第10話・ストーカー社員
「あ、田村さん、お疲れ様です」
ショッピングモールの従業員通路をゴミ置き場へ向かって歩いていると、不意に真後ろから声を掛けられる。穂香はその声に驚いて、ビクッと小さく飛び上がった。薄暗い通路にストックが入った箱が所狭しと積み上げられているから、死角だらけでどこに人が潜んでいるかも分かりにくい。横を通り過ぎたことすら気付いていなかった。
「お、お疲れ様です……」
廃棄用の段ボール箱を抱えている穂香のことを、ニコニコと作り笑顔を浮かべながら見ていたのは、グレーのスーツを着た背の低い痩せた男。確か、年齢は32歳だと言っていた記憶があるが、ぱっと見はもう少し老け込んでいる。モールの直営エリアの紳士服売り場でチーフとして勤務する金子だ。
喫煙ブースから出て来たばかりらしく、彼が近付いてくると煙草の嫌な臭いが漂ってくる。そんな穂香の表情が少し歪んだのには全く気付いていないようだった。
「一人でその量は大変そうですよね。手伝いましょうか?」
「い、いいえ、大丈夫です。ありがとうございます」
穂香の傍へ寄って来て、抱えていた段ボール箱へと手を伸ばしてくる。それを首を横に振って断ると、「失礼します」と慌てて逃げるようにその場から立ち去った。
以前に他のテナントを交えた飲み会をした際、たまたま同じ居酒屋でモールの従業員も飲んでいたらしく、同じ館で働く者同士ということもあって途中から合流したことがある。こちらはレディース商品を扱う店がほとんどで参加者全員が女性だったし、向こうは紳士売り場の男性社員ばかりだったから、必然的に合コン的な飲みの場となってしまった。
金子と顔を合わせたのはその時が初めてだったと思う。ノリが良すぎる他の若手社員達に無理矢理連れて来られたという感じで、テーブルの端でニコニコしながら静かに飲んでいた印象しかない。
「よーし、今日は朝まで飲むぞー」
「いえーい!」
「なんと、俺は明日は休みです!」
「おー、って全員そうだろうがっ」
「あ、そうだった。そうだった」
翌日がモールの定休日だったこともあり、その場にいた全員が休日前で浮かれ過ぎていたのか、酔っ払って徐々に悪ノリし始めていった。いい大人がまるで学生のサークルの飲み会のような雰囲気になっていく。
そんな中でも、ずっとウーロン茶しか飲んでなかった金子。彼一人だけが平静だったから、穂香は席を移動してその大人しい男を話し相手にすることでそのカオスな場を逃げ切ることにしたのだ。
そう、別に彼が気に入ったとかではなく、あの時は彼がシラフだったから相手に選んだだけだ。アルコールの勢いだけで騒ぐのはあまり好きじゃなかったから。かと言って、先に帰ると言って場を白けさせるのも悪いと思った。だから、この場で唯一酔っ払っていない男の隣へと席を移動しただけだ。そこだけがあの時の安寧の地だったから。
きっと、それが悪かったんだと今なら分かる。相手を勘違いさせる気なんて微塵も無かった。コンパ的な場でわざわざ席を移動して隣に来ただけで好意があると思われるなんて、想像もしなかった。見るからに女性への免疫が低そうだとは思っていたが、まさかここまで思い込みが激しいとは予測できなかったのだ。
ゴミ置き場から戻ってショップの締め作業を終えた後、帰り支度をしながらスマホをバッグから取り出し、穂香はそのホーム画面に表示された履歴に寒気を感じる。
メッセージの着信数の半分以上が金子からの物で、『今日は何時上りですか?』『次のお休みはいつですか?』『今度また、みんなで飲みに行きませんか? いつがいいですか?』穂香の都合を一方的に確認するメッセージが連続して表示されていく。
「うわっ……」
思わず声を漏らした穂香に、弥生が「どうしたの?」と手に持っていたスマホを覗き込んでくる。そして、穂香以上に顔を引きつらせていた。
「きっつ。金子さんってあれでしょ、紳士服飾の何かやたら暗そうな人」
「穂香さんって、誰にでも優しくするから……」
詩織も一緒に覗いてきて、ふるふると拒絶するように首を横に振る。同じモール内で勤務しているから、失礼な断り方もできない面倒な相手だ。
この後に事務所へ寄って行く穂香へは「ま、頑張ってね」と言い残し、二人は先に帰って行った。残された穂香は一人で、清算が終わったレシート類をモールの事務所へ提出しに向かう。
従業員通用口での警備員のチェックを通過すると、ようやく仕事が終わったという解放感に包まれた。でも、ほっとしたのも束の間、目の前の外灯の下にまた背の低い人影を見つけて、穂香はギョッとした。
「お疲れ様です!」
通用口の扉から出て来たのが穂香だと分かると、その人影はこちらへと声を掛けながら近付いてくる。届いていたメッセージには何も返信はしていないはずなので、なぜ待ち伏せされているんだろうか……。
弥生達はとっくに駅に着いて電車に乗っているはずで、急いで走っても合流はできない。こういう場合、何て断るのが正解なのかと頭の中でぐるぐると思考する。不意打ち過ぎて、露骨に狼狽えてしまったかもしれない。
「良かった。同じ店の子達が先に帰って行ったから、今日は早上がりなのかと思ったよ」
「あ、いえ……」
「メッセージ見てくれてる? かなり送ったんだけど」
「……はぁ」
金子が近付いてくると、やっぱり煙草の嫌な臭いが漂ってくる。待っている間にもまた喫煙していたのだろう、吐く息もかなり煙臭い。こんなに煙草臭くて、客からクレームは来ないんだろうかと心配になってくるレベルだ。最近の消臭剤はよっぽど性能が良いらしい。
「ね、今日って何か用事ある?」
さらに詰め寄って来る金子に、穂香は無意識に一歩退いてしまう。身体中が彼のことを拒絶しているらしく、怯えから指先が震え始める。そんな穂香の様子には気付いていないらしく、金子は一方的に喋り続けてくる。
と、困惑している穂香の肩を、背後から誰かがポンと叩いてきた。
「うちのスタッフが、どうかしましたか?」
振り返って見ると、川岸が怪訝な表情で金子のことを凝視していた。肩に触れている手から伝わってくる穂香の怯えに気付いたらしく、牽制するように問いかける。
長身のオーナーから見下ろされ、金子は俯きがちに「いえ、あの……」とオドオドと言葉を濁している。
「ほら、帰るぞ」
「……オーナー、今日は店には来られてませんでしたよね?」
「ああ、打ち合わせで事務所には来てた」
「そうなんですね」と返しながら、穂香は川岸と並んで駅への道を歩き始める。後ろでは気まずい表情の金子が、ポケットから煙草のケースを取り出しているのが見えた。噂には聞いていたイケメンオーナーを目にしては、諦めるしかないと悟ったのだろうか。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます