第一話 一
四月から時間が経ち、あと三日で五月になるという頃だった。
五月と言えばゴールデンウイークだから、学校の生徒の中には、一週間前から休みの予定を話している者もいるくらいだった。
授業が終わり、部活の時間になって、あたしは文学部部室の中へ入った。
相変わらず、部活動をしているのかしていないのか、不明な部ではあった。
いつ行っても、部長の姿は見えない。
司が言うには、二、三回会ったことがあると言うのだが、塾の勉強をこなすので手いっぱいで、部室にも寄れないと言うことだった。
「三年生って大変だね」
あたしが黒のソファーに座ったまま言うと、同じくソファーに座り、『ライ麦畑でつかまえて』を手に取っていた司が言った。
「ああ。受験生だからね。部長は、本を読むのが好きだと言っていたけど、相当に時間がないのだろうね」
もしかして、部長の姿は未来のあたしの姿にもなるのだろうか。
一抹の不安を覚えながらも、あたしは司に聞いた。
「司って進学クラスの一組だったよね? あたしは普通クラスの三組だけど、進学クラスの雰囲気って、どんな感じなの」
「どうって……」
司は少しだけ驚いた表情で、あたしを見た。
「別に何も変わらないんじゃないか。まだ、一年生だし」
「そっか……」
あたしは頬に
この先、司に置いて行かれて、部室で一人きりの部活動をするなんて、あまりにも耐えられないからだ。
気づけば、司が、じっとこちらを見ている。
「もしかして、わたしが部室に来なくなることを不安に思っている?」
あたしは、さっと司の方をふり返って言った。
「そう、そうだよ! もし、そうなったら、どうしようって思っていたんだ」
「まあ、そんな事態にはならないと思うよ。わたしは段々、文学部が好きになってきたし」
少しだけ含みのある笑い方をして、司は言った。
「ここにある本は結構面白いからね」
「ふーん……。司にとってはすぐに読み終わる本ばかりだろうけど、あたしにとっては、ちょっと」
あたしは片側に置いてある本棚に目をやった。
「もしかして、ライトノベルを探している?」
司が物を言い当てるアプリみたいな言い方をしていたから、あたしは吹きそうになってしまった。
口に片手を当て、「違う、違う」と言った。
「確かにライトノベルも好きだけど、お父さんが、『ああいう行間が多くて、叫び声が何行も続くのは本じゃない。まともな本を読みなさい』って言っていて。うちのお父さん、新聞記者だから、本には厳しいんだ」
司が一瞬間を置いて、あたしにたずねる。
「もしかして、文学部に入ることをすすめたのは」
「お父さんだよ。良くわかったね」
司の口調に、あたしは再び笑いかけた口に手を押し当てながら、こたえた。
「そうだったのか。近くの大きな図書館に横溝正史の『獄門島』か、小学生用の翻訳された推理小説しかない環境を憂えたわたしは、相当に特殊だったんだな。文学部に来る人間はもっと、専門的なジャンルの本を読みに来た人間だとばかり思っていたよ」
「司って、推理小説が好きなの?」
ふいに興味がわいて、あたしはたずねた。
司はうなずいて、言葉を続ける。
「ああ。図書館には、ほとんど置いてなくてね。中井英夫の『虚無への供物』を買って、読んでみたら面白い。本の中にある虚構の世界にもロジックはあるんだ。しかも、そのロジックは現実にも通じる。まさに、現実は非現実になり、非現実は現実になるを体現しているね」
「ふーん。ロジックって、そんなに必要? 日常生活で、そんなに難しい考えを必要としないと思うけど」
あたしは、ぼやくように言った。日常生活が、すべて国語のテストみたいに考える問題になったら、絶対嫌だからだ。そんなこと、考えたくもない。
あたしの気持ちを読み取ったのか、司が少し微笑んだ表情で話す。
「まあね。ただ、言葉を使って生活する以上、人間は言葉から逃れられない。わたしの従兄に烏堂渡と言う人がいるのだけど、人が使う言葉にもロジックがあって、考え方がにじみ出る。後で、ある人が以前に言ったことと、現在言ったことを突き合わせてみると矛盾が生じることもある。ボロが出るって言うことだね」
「確かに、推理ドラマを見ていると、犯人が口を滑らせていることがあるよね。まあ、言われてみれば、そうかもしれないけど」
あたしは両腕を組んだ。
日常生活には、ロジックが必要。この考えにはまあ一理あるとは思うけれど、何でもかんでもロジックで固めるような考え方は好きじゃない。
たとえば、幽霊は謎めいているから怖いのであって、その正体は目の錯覚だ、カーテンやシーツがはためいただけ。
そんな考え方を皆がしていたら、面白かった世界も面白さがなくなってしまうような気がする。
「
ふいに司に名前を呼ばれて、あたしは目の前がぐらっと揺れた。何だか夢見心地のふわふわした気分だった。
組んだ腕を解いて、あたしは司に言う。
「お父さんに何を言われてもね、あたしは本が嫌いなわけじゃない。本は好きで、しかも、面白い本が読みたいだけ。だけど、現実を飛び越えたようなファンタジーが強すぎる小説、空想小説は好きじゃない。もっと人間ドラマに焦点を当てた本」
司が少し首を傾げる。どうやら、こういう類の本は、縁がないらしい。
「そう言われてもね。人間ドラマって言っても幅が広いし」
司も知らないことがある。あたしは少しだけ、得意げな気分になって話していた。
「たとえば、短い地の文でポンポン話が進んで、アクションあり、恋愛あり、ハラハラドキドキの展開。しかも、シリーズもので、ライトノベルでもない。だから、注文の多いお父さんにも読んでいて怒られない。図書館でも滅多に誰も借りないから、どんどん読んでしまう。そんな本」
「あるかなぁ、そんな本」
司が、とぼけたような声音で言う。あたしが言う本にたどりつくのに相当苦労しているようだ。
「あるよ! たとえば、宮城谷昌光先生の本。中国の歴史をあつかった小説でね」
「いや、読んだことはない。悪いけど……」
司が少々呆気に取られた顔つきで言った。
あたしは、司に小説の内容を伝えようとする。そのときだった。
「ハクシュンッ!」
ふいに、くしゃみが出て止まらない。あたしは両手で口を押え、横を向いた。
ようやくおさまると、制服のブレザーのポケットからハンカチを取り出して、口を押えた。
「昨日から、くしゃみが続くんだよね。何でだろう? 花粉症になったら、嫌なんだけど」
司が、さっと、あたしの様子に目を走らせた。その上、携帯をスカートのポケットから取り出して、何かを確認している。
「もしかして、寒暖差アレルギーじゃないか。それ」
「寒暖差アレルギー?」
「そう。つまり、日によって約七度以上の気温差がある場合に自律神経が乱れることによって、鼻づまりや鼻水、くしゃみなどが症状として出るアレルギーのこと。他にも、頭痛やだるさなどが症状として、現れることも。昨日の温度差は——」
画面をあたしの方に向けて、司は言った。
「見て。気温の差は八度あった。一昨日は、九度。朝や夜に、冷えを感じることがあっただろう。ふとしたことが意外と体調を左右するものだ。花粉症の場合は花粉飛散情報でチェックできるから、すぐにわかる。ここ数日、花粉の飛散量はまったくない。花粉症の症状、目のかゆみや涙目、熱っぽい感じなどはある?」
「ううん。じゃあ、やっぱり……。でも、司に言ってもらえなかったら、そんなアレルギーがあるとは知らなかった」
「まあ、普段からアレルギーと関わりなく生きていれば確かに、ね。でも、世の中には結構、アレルギーを持っている人がいる。たとえば、食物アレルギー。この学校で一組の中でも、宇田さんっていう女の子——学級委員なんだが——彼女が卵アレルギーを持っていて、学食の卵サンドは絶対に食べられないっていう話をしていた。他にも、宇田さんの友達の
「そうなんだ——。人間の体って思った以上に複雑だよね。体力テストでは全然思った通りに動いてくれないくせに……あ」
チャイムの音が鳴って、あたしは部室の壁にかけてある時計に目を移した。
司が本を棚にしまうため、立ち上がった。
あたしは司の後姿を目で追った。
本棚のおさめられている本は最初見たときと同じように、学校の物とは思えないほど状態が良い。ページが日に焼けてなくて、綺麗なものもある。
良く見てみると、棚のホコリも払ってあるように見える。
「ねえ、司。この部室って、誰か掃除している人がいるのかな?」
「ああ、いるよ」
司は後ろをふり向くことなく、本棚に本を丁寧にしまった。
「図書室に学校外から来ている司書の
「ふーん……。じゃあ、もしかして、このソファーも結構キレイなのは」
「おそらく、篠井さんだろうね。綺麗好きな人なんだろう。感謝しないとね」
司が、こちらに向き直って言う。
軽くうなずくと、あたしはソファーから立ち上がり、少し伸びをした。
気づくと、下校をうながす音楽と放送が流れている。
あたしは周囲を見渡す。
司がニッと笑って言う。
「もしかして、カバンを探している?」
「え……うん」
物を言い当てるアプリをまだ引きずったような口調で司が言うから、少し笑いかけてしまった。
「そこの本棚の一番下。かごの中にバッグは入っているよ」
「あ、本当だ。今日から、そこに置くって決めたんだっけ」
あたしはかごの中からカバンを手に取り、持って帰る勉強道具が中にちゃんと入っているか確認する。
横で司が不敵な笑い方をする。なぜか、あごの近くに手をやって考え込むふりをしていた。
「もしかして、教室に宿題を忘れている——」
「司、もう止めて。その言い方」
あたしは口に手を軽く押し当て、笑いをこらえる。
司の肩辺りをポンと軽くたたき、あたしはツッコミを入れざるを得なかった。
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