓の外はいつの間にか雨脚が強まっていた。
来たときは小雨程度だったが。
早めに移動しておいてよかった。
そんなことを考えながら教科書を開いた。
公式を確認して、教科書を閉じた。
「あの……」
突然後ろから声がした。
きっと、俺に向けられたものではないだろう。
問題を解き続ける。
「あ、あの……!」
チョンチョンと肩に何かが触れた。
手だ。
女性の手だった。
何事かと思い、振り返る。
どうやら先程の呼び掛けは、自分に対してだったらしい。
「す、すみません。タオルとかって……ありますか?」
高校生の少女だった。
伏し目がちに尋ねてくる少女は、頭からへその辺りまでにかけてをびしょびしょに濡らしていた。
焦げ茶の前髪はぺたっと額にくっつき、目元を隠している。
着ている制服も濡れて肌に張り付いていた。
濡れてインナーの透けたブラウスが妙に艶めかしい。
傘、持ってなかったんだろうか。
「ど、どうしたんですか?」
そう訪ねながら、できるだけ綺麗なタオルを手渡す。
誰だってびしょ濡れの女性にいきなり声をかけられたら、困惑するだろう。
「すみませんっ。ありがとございますっ!」
そう言って少女はタオルで体を拭いていく。
前髪を拭き終わったとき、ふと気づいた。
「あ、昨日の」
「へ?」
思わず口をついて出てしまった言葉に、少女はとぼけた声を出す。
前髪が額に張り付いていて分からなかったが、このびしょ濡れになった少女は、昨日目が合った――俺が一目惚れしてしまった――少女だった。
会えてしまった。
運命という単語が頭をよぎる。
「ああ! 昨日会いましたよね!」
少女の方も気づいたらしい。暗かった表情を一気に明るくさせた。
というか、覚えていてくれたのか。
正直、超うれしい。
「すみません、タオル貸して頂いちゃって。ありがとうございます。洗ってお返ししますね」
そう言って少女は深々と頭を下げた。
ポニーテールが揺れる。
「傘、忘れたんですか? 天気予報じゃしばらく雨って言ってたのに」
「恥ずかしながら……」
隣に座った彼女は、なんで自分が濡れ鼠になったのか、事の顛末を話し始めた。
「実は、母と喧嘩してしまいまして……。普段なら傘を忘れたら届けてもらうんですけど、喧嘩した手前、言い出しづらくって」
それで、傘もなしに駅前まで移動してきたのだという。
清楚な見た目と裏腹に、なかなか豪快な行動だった。
「それは、なんと言うか、自業自得なんじゃないですかね」
俺は苦笑混じりでそう答えた。
「でもでもっ、お母さんも悪いんですよ!」
彼女は、大声を出すのは周りに迷惑がかかるからか、小声で話し始める。
「私は国立大に行きたいのに、私立のここじゃなきゃダメだっていうんですよ」
娘想いのいい母親じゃないか。
羨ましい。
そう思うのは俺がシングルファーザーの家で育ったからだろうか。
「子供の進路を、ちゃんと考えてくれてるんですよ。いいお母さんじゃないですか」
「そうなんですかねぇ」
そうですよと答えたきり、会話は続かなかった。
母親のいない俺にとって、この話題は荷が重い。
隣の少女は髪を拭きながら、勉強の準備を始めていた。
まさか隣で勉強するつもりだろうか。
そう思った途端、心拍数が跳ね上がる。
「……!」
そ、そういえば、自分のタオルを貸してしまったではないか!
臭いとか思われなかったかな。綺麗なものを渡したつもりだけど。
恥ずかしながら、これが初恋である。
隣にその相手がいるというだけで、ドギマギしてしまう。
さっきまでは何ともなかったのに、意識するだけでこれだ。
動揺がシャーペンにも伝わり、文字が震えてしまう。
「そういえば」
突然、少女が口を開いた。
驚いて肩が跳ねる。
「どうしたんですか?」
動揺は隠せた、と思う。
何とか声になった。
「名前も聞いてませんでしたね」
あはは、と少女が苦笑気味に笑う。
確かに、お互い名乗ってすらいなかった。
「
そう言って少女は――宇津木さんは、再び頭を下げた。
「
俺も名乗る。
「つきじって珍しい名前ですよね。どうやって書くんですか?」
宇津木さんは名前に興味を持ったらしい。
初対面の人には必ず聞かれるこの名前のおかげか、自己紹介で話題に困ったことはなかった。
この名前には感謝だ。
「空に浮かぶ月に、時間の時で月時です」
「へえー。綺麗な名前ですね!」
そう言って宇津木さんは微笑んだ。
また心臓が跳ねた。
あんたの笑顔のほうがよっぽど綺麗だよ!そう言ってやりたくて仕方なかった。
名前を聞いたあと、いろいろとお互いについて話した。
「へえー!早乙女さんは独り暮らしなんですね!」
話は俺の家のことについてに移っていた。
「親戚が管理してるアパートを安く借りれたので、そこにお世話になってます」
「そうなんですね。一人暮らし羨ましいなぁ」
そう呟く宇津木さん。
唇を尖らせる様子は、とても可愛らしかった。
「そんないいものでもないですよ。自炊は大変ですし」
俺がそう言うと、
「お料理できるんですか!?」
と、目を丸くしていた。
もしかして、お料理できない系の女子なのだろうか。
「私お料理すごく苦手で……。尊敬します」
「いやいや、そんなことで尊敬されても。大した料理はできないですよ」
謙遜しても、すごいですと目をキラキラさせていた。
やはりお嬢様学校に通うだけあり、お嬢様なのだろう。
それなら料理ができなくてもうなずける。
「一人暮らしなら、今日は早乙女さん家に泊めてもらおうかなぁ……」
突然おかしなことを言いだした。
「え、泊まる!?」
思わず大声を出してしまった。
周りで勉強していた人に睨まれる。
ごめんなさい。
「え、どういうことですか」
小声でそう尋ねる。
「だって、お母さんと喧嘩しちゃって、家に戻りたくないんですもん」
「いやいやいや、女の子が男の家に上がるってまずいでしょう!」
おかしい。
その理屈はおかしい。
いくら家に帰りたくないからと言って、俺の家に泊まるという選択肢はふつうあり得ない。
もしかして宇津木さん、かなり変な少女なのではないだろうか。
「大丈夫ですよ。お母さんには友達の家に泊まるって言えば平気です」
そういう問題ではない。
嘘なんかついたら、罪の上塗りではないか。
親父にばれたら殺される。
「だったら友達の家に行けばいいじゃないですか!」
「友達みんなお家が遠いんですよ。それに、もう連絡しちゃいました」
いつの間に……。
逃げ場はもうなかった。
こうして俺は、ほぼ初対面の女の子を、それも初恋の相手を、家に泊めることになってしまった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます