第二話 二

 駅で用事を思い出したと言う司と別れ、あたしは有頂天でアイスケーキを家まで持って帰った。

「ただいまぁ」

 家のドアを開け、キッチンの冷蔵庫に手をかける。

 冷蔵庫の中にアイスケーキをしまおうとして、はっと気がついた。

 まずい、アイスケーキからドライアイスを抜いていない。

 あたしはあわてて、まず一旦、アイスケーキの箱の上部にあるドライアイスを取り出し、箱を閉めた。このままでは、アイスケーキが固くて包丁では切れず、その上、シャリシャリしたシャーベット状の食感になるためだ。

 幸いなことに、箱の横にも同様の説明書きが書いてある。

 あたしは箱を閉めたアイスケーキを冷蔵庫、箱の中にあった袋状のドライアイスは冷凍庫の中に入れた。

 これで、あと一時間も待てば解凍が進み、美味しいアイスケーキが食べられるだろう。

 あたしは期待を胸に秘め、冷蔵庫の扉を閉めた。


 果たして、一時間後——。

 あたしは再びキッチンにやって来ると、冷蔵庫の扉を開けた。

 冷蔵庫の中には、母お手製の麦茶のポットが横の棚に入れてあり、冷えていて美味しそうだった。

 うちでは夏以外でも母が麦茶を良くつくり、母は専業主婦のため、家事をした後に飲むのが日常だった。

 美味しいアイスケーキを食べながら麦茶を飲むのも悪くない。あたしはそう考えながら、アイスケーキの箱を取り出し、ふたを開けて中をのぞいた。

 あたしの動きが、そこで一瞬止まる。


 箱の中のアイスケーキ。

 それが、一部欠けており、明らかに誰かがケーキを一切れ食べた状態で箱にしまっているのだ。

 あたしはびっくりしてしまって、声もなかった。

「だ、誰が、一体——」

 ようやくアイスケーキの箱を指さして、あたしは声を上げた。

 良く見ると、アイスケーキの欠けた一切れは六等分された内の一切れであり、そのことも、あたしにとってはショックだった。

 と言うのは、うちの家族は四人家族であり、父、母、あたし、弟しか家にいないからだ。

 しかも、お父さんはいまだに仕事中で、家に帰って来てはいない。アリバイが成立しているのだ。

 残るは、お母さんと弟の二人。いや、来客がこっそり来て茶菓子として出したと言うのもあり得るが、あたしは二階の自室にいて、来客が家のドアを開ける音を聞かなかった。だから、やはり、お母さんか弟のどちらかが怪しいとなる。


 あたしはキッチンの食器棚にある家電を置いたスペースに注目した。

 そこには炊飯器やコーヒーメーカーの他に、小さな電気ケトルが置いてある。

 近寄って、あたしは電気ケトルのふたを開けた。中からは白い湯気が立ち上っている。

 ——これだ。

 あたしは口元を、わずかにほころばせた。


 続いて、リビングルームに足を進める。

 十数畳ほどのリビングルームでは、お母さんがソファーに腰掛けてテレビを見ていた。あたしはソファーの後ろを通って、窓側へと進む。

 窓の奥には広い庭があり、すぐそばには庭との境目に長い花壇があって、季節の花が楽しめるようになっていた。

 花々はみずみずしく、露にぬれて、弾けるような美しさを日光の元にさらしていた。

「ねえ、お母さん」

 あたしは窓の奥を見ながら言った。

「電気ケトルが使ってあったけど、使ったのは、もしかして、お母さん?」

「え? 何言っているの」

 お母さんはちらっとあたしの方へ顔を向けたようだった。ソファーの上で動く音がする。テレビからは、ドラマの話し声が聞こえていた。

「キッチンには行ってないわよ。午後はずっと、『プリズナーズ・ブレイク』の再放送を見ていたんだから。このドラマ、最後も面白いのよ。邪魔しないでおいてくれる」

「——うん。特に、主人公が誰も助けられなかったって、絶望するときとかね」

「……? 愛唯めい、何を言っているの。別の映画と間違えているんじゃない。この再放送では——」

 そこまで聞いて、あたしは足早にリビングルームを出た。

 証拠は集めた。

 あたしは心の中でガッツポーズを取りたい気分だった。


 あたしはコンコン、とドアをノックする。

 一瞬後に、誰、と言う一言が聞こえて、あたしはドアをそっと押した。鍵はかかっていなかった。

「弟……」

 あたしは言いながら、顔を半分だけドアの隙間からのぞかせた。こんな行動を取るのは、勿論、とっておきのデザートを取られた恨みがあるからだ。

「怖っ。それ、インディーホラーゲームで見た脅かし方。ジャンプスケアは人によって好みが分かれるし、特に俺は嫌いな方。姉ちゃん、止めてくれる」

 弟――拓海たくみは、わずかに驚いた声で言った。

 宿題をしているのか、椅子に座り、机の上にノートを広げている。

 部屋に入ったあたしに、弟は不満そうに言った。

「今、数学の宿題で忙しいんだよ。一体、何しに来たんだよ」

「何って、決まっているでしょ。冷蔵庫の扉を開けたたら、アイスケーキが食べられていた。あたしは言った。『誰がアイスケーキを盗ったのか』」

「誰って……そもそも、それ、『不思議の国のアリス』の『誰がタルトを盗んだのか』を真似た言い方?」

「拓海くん」

 あたしはドアに背をもたれさせると、弟を指さして言った。

「アイスケーキを食べたのは——あなた、だ!」

 弟は鳩が豆鉄砲を食ったような顔をした後、「はぁ……」と気が抜けたような声を上げた。

 その表情を見るのも、あたしの自己顕示欲を大いに高揚させるものだった。

 仕方なし。やれやれと言った表情で、あたしは弟を論理的に追い詰めることとした。


「話は今から一時間前、午後三時のこと。あたしはアイスケーキを格安でケーキ屋さんで購入し、キッチンの冷蔵庫に保管した。なぜなら、ドライアイスを抜いて一時間後が食べごろだと知っていたから。しかし、そこに犯人が現われ、アイスケーキを一切れ食べてしまう。ここで問題。誰がアイスケーキを盗ったのか」

「だから、それ、『不思議の国のアリス』の――」

 言いかけた弟を、あたしは片手で制した。

「犯人は固いアイスケーキを切ろうとして、困ったはず。なぜなら、アイスケーキは解凍前だと固すぎて包丁やナイフが通らない。ケーキの箱にも、そう書いてある。困った犯人はケーキの箱の説明書きを良く読み、ある考えにいたった。それは――そう、包丁を温めてアイスケーキを切ると言う方法にね」

 あたしは、さらに言葉を続けた。

「犯人は電気ケトルで水を沸かし、包丁を温めてアイスケーキを一切れ分切った。その後、悪びれもなくアイスケーキを箱の中にしまって黙っていた」

「それって、お母さんじゃないの」

 弟は不平たっぷりに言った。

 あたしは人差し指を振り、説き伏せるように言った。

「ちちち、その辺りもすでに確認済み。犯行は、この一時間内で起こったことであり、お母さんが一時間内に何をしたかは明らかですが、犯人が何をしていたかは明らかになっていません」

「俺は、ずっと数学の宿題を——」

「えー、そう言いますが、お母さんは、この一時間内に庭の花壇で水をやっていた。それは、花がみずみずしく露にぬれていた、、、、、、、、、、、、、、、ことからも明らかです。にわか雨などは降っていなかったし、今日は一日中快晴だった」

「局地的に雨が降ったんじゃないの。周囲一メートル以内だけで雨が降ったって言う」

「黙って。そんな超常現象が都合よく、この一時間内に起こるわけがない。ともかく、お母さんは花に水をやり、その後は『プリズナーズ・ブレイク』を、ずっと見ていた。そもそも、お母さんであれば絶対しないことを、犯人は行っている」

「なんだよ、それ」

「えー、それは、アイスケーキの切り分け方です」

 あたしは往年のテレビドラマの探偵役のような言い方をした。

「拓海くん、うちの家族は何名で構成されているか、ご存じですか」

「何名って……四名に決まっているだろ」

「そう、そこなんですね。父、母、あたし、弟の四名で、うちの家族は構成されている。ただ、お父さんは仕事中で、まだ家に帰ってきていない。だから、アイスケーキをお母さんが切り分けようとしたら、絶対に四等分で切り分ける方法しかあり得ない。なぜなら、このアイスケーキは、あたしが買って家に持って帰ったから。自分用のケーキではないことを、お母さんはわかっている。なのに、実際にはアイスケーキは六等分され、一切れ食べられている。四等分でホールケーキを分割するのと六等分でホールケーキを分割するのとでは全然違う。犯人は一体、なぜ、こんなことをしたのか」

 弟の顔が、こわばるのがわかる。

 あたしは優越感にひたった。

「答えは、残りを四等分して家族全員が食べることをわかっていたから。あらかじめ、六分の一を食べておけば、当然、残ったケーキを等しく、皆で分けることになる。黙って『知らない』と言っておけば、犯行は誰にもわからない。結果的に、他の人よりも多くケーキを食べることができ、得しかない。そもそも、姉ちゃんには推理なんてできるわけがない。すべては、犯人が、あたしのことをあなどっていたから、起きたこと。拓海くん、いい加減に観念して白状しなさい」

 優しい口調で言い渡すと、弟の頭が、がくりと垂れた。

「ごめん、姉ちゃん……つい、出来心でしてしまったことなんだ。あのアイスケーキ、ちょっとつまみ食いしたら美味しくて」

「やっぱり、そう言うことだったのね。まあ、そう言うことだろうと思った」

 あたしは腕組みをしながら、うんうん、とうなずいた。

 司の真似をしてみたものの、我ながら上出来だと陶酔にひたる。

 いや、もしかしたら司ですら、ここまではできなかったかも。そう思うと、助手でも少しは格が上がったようで気持ちよかった。

「これにりたら、取引条件として、お姉ちゃんの読書感想文を手伝いなさ——」

「ちょっと、愛唯めい! あなたね、一体、この宿題何なのよ!」

 階段を駆け上がるようにして、お母さんが二階の弟の自室前までやって来る。

 手には、学校で矢野先生から渡された、宿題のレポート用紙五枚があった。

「えっと、それは」

「それは、なんなの」

 にらむような目つきで、お母さんは言った。

「どうしてゴールデンウイーク中にこんな宿題をすることになったのか、その経緯をくわしく説明してもらいましょうか。下の、リビングでね」

 いけない。一階の和室の机の上に、宿題のレポート用紙を置いていたことを、すっかり忘れていた。

 あたしの気持ちは一気に下降していく。だが、そんな気持ちをおさえつつも、お母さんの後に続き、一階へと降りていく他なかった。

 ちらっと弟の方を見る。弟は「グッドラック」と小さな声で言うと、机の上の数学の教科書を手元に引き寄せて宿題を再開していた。



 この後につづることは、すべて、あたしが後日、司から聞いた話だ。

 その場に直接行けたら一番良かったのだが、あたしはお説教を受け、司から来た携帯のメッセージにも気づくことができなかった。

 ともかく、ケーキ屋を離れた後に司と沢野君は話をしていた。

 その話は司から聞いたところ、次のようなものだった。



 駅を離れ、二十分ほど歩いた場所に司は来ていた。

 そこには展望台があり、町全体の様子を一望することがかなう、有名な場所だった。

 緑も多く、そばには公園が併設へいせつされ、いつも家族連れでにぎわっている。

 司は沢野健を展望台近くへ呼び出し、ある話をすることを心に決めていた。


「話って何?」

 健は自転車で来たらしく、司よりも早く目的地に着いていた。

 彼は司の姿を見るなり、ぱっと質問を投げかける。

 司は健の様子が落ち着いていることを確認して、話を切り出した。

「叔父さんは、言っていたね——ケーキ作りに没頭したくて、忙しさにかまけていたら、つい、この年齢になり、しかも、私の場合、女性にうつつを抜かすと、どうしても人生がそちらに傾いてしまうってわかっていた——、と」

 風が吹き、司の前髪を揺らした。

 司は眼鏡のブリッジを軽く指で押し上げた。

 健はさっと顔を町の方に向けた。それからはこちらを見ようともせず、ただ、さくに手をついて、町を見ている。

「わたしの考えがおかしいだけなのかもしれない。ただ、わたしには、どうも別のことを叔父さんが隠しているように聞こえてならなかった。それは——、叔父さんが異性愛者ではないということだ。叔父さんの言葉の裏には、もしかしたら、彼の本当の思いがひそんでいたのではないだろうか」

 彼は、ようやく司の方をふり返った。だが、その目は怒っているのか、動揺しているのか、何ともよくわからない飄々ひょうひょうとしたものをたたえていた。

 司は、なおも言葉を続ける。

「このことには、皆、気を遣って君に言う人はいなかったかもしれない。それで、君が店を継いで二、三十年後に、ある日突然、わかったことかもしれない。ただ、君の言う『仕事熱心な叔父さん』と言う言葉は、現実として正しくない。叔父さんは、もっと腹を割って君に真実を話すべきだし、それも、君が店を継ぐと言う重要な決断をする前に言わなくてはならないはずだ。君は進学クラスにいて、なのに三年後は店を継ぐために他のケーキ店に修行に出る。君自身の人生は君自身にしか、生きられない。だけど、現実に混じった嘘やだましが、君を後になって裏切り、傷つけないとも限らない。だから、わたしは今、ここに来て、君と話をしなければならなかった。誰かが、、、、|今の君自身と向き合って対決しなければならない《、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、》んだ。君に、このことを伝えてこそ、君は真に自由な選択ができる。そう思ったからこそ、わたしは、ここへやって来た」

 司の言葉を聞き、彼が何度か瞬きをする。何だか、とてもゆっくりとした時間が、彼の周囲に漂っているようだった。

「君は、一体、どうしたいんだ。叔父さんは本当の自分自身を君にさらけ出してなんかいない。それどころか、君の人生を良く考えて見守っているようには、わたしには思えない。君は本当に、それで良いと思っているのか」

 ふっと軽く息が漏れるように、彼は口の端で笑った。

 司は、はっとした顔で彼を見つめる。

「そこまで言ってくれるのは、ありがたいよ。ここまで来てくれるのもね。だけど、僕の心は——。僕は叔父さんを尊敬しているし、叔父さんみたいな一人前のパティシエになりたいと、今でも思っている。何を言われても、僕には叔父さんは『仕事熱心な叔父さん』でしかない。叔父さんは僕を騙そうとするような、そんな腹黒い人間ではない。そんなことを言えるのは、僕と叔父さんの関係を真に理解してない、言葉面だけで理解した気になっている人間だけだ」

 彼は言い過ぎたと思ったのか、ややあって、視線を少し落とした。

「……悪く思わないでほしい。でも、実は君に腹が立っているんだ。今、君が言ったことは全部、僕が叔父さんから、直接言ってほしかったこと。叔父さんが僕と向き合っていないって言うのは、本当だと思ったから」

 日が西に傾き、黄金色の光が徐々に空を染めていく。

 夕焼け空を背景に、彼は薄く微笑んだ。

「このことを言えるのは、店を継いでほしいのは、お前だけだって、僕の目を見て言ってほしかった。僕にとって、叔父さんは父親のような存在だったから」


 司は黙ったまま、彼のことを見つめた。

 やはり、ここに来たのは場違いだったかもしれない。

 言葉だけをとらえていては、沢野君と叔父さんの関係は、二人の気持ちは、何も理解できないままだった。一体、何を本当に理解していたのか。

 この場所にいて、彼の言葉を受けとめ、未来をともにして、傷つく権利を得ていたのは、わたしではなかった。

 本当は、この場所にいるべきだったのは——。


 彼女の目の端には、涙がうっすらとにじみ、声を出すこともかなわなかった。

 健も同じ気持ちだったのかもしれない。すでに司から目をそらし、町の方を見つめていた。

 彼の背中しか、司の目には見ることができない。


 一陣の風が吹き、司の一つにまとめた髪を、さっと揺らして通り過ぎて行った。

 家族連れの声が公園から響き、父親が泣いた子どもをなだめる声が、やけに大きく司の耳に残っていた。




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