第二話 一

 ゴールデンウイーク三日目に入り、あたしは、またしても司と遊ぶ約束を取り付け、近くの大型ショッピングモールを見て回った。

 司との関係は順調に進展していた。

 買い物もあまりせず、色々なお店を見て回った、その帰り。


 近くの駅までの巡回バスに乗り、あたしは窓の外に映る交通量の多い道路から、横に座っている司に視線を移した。

 司はいつもの通り、ポニーテールに眼鏡をかけていた。服装は、ブルーグレーのブラウスタイプのカットソー、ジーンズに、ソフトグリーンの透けるような、かなり長めのカーディガンを羽織っていた。

 あたしは白いレースのカーディガンに、ミントグリーンで白の小花柄のワンピースを合わせ、歩きやすいローヒールの靴でまとめていた。

 私服が緑系で少しかぶったのが、何となく嬉しかった。


「ねえ、司」

 声をかけておきながら、あたしは、ためらいがちに言葉を選んだ。

「国語の矢野先生から言われたレポートのことなんだけど……」

「ああ」

 あたしの言葉を聞くなり、司は、げんなりとした表情になった。

「三枚は何とか書けたんだが……あと、二枚が難しいね。文字を埋める作業がどうにも苦痛で」

「三枚も書けたの!?」

 つい、あたしは大声を上げてしまった。バスの中にいる乗客が一斉に、こちらを見てくる。

愛唯めい、静かに——」

 司が、ひそひそ声で言うものの、あたしの頭の中には、『レポート』と『三枚は書けた』という文字列がぐるぐると駆けめぐっていた。


 事の発端は、ゴールデンウイーク直前の日にさかのぼる。

 その日、明日から休みだと気を抜いていたあたしは、いつものように司と部室で話をし、笑い声まで上げてしまった。

 運の悪いことに、校内を巡回していた教頭先生が、その笑い声を聞きつけ、すぐに文学部担当の矢野先生が飛んできたと言うわけだ。


「はい、これはゴールデンウイーク中に読書感想文として、必ず書き上げて、提出すること。対象の本は純文学のみ。レポートは本一冊につき一枚使い、九割以上を埋めて提出すること。わかったかな」

 矢野先生は、あたしと司に五枚ずつレポート用紙を渡し、簡潔に罰の内容を説明した。

 あたしの心の中に、どんよりと暗い気持ちが漂う。せっかくの長期休暇なのに、何てことをしてしまったんだろうと思うが、今さら悔やんでも仕方のないことだった。

「レポートに書く感想には、AIを使うのは、もってのほかだからね。まあ、それは、こっちでも使用がすぐにわかるけど――文学部に入部した君達なら、そんなことはしないって、一応、信じているよ」

 矢野先生は優しい口調で言うものの、言葉には有無を言わさぬものが感じられた。

 五十を超えた頃なのか、髪は既に白いものが多く目立ち、角張った分厚い眼鏡の奥にある目は笑うと皺が目立って、好々爺を感じさせるときがあった。

 他の先生は生徒の人気を気にして、白髪を染めたり、若々しい外見を保っていると言うのに、矢野先生は、いつも自然体。過ぎ行く時間に抗うことさえしない。

 年齢ゆえの老いを、先生の姿からは、ひしひしと感じた。

 罰の内容を重く受けとめながら、あたしと司が先生の言葉にうなずく。

 矢野先生はその様子に、満足そうな顔を見せていた。


 先生が扉を閉め、立ち去った後。

 あたしは横にいる司を見た。

 さすがの司もレポート用紙を手に呆然としていた。

 それは、そうだろう。あと、もう少しで長期休暇に入ると言うときに、こんな——。


 手元にあるレポート用紙を、あたしは眺めた。

 横書きで、A4サイズの紙に何行も罫線が引かれている。ざっと三十行以上は、ありそうだった。

 現代は手紙すら書く習慣も減っていると言うのに、手書きでレポート用紙を埋めるのは困難な作業に見えた。

「ごめんね、司。あたしのせいで——」

「いや、いいよ。部活中に長話をしていたのが、そもそも悪いんだから」

 司はそう言うと、部室にある本棚に近寄った。純文学の本を五冊選び、持って帰ろうということなのだろう。

 あたしも司の後ろに続き、なるべく感想を書きやすくて読みやすい本を探す。

「ここって文庫本——あれ、ハードカバーの本だけしか置いてないんだっけ」

「うん。文庫本だと、すぐに痛んでしまうからじゃないか。図書室か図書館に行けば、あるだろう」

 司が、浅田次郎の『蒼穹そうきゅうすばる』上下巻を見つめて、悩むような表情をしていた。

 確かに、あの本は近くの図書館で借りて面白かったけれども、上下巻は結構分厚い。しかも、二冊あるからとは言え、矢野先生はレポート用紙二枚の消費を認めることはしないだろう。

 あたしは他の本の背表紙にさっと目を走らせた。

「ハードカバーだと重いし、五冊も持ち運ぶとなると肩が抜けそう。でも……うーん、これくらいの本だったら大丈夫そう、かな」

 あたしは厚さにして二センチほどの本ばかりを選び、カバンの中に詰めた。

 その日は、本のあまりの重さに、家に帰るなりベッドに寝転がったのは言うまでもない。


「レポートがさ、上手く書けなくて進まないんだよね」

 あたしはぽつりと言って、司の方を見た。

 司は心配そうな表情をして、あたしを見る。

「まあ、でも、書くしかないよ。あらすじをちょこっと書いて、考えたこと感じたこと、自分の夢や人生に活かせることを書いていけば良いんだから」

 司は軽く言うものの、あたしには中々それができない。途方に暮れていると、巡回バスは最終目的地の駅前に着いてしまっていた。


 司が立ち上がり、あたしも、その後に続く。

 カード型の定期券をタッチパネルに接触させ、あたしはバスを降りた。

 駅前は午後と言うこともあり、人でにぎわっていた。


「あのさ、寄りたい店があるんだ」

 司が駅沿いの通りを指して言う。

「クラスメートの沢野君がアルバイトしているケーキ屋でね、シュークリームとショコラケーキが美味しいって噂なんだ」

「ふーん、司も甘いもの買ったりするんだ」

 あたしが不思議そうに言うと、司は少しだけ目を見開いた。

「そりゃあ、わたしも甘いものは食べるよ。言葉遣いが堅苦しくて昔の人みたいだって良く言われるけどね、心外だな。これでも、まだ十代なんだから」

 照れが入っているのか、司の顔は、やや赤くなっていた。

 あたしは司を横目で見て、内心、くすりと笑った。

 司は確かに同級生達と変わった部分を持っているけれど、それでも同じような好みや感性を持っていて、子どもっぽいところもある。むしろ、大人寄りではなく、あたし達寄り、、、、、、の部分が多い。

 あたしは何だか、ひどく安心したものを覚える。

「とにかく、あっちの方角にあるそうだから、行ってみよう」

 ごまかすような、わざとらしいせきを一つすると、司は特定の方角を指さす。手招きして、あたしに、ついてくるようにうながした。


 司の同級生、沢野君が働いているケーキ屋は、駅沿いの高架下に並ぶ店の一つだった。

 居酒屋やステーキのお店、和食のお店、続いてパン屋が並んだ先にそのケーキ屋があり、三色のトリコロールを基調とした小さな屋根と白い壁が特徴的だった。

 隣には若者向けの定食屋があり、大学帰りの大学生や仕事終わりの人でにぎわっている雰囲気がある。ただ、現在はゴールデンウイーク中なため、格子扉が開いた奥から見えるのは、何人かの大人がグループで立ち寄り、会話に話を咲かせているだけだった。


 司がケーキ屋のドアを押すと、ドア上部から鈴の軽やかな音が降ってきた。同時に、店内から歓迎の声が聞こえる。

「いらっしゃいませ」

 その声は若い溌溂はつらつとした声で、お店の制服を着て帽子をかぶっているものの、まだ十代くらいの人のように見えた。

 この人が沢野君なのだろうかと、あたしは思う。

「こんにちは。一組の出徳司でとくつかさです」

 そう言うと、司はふり返って、あたしを紹介した。

「こっちは、普通クラス三組の和渡部愛唯わとべめい。二人で近くまで来たから、ケーキ屋さんに寄ろうと思って」

「ああ、それは——ありがとう」

 彼は笑って、小さくお辞儀をした。

「えっと、進学クラス……二組の沢野健さわのたけるです。学校で宣伝してみるもんだね。まさか、同じ高校の生徒が来てくれるとは思ってもみなかった」

 あたしの方を見ながら、沢野君は言った。

 彼の着ている制服は特徴的で、一目では、彼が高校生だと見抜くことはできなかった。

 紺色のキャスケット。シェフのような、ボタン付きの白い服。紺色の巻きスカートには、三色のトリコロールが横に入っている。巻きスカートの下には紺色のズボンを履いていた。

 店内には他に客の姿はなく、色とりどりのケーキや菓子を並べた冷蔵ショーケースの後ろに、若い女性が立っている。目が合うと、にこやかな笑みを返してくれた。

「どのケーキが良いかな? おすすめは今の時期、いちごケーキかいちごタルト……あ、でも定番のシュークリームがおすすめかな。それから」

 沢野君は、ショーケースを回り込み、あたし達に近寄って接客する。さすがに高校生とは言え、かなり手慣れた商品案内だった。

「もう一つのおすすめは、ショコラケーキ、ですか?」

 あたしは、さっと口を滑らせた。司から先に看板商品を聞いていたとは言え、何だかじれったい思いに突き動かされてのことだった。

 もしかしたら、先ほどの自己紹介のせいだろうか。

 沢野君と司が同じ進学クラスとは知らなかったし、このじれったい思いは、あたし一人だけ仲間はずれの気持ちを味わったせいなのかもしれない。

「ああ、良く知っているね」

 あたしの言葉に、沢野君は破顔して言葉を返した。

 初めて訪ねてきた人が、お店を良く理解している。それが心底嬉しい様子だった。

「その二つが、とても美味しいってお客さんは言ってくれるんだ。でも僕が思うに、最近暑い日が続くし、冷やっとしたアイスケーキもおすすめしたいところで――」

「健? どうした、知り合いが来たのか」

 沢野君が話していると、店の奥から大人の男性の声が聞こえた。

 開いたドアの奥から顔を見せたのは、パティシエ姿の男性だった。

 長さのある白い帽子に、ボタンの付いた白い制服。

 沢野君とあまり似ていないように見えるが、年から言えば、あと数年で矢野先生と同じくらいの年齢だろう。

 ただ、状況から察するに、彼がお店のケーキや菓子の大部分をつくっていることは想像にかたくない。そう考えると、生真面目さや几帳面さが顔つきにも表れている気がした。

「ああ、叔父さん。高校で、うちの店を宣伝したら、高校の子達が来てくれて——。すごいんだ、二人とも、うちの看板商品を良く知っているんだよ」

「健、嬉しいのはわかるが、お店の中ではしゃぐのはよしなさい。お客様が困っている」

 短くたしなめると、叔父さんは、あたし達の方に向き直った。

 彼は、あたし達を眺め、まるで孫を見るような表情で微笑んだ。

「健の知り合いなら、お安くしますよ。ああ、ただし、他の子達には内緒でね。殺到されたら困るから」

 そう言って破顔する叔父さんに、あたしは、とてつもなく親近感を覚えた。

 ショーケースに近づき、あたしと司は商品を選びだした。

 司はシュークリームの方を見ているが、あたしは、沢野君が暑い日のおすすめとして紹介したアイスケーキの広告の方に寄った。

 チョコレートを使ったアイスケーキや、クレープのアイスケーキもある。カシスを使っているのか、鮮やかな発色のアイスケーキもあった。

 あたしがアイスケーキの広告を見ていると、沢野君が近寄ってくる。

「アイスケーキはお店のおすすめで、特に僕のおすすめは、このカシスを使ったケーキだね。爽やかな感じと甘さのバランスが良くて、何度も食べたくなる」

 沢野君の言葉に司がちらっと、あたしの方を見て言った。

「ただし、アイスケーキの解凍には一時間はかかるし、箱の説明書きを良く読んで切り分けた方が良いよ。多分、初めて食べる人は戸惑うと思う」

 あたしはアイスケーキをじっと見る。冷えていて美味しそうだが、確かに今の状態で食べたらシャーベット状のシャリシャリしたケーキになってしまいそう。

 うーん……。

「確かに、アイスケーキを食べるのは初めてだけど。でも、美味しそうだし……家族全員で食べてみようかな。カシスのアイスケーキ、これでお願いします」

 あたしはお小遣いを奮発し、アイスケーキを丸ごと一つ買った。

 司が、あたしの注文の後に続く。

「じゃあ、わたしはシュークリーム三つとショコラケーキ二つ、モンブラン一つで」

 注文の通りに女性がケーキを箱の中に詰め、確認をうながす。あたしはケーキを持って帰り、ほおばって味見するのを待ちきれなかった。


「そう言えば、本当に、高校卒業後にケーキ屋を継ぐつもりなのか」

 ふいに、司がぽつりと言った。

「え、ああ——」

 沢野君がうなずくと、叔父さんが少し驚いた様子で言った。

「健、もう、そこまで学校で話しているのか」

「うん。これは僕が決めたことだし」

 当然のことのように沢野君は言って、司に顔を向けて言った。

「僕が小三の頃に、お父さんが交通事故にあって亡くなってしまってね。そのときから、漠然と思ってきたことなんだ。高校を卒業したら有名店で何年も働く。その後で、このお店を継ぐ。大学進学はしないつもり」

 沢野君の言葉を聞きながら、叔父さんは少し顔を下に向けた。沈んだ表情をしているようだった。

 少し間をあけて、叔父さんは悲し気な、少し苦しそうな顔をして言った。

「自分が結婚して子どももいれば、話は別だったんだが——。いや、ケーキ作りに没頭したくて、忙しさにかまけていたら、つい、この年齢になってしまって。しかも、私の場合、女性にうつつを抜かすと、どうしても人生がそちらに傾いてしまうってわかっていたから」

「いいんだよ、叔父さん。僕は仕事熱心な叔父さんが好きだし、これからは、もっと叔父さんを支えるつもり。こっちは、早く叔父さんに近づきたくて仕方ないんだから」

 笑顔でそう言う沢野君に、叔父さんは少しだけ表情を明るくさせた。

「そうか」

 ゆっくりと微笑み、叔父さんは、じっと沢野君を眺める。

 その視線は、実の父親とほとんど変わらないのではないかと思うほど、温かなものだった。



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