変わり者の夫、幼馴染の嘘

 わたしの家は小田原駅から東海道線で一駅離れた鴨宮にある。巨大ショッピングモールのダイナシティを通り過ぎた先に、建売住宅を買っていた。


 コピペしたように同じ外観の家が立ち並ぶ。その一角に車を停め、家に入るとキッチンで夫の和也が料理を作っていた。魚焼きグリルから匂いが漂う。和也はコンロをじっと見ながら声をかけてきた。


「おかえり」


「ただいま。いつか和也も墓参りさせたいんだけどね、母さんが許してくれればいいのに。あれ、今日も鯵を焼いているの?」


「海外生活が長いと日本食が恋しいんだ」


 素っ気ない返事。研究一筋。結婚してからマトモにセックスしてもらったことなんて片手で数えられるぐらいしかない。大学の文学部で宗教学を研究している和也はフィールドワークのために海外へ出張する機会が多い。


 黒くさらさらした髪、卵のような輪郭、目は丸く優しげで、肌は透き通るほど白い。そんな、顔のいい男なのに。寂しい。


「俺も出世していかなきゃいけない。あ、あと来週からまた出張」


「また? 今度はどこなの」


「メキシコシティ。教授からついてきてくれって誘われちゃってさ。一週間ぐらいですぐ帰るから」


 和也の目はずっとわたしではなく、ガスコンロを向いていた。


 研究者は上司の教授に絶対的に服従しなければならない。学者のムラ社会で生き残るには、画期的な研究の成果も大事だがコネクションのほうがはるかに重要。わたしも大学の研究室で見てきたことだ。仕方ない。


 鯵が焼き上がり。二人で夕食をとったあと、ヘルメス製のスピーカー・セイレーンの白く丸い筐体に指示する。


「セイレーン、なに動画を見せて」


 賢いセイレーンは、サブスクリプションの動画配信サービス・ヘルメスビデオで芸人の漫才を観る。リビングの四十二型のディスプレイ越しに、ボケの男が「俺が仕事をしているのは、お客さんのためじゃない。飼い猫にカリカリを貢ぐためだ」と言い放っていた。


 このお笑いコンビ・ヌルヌルヌルハチは和也のお気に入りで、つい昨日、教えてもらったばかりだ。


 一方、和也はショットグラスのテキーラを一気に飲み干た。ツッコミはボケに向かって「お前は猫の奴隷か?」と挑発していた。


 頬杖をつきながら和也に聞いた。


「テキーラいつも飲んでるけどなんで? あんなの、大学の罰ゲームでしか飲んだことないよ」


「それは芽衣の飲み方でしょ。俺の血は半分、テキーラでできている」


 和也は大学院時代から現代メキシコの宗教を研究していて、二十代の十年間のうち五年をメキシコで過ごしている。


「日本酒は恋しくならないんだ」


「食べ物と酒は違うよ」


 和也はグラスを置くと据わった目つきで喋る。


「ねえ、ポソレって知ってる?」


「知らない。どんな食べ物?」


「ピリ辛唐辛子のお出汁にとうもろこしと豚肉、モツなんかもたくさん入った栄養満点のスープ。薬味にラディッシュや千切りキャベツ、パクチー、レモンを添える。おいしそうでしょ」


 和也はグラスにテキーラを注ぐ。


「昔はね、豚肉じゃなくて人の肉を使っていたんだよ」


 また始まったと思った。


「痩せたジジイの肉は枯れた木を食うよりマシ。女は若ければ若いほどいい。子どもは骨ごと食えるらしいよ。アステカ人はしょっちゅう食べていた」


 和也がやたら饒舌に語る。研究バカとわかって結婚したがそろそろ我慢できない。手の震えを隠すと、和也はさらに言葉を続けた。


「そもそもなんでアステカ人って食人をしていたと思う? まず、アステカはアステカの中心を成していたテノチティトラン、テスココ、トラコパンの三国同盟。お互いに交易して豊かな国家を作っていたけど、一四五〇年から四年間、大飢饉がメキシコ盆地を襲って状況が変わった。主食のとうもろこしを生産する土地をお互いに奪い合った。それでも足りない。食糧不足にあえぐ複雑な国家を、権力者が支配するにはどうすればいいと思う? 自由と平等を尊ぶ? 権力者が高い人徳を持つ? 違う、違う。不安と暴力を使うんだよ。だからアステカ帝国の神官たちは終末思想を説いたし、カニバリズムなんて暴力を行ったんだ」


 恐怖による支配。他人に不安を暴力で植え付けて、自分に依存させる。それが一番手っ取り早い。暴力は快楽なのだから。


「それはわからないよ。本当に信仰していたかもしれないじゃん」


「権力者が毎日おんなじことを言っていれば自然と下は信じるものだよ」


「ふーん」


 日本酒を飲む。


「てか、俺の研究テーマなのに興味ないよね? すごく生返事なんだけど」


「仕事で忙しいから、余計なことは覚えられないの」


 和也が呆然とした顔で見てくる。間違ったこと言ってないよね?


「お前、本当に大丈夫? じゃあ、お前、もし子どもができてさ、成長したこどもが『ママ、これって知ってる?』って本を持ってきても、『興味ない』って」


「子どもがわたしの興味をひくようにコミュニケーションをとってこないからでしょ。それぐらい子どもの自己責任。なんでわたしがいちいち責任を感じなければいけないの」


 和也とまったく話が合わない。わたしは和也を責めた。


「そもそも子ども産む気ないし。二十年で数千万円も投資して、そのあとちまちま回収するなんて、効率のクソ悪いことできるわけがないじゃん」


「投資って言い方はやめろよ。金をかけたら必ず利益が出るわけがないからな、お前、自分の子どもを金儲けの道具にするのか」


 和也は声を荒らげた。


 人間の子どもなんていらない。産んでから初めて能力がわかるなんてガチャじゃん。生産性が高い子どもだけがほしい。コストがかかる。稼ぎを、子どもに食われたくない。


「もういい」


 対話を諦める。


 会社の成長に貢献するため、PCDAを回すために生まれてきたの。このまま家庭に収まりたくない。子どもに向けてガラガラを回すために生まれてきたんじゃない。


「……そういえば、ヌルヌルヌルハチのYoutubeチャンネルって興味ある?」


 和也がスマホの画面を見せてきた。Youtubeチャンネルを開く。画面を下にスクロールすると、とある動画が目にとまった。動画のタイトルは「僕たち、もう辞めます」。サムネイルには、ヌルヌルヌルハチの二人と曇り空が写っていた。おそらくインカメで撮ったのだろう。だが、画面の脇に見覚えのある建物が映っていた。


「あれ、これって元々マルイがあったとこじゃん」


 わたしは画面を指さした。ここは小田原駅前、マルイ旧小田原店が入っていたビルだ。 動画の日付は十一年前の八月三日――美羽が行方不明になった日だ。心がざわつく。


 和也は動画の再生ボタンを押した。ヌルヌルヌルハチが愚痴りながら歩いていた。話の内容から察すると、南足柄のパチンコ屋に呼ばれライブをしたが大滑りして凹んでいるようだった。ボケはずっと暗い表情をしていた。空を写していたカメラは街を向く。小田原駅前の広場が映し出された。愚痴を言い合うヌルヌルヌルハチの背後、駅のエスカレーターの脇に、ギターを持って歌う女の子がいた――美羽だった。


「あっ……。美羽だ。美羽だよ」


 おもわず、気の抜けた声を出してしまった。

 ヌルヌルヌルハチが矛盾だらけの日本社会に呪詛を吐いて、親指を下に下げた。その瞬間、エスカレーターの脇から男が現れた。自分の目を疑った――浅黒い肌、鷲鼻、白い歯。まだあどけない顔の沖宮だった。軽井沢にいたはずの沖宮は、画面のなかで美羽の腕を掴むと、鎖帷子のように細かい路地に消え去っていった。

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