三話 ようこそ、冥土へ


「お願い待って! 待ってってば!!」


「ぐずぐずとうるさいアカ! さっさと歩けアカ!」


「オイラたちだって暇じゃないんだアオ!」



 強い力で両腕を引っ張られ、つんのめりそうになりながらわたしは歩く。



 ――どうしよう、怖いよ。



 こんな状況でも今まで不思議と湧かなかった恐怖が、今頃になってじわじわとせり上がってくる。


 だって閻魔様の言葉通り宮殿とやらに連れて行かれるのなら、わたしはそこで一体何をされるの? 

 何か食べさせて……と言っていたが、実はその逆でわたしを食べようとしていたら?


 だってここはなのだ。わたしの世界の……、わたしの常識は通じない。

 やっぱり閻魔様はわたしがおむすびを食べたことを怒っているのかも知れない。


 そもそもどうしてわたしは冥土で裁判を受けているの? 

 死んだということなの?

 考えれば考えるほど、足元が少しずつ崩れてそのまま奈落の底へと落ちてしまいそうな感覚になる。


 ……だってわたし、何も分からないのだ。


 何者なのか、どうやって生きてきたのか。年齢や名前でさえ、全部、全部、まるで頑丈な扉にロックされているかのように思い出せない。



〝お腹空いた。お腹空いた〟



 また女の子の声が頭の中で響く。

 真っ暗な部屋で虚ろに呟くあなたは、誰――?



「……っ!?」



 すると突然腕に鋭い痛みが走る。

 それによって深く沈みこんでいた思考が一気に浮上した。



「え……」



 痛みの走った箇所を見れば、掴まれている腕に小鬼の鋭く尖った爪が食い込んでいる。じわじわと蝕むその痛みはまるでこれから起きることを暗示しているかのようで、わたしは思わず顔をしかめた。



 もうやだ! 怖い、怖い、怖い!

 この場所も、何も思い出せないわたし自身も怖い!!


 誰か、誰か教えてよ!! わたしは一体、誰なの――……!?




「――――桃花ももか


「!!」



 すると凛とした声がわたしの頭に響く。

 その瞬間、女の子の声が小さくなり、真っ暗だった世界に一筋の光が差す。



「もも、か……?」



 自分のことなど何ひとつ思い出せないのに、その名はを呼んだのだと、不思議と理解できた。

 縋るように声の主――閻魔様を振り返る。



「大丈夫、何も怖がらなくていい。誰も君を傷つけたりしないよ」


「――――っ」



 閻魔様は精巧な人形のように無機質な無表情ではなく、先ほどまでの大爆笑とも違う、ふわりとした優しい微笑みを浮かべていた。

 それに不覚にもドキリと胸が跳ね、その美しい笑みに魅入ってしまう。

 ……美形がそんな風に笑うのは、反則だと思う。



「それと空腹が満たされれば、おのずと君の記憶は戻るよ。それまでは安心して冥土ここにいなさい」


「え……?」



 不安に思っていたことを見透かすような言葉に、わたしは目を見開く。


 空腹が満たされたら記憶が戻る??

 何それ? どういう仕組み?? 


 突拍子もない言葉に内心首を捻るが、気休めでも記憶を取り戻す手段があるのだと提示されて少しだけ安堵する。



「――時に、茜、葵」


「「は、はいっ!!」」



 と、閻魔様がわたしに向けた笑みをすぅっと消して、無表情で小鬼たちを笏で指す。

 それに小鬼たちが慌てたようにピンっと背筋を伸ばした。



「人間の肌はとても柔く繊細だ。いたずらに強く掴んではいけないよ」


「……え? うわっ!? 小娘の腕が赤くなってるアカ!!」


「ひぇっ!? 人間とはなんて脆弱な生き物なんだアオ!!」



 指摘されてやっと気づいたのか、小鬼たちがあわあわとわたしの腕を放した。というかわざとじゃなかったのね。

 ようやく痛みから解放されて、わたしはホッと胸を撫でおろす。

 そして赤くなっている腕をさすりながら、豪奢なまるで玉座のような椅子に腰掛ける閻魔様を仰ぎ見た。



「えっと……気づいてくださり、ありがとうございます。……閻魔様」


「いいんだ。こちらこそ痛い思いをさせてすまなかった。茜と葵は人間と接しないから、加減が分かっていない。どうか悪く思わないで欲しい」


「そう……、なんですか」



 申し訳なさそうな表情を浮かべる閻魔様に、警戒していた心が次第に緩んでいくのを感じる。

 どうやら本当に閻魔様は空腹のわたしにご飯をくれるつもりらしい。

 ちらりと小鬼たちを見れば、彼らは閻魔様に咎められたのがショックなのかしゅんとしていた。



「――あの、閻魔様。ひとつだけ質問してもいいですか?」


「なんだい?」



 ちょっとだけ気まずい空気と裏腹に、閻魔様が軽い調子で応える。

 それに押されるようにして、わたしは言葉を続けた。



「あの、さっき言ってたことは本当なんですか? 本当に空腹が満たされると、わたしの記憶が戻るんですか?」


「小娘貴様! 閻魔様のお言葉を疑うとは何事だアカ(アオ)ーっ!!」



 足元で小鬼たちが騒いでいる。

 しゅんとした態度はどうしたと思うが、それらはまるっと無視して、わたしは閻魔様の言葉をじっと待った。



「ああ、本当だよ。君は食にまつわる縁がとても深いんだ。だから色んな料理に触れ合い味わうことで、閉じられている君の記憶の扉を開くことが出来るはずだよ」


「食にまつわる縁……?」



 言っている意味はよく分からないが、閻魔様の表情は真剣そのもので、嘘を言っているようには見えない。

 であるのならば、わたしが今すべき行動はひとつだった。

 まだ少しの恐怖はあるけれど、どの道記憶のないわたしには行くあても目的もないのだから。



 意を決して、わたしは閻魔様に向かって頭を下げる。



「なら改めてわたしからお願いします。あなたの宮殿に置いてください。わたしは、わたしの記憶を取り戻したい……!」



 すると下げた頭に「ふっ」と笑い声が落ち、



「ああ、もちろん歓迎するよ。桃花――ようこそ、冥土へ」



 見れば閻魔様がまた、ふわりとあの優しい微笑みを浮かべていた。



=塩おむすび・了=


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