モンゴル帝国版婚約破棄
中川光葉
モンゴル(風)帝国版婚約破棄
姫は激怒した。必ず、かのヘタレ極まりない、優柔不断の婚約者殿の頬を引っ叩かねばならぬと決意した。姫には恋慕の情というものがわからぬ。姫は、草原を支配する帝国の、皇帝の血を引く王族の末席である。弓を張っては兎を射抜き、一族代々羊を追って暮して来た。けれども結婚というものに対しては、人一倍夢見がちであった。高貴な血を持ちながら剣より羊を愛する父親と、そんな父を仕方のない人と言いながら支えてきた賢い母のように、例え初めに恋はなくとも、愛のある夫婦となることを望んでいた。
ところがどうだ。王家の血を入れ、高位たる武人の家として名実ともに誉れある当主になろうという一族からの期待を負った婚約者殿は、結婚の日取りが決まっても覚悟の決まらぬ様子で、とうとう結婚式前日のこの朝、
そもそも、久々に顔を合わせた時からおかしかったのだ。式を待ち望む両家の人々からの祝いの言葉にうなずいたかと思えば、
姫は激怒した。姫は草原の女である。逃げる獲物を仕留めるのは得意中の得意であった。
「万騎長にも任じられたお方の跡継ぎたる
命じると、一族の男たちが馬に飛び乗り、捜索隊が編成された。合わせていた婚礼衣装を脱ぎ捨て、普段着の
「サラチムグ様、お待ちください。我らも共に参ります」
婚約者殿の一族の若い男だった。真摯な目を見返し、姫は問うた。
「何ゆえに? あの者を逃したのは一族の総意ではないと申すか」
「その通り、オトゴンバヤル様の心変わりは一族の恥でございます。我ら、一族と姫様を裏切った男を追わずにはいられませぬ。どうかお供させてください」
言い募る若者に、姫はうなずいてやることにした。
「その言葉、信じよう」
そこで捜索隊に相手方の一族も加わり、草原を舞台に追走劇が始まった。まさか結婚式前日に相手の男が逃走劇を演じようとは思わなんだ、と愚痴る姫に、報告がもたらされたのはすぐであった。
相手は草原に無二の騎士、皇帝に仕える万騎長の息子とはいえ、狩人たちは百戦錬磨の手練れである。一人きり逃げようとしたところで、追手の目には跡一つないように見える草の分け目にも跡が見つかり、風の噂に騎影がよぎるのだ。
サラチムグ姫の婚約者——オトゴンバヤルは、枯れた川の傍で見つけられ、一族の追跡者と一進一退の逃亡劇を続けているという。姫は馬を駆り、駆け出した。捜索隊が後を追う。
やがて、教えられた通りの場所に影が見えてきた。帽子の下に明るい髪をまとめた男が、迫る姫の騎馬にぎょっと目をむく。
「待て! この私に一言の断りもなく、婚約を破棄しようとは何事か! 答えよ!」
大声で呼びかけ走り行くも、オトゴンバヤルの馬も止まろうとしない。
姫は苛立った。温情を残した呼びかけにも応えず、謝罪も主張もなしに両家の大事な契約を反故にしようとは、見下げ果てた男。
背に負った弓をすっと構える。きりりと弦を引き絞り、狙い定めて撃った矢は、オトゴンバヤルの馬の足元に突き刺さった。ヒヒイン、と高くいなないて馬が前足を高く上げる。そこに横から追撃。やつの一族の方の若者の矢であった。
混乱したのであろう、馬が横転し、騎士がその背から投げ出される。とっさのことにも慌てず無駄なく立ち上がり、馬を助けようとしたオトゴンバヤルを、追手たちが取り囲んだ。
「どうしてくれようか、この裏切り者を」
「王家に逆らうとは、罰当たりめが」
「いかなる制裁でも加えてくれる」
息巻く両家の追手たちに、オトゴンバヤルが顔を引きつらせる。
それを眺め、姫は考えていた。
機転も利く、度胸もある、戦士の資質は十分にありながら、逃げ切れねば終わりだという時に自分の馬を気遣う優しい男。そういうところに親しみを抱いていた。もとは親友であった互いの祖父が交わした口約束、そして一族のための政略結婚となったといえど、幼い頃は身分に関わりなく兄妹のように遊んだのだ。数年、会わぬ間に、変わってしまったのかと思っていたけれど。
「やめよ。沙汰は私が下す」
ばっと片腕を振って下がるよう無言のうちに命じると、捜索隊の面々は大人しく遠ざかり、二人を囲むように円をつくった。
サラチムグは馬を下り、オトゴンバヤルの揺れる瞳を見上げた。
「なぜ、このようなことを」
若い騎士はぐっと唇を引き結び、語らぬという姿勢を見せたが、姫の黒い瞳に射抜かれ、微動だにせずに見つめられ続けて、やっと折れて口を開いた。
「……すまぬ。おれは、あなたと結婚できぬ。想うひとがいるのだ。一族のため、祖父の名誉のため、我が身を差し出す覚悟だったが、あのひとを想うと、居ても立ってもいられなくなった」
簡潔な、だが余計な修飾の一切ない真っ直ぐな言葉に、
「そうか」
とだけ、姫は呟き、——拳を握り込むと、思いっきり男の頬を殴った。受け身もとらず、オトゴンバヤルが地面に転がる。
周囲がざわめいた。
「姫様⁉」
「サラチムグ様、何を」
それには耳を貸さず、サラチムグはかつて己がものだった男を見下ろした。
やはり、思った通り、優しい男であった、オトゴンバヤルは。己の気持ちよりも、一族の栄誉と敬愛する祖父を優先し、姫のためを想い、自身の心を犠牲にして道を歩もうと思うことのできるひとであった。だが、その強い心をも砕いてしまうような恋のよろこびが、二人の関係を壊し、この男を知らぬ女のもとへ向かわせたと知った。
「あなたの強さと、偉大なるよろこびを見つけたことに、敬意を表する」
風にさらわれるような小さな声で告げる。
ふっと苦い笑みがこぼれた。この男が羨ましい。恋というものと、そこから始まる愛を知るオトゴンバヤルが。
だが、それとこれとは別だ。政略であろうと、婚前であろうと、浮気は浮気なのである。何より、姫は決めたのだ。絶対に婚約者殿の頬を張ってやると。
……勢い余って殴ってしまったが。
「ただ、私は、浮気は嫌いだ」
今度ははっきりと宣言する。
はっと目を見開き、うつむくオトゴンバヤルに背を向け、サラチムグは馬に飛び乗った。そのまま円を割り、ゲルへと戻る方向へ歩み出す。
「姫様! この男をどうなさるのです」
一族の者が問うてくる。それに姫は前を見たまま答えた。
「捨て置け。そのまま一晩反省すればよい。見張りにバトゥを置いて、皆戻ろう」
宣言し、歩みを止めずに進めば、皆もぞろぞろと姫に従った。結局、王家だの一族の誇りだのより、浮気した婚約者を躊躇なく殴る権力者の方が、皆怖いのである。
バトゥは姫の一族に長いこと仕えてきた従者なので、姫の意向をよくわかっているはずであった。彼は一晩オトゴンバヤルを見張り、朝になったら眠るだろう。
翌朝、オトゴンバヤルは帰って来なかった。
バトゥは一族のゲルの中に隠し、両家の当主に事の次第を伝えた。オトゴンバヤルなら、追手のない一日もあれば、きっと想い人のもとへたどり着くだろう。事件を知り怒り心頭な向こうの一族の長老たちが、その後の彼をどう遇するかは姫の知ったことではない。
ただ、結婚がなくなってしまって、新しい相手をどう探すかが問題だ、とつらつらと考えながら馬を出そうとしたところ、見慣れぬ若者が近づいてくるのに気づいた。
よく見ると、昨日の追手の一人、最初にあちらの一族から追手を出そうと言った若者であった。
「何だ?」
問うも、若者はあの真摯な瞳で姫を見つめるだけである。姫は見つめ合う目を逸らして馬に乗った。言葉のない問答に付き合う気はない。
だが、若者は自身の馬を駆って後を追ってきた。
「何用だ。用がなければ付いて来るな」
きっと睨みつければ、若い戦士は真面目に見つめ返してきた。
「姫様がお一人で、供も付けずに出かけてはまずいでしょう。それに、用ならあります」
「……申してみよ」
改めて促せば、若者は幾分か緊張した面持ちで、
「姫様。もし、新しい結婚相手をお探しなら、私をその候補に入れてはもらえませんか」
ぽかんとして見やれば、彼は真剣な声音で言い募った。
「サラチムグ様の、凛としたお姿を、遠くからお慕いしておりました。我が一族との結婚がご所望なら、どうか、私のことも考慮に入れていただきたいのです」
ぱちぱちと、知らない光が目の前で爆ぜる。サラチムグは知らなかった。恋をすることも、自らに恋をしたと告げる男が、目の前に現れた時に感じる情動も。
この男は、恋というものの何たるかを、教えてくれるかもしれない。
そう思うと鼓動が高鳴り、姫は男を真っ直ぐに見返して、応えた。
「……わかった。おじい様が何というかわからぬが、頭に入れておいてやろう」
ぱっと目の前の男の頬が血色に染まり、また知らない胸騒ぎがサラチムグの体の内を支配した。
二つの騎馬の間に、草原の青い風が吹いていた。まだ秋は始まったばかりである。
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