一 不義密通
葉月(八月)半ばの昼過ぎ。
日本橋呉服町で、始末屋の
間一髪で、森田は無頼漢の匕首を手刀で叩き落し、男を叩きのめした。男は地元の者に取り押さえられた。
森田の着物は腰の部分が匕首で切れていた。呉服町の呉服屋の女が見かね、
「お武家様。着物が斬られております。私どもは呉服屋をしております。
着物を縫いますから、店に入ってください・・・」
森田を呉服屋に招き、店の奥の座敷に招いて森田の着物を縫った。
とその時、座敷に男が現われた。
男は下帯姿で座っている森田に、
「やいっ、てめえ!オレの家で何をしてやがるっ?」
「着物を斬られたので、こちらの女御殿に縫うてもろうておる」
「てめえ、そんなことを言って、こいつに手を出す魂胆じゃねえのか?」
「いや、着物を縫ってもらっているだけだが」
「そうだよ。店の表で騒ぎがあって、こちらのお武家さんが着物を斬られたので」
「おめえも、おめえだ。昼日中から間夫を引き込むたぁ、なんてこった!」
「だから、こちらの方が店の外の騒ぎで着物を斬られて・・・」
女は密通ではないと言うが、着物を脱いで縫って貰っている森田の姿は通りすがりの者とは思えぬ落ち着きだ。女の夫紛いの男が勘ぐるのも無理はない。始末屋の石田光成の仲間、浪人の森田真蔵は手練れだ。落ち着きが違う。
女の説明を聞くうちに、男の興奮が収まってきた。
「いや、すまねえ事をしちまった。うちの阿呆な若えもんが、酔った挙げ句に暴れやがった。大事なお召し物を台無しにしちまった。この通りだ。勘弁しておくんなさい」
「あの若いもんは其方の手下か?」
森田はじっと男を見据えた。
「はい、そうです」
「ならば、勘弁できぬ、と言ったら、どうする?」
森田の言葉で、男の頭にかっと血が昇った。
「そう言われても・・・」
男は懐に手を入れて匕首を抜き出した。森田に向けて威嚇している。
「やめておけ・・・」
目の前で匕首をちらつかされても、下帯姿の森田は座ったまま落ち着いている。
「勘弁できぬたあ、どう言うこってすかいっ?」
男は匕首の鋒を森田の目や額に向けてゆらゆら振っている。
「手下の始末もできぬ者は勘弁できぬ、と言っておる」
森田は落ち着いた声で言った。
「なんだとっ、
ここから生きて帰れると思ってるのかっ!」
男が匕首を、座っている下帯姿の森田の腹に突き込んだ。
と同時に座っている森田の上体がユラリと動き、膝立ちになった森田の右の脚が一瞬に男へ向かって伸びて男の顎に森田の右の踵が炸裂した。
男は大きく仰け反って背後に倒れ、瞬時に意識を失った。
「だから、やめておけと言ったのだ。着物は縫えましたか?」
森田はふりかえって女を見た。
「いえ、まだ・・・」
女は驚きのあまり、言葉を無くして固まっている。
「下帯と着物と帯、それら新しい物を出して下さい。
この者が居るのを見ると、此処は女所帯ではないですね?」
森田は女に、畳に倒れている男を目配せした。
「はい、すぐにお持ちします!」
女は慌てて真新しい晒の下帯と、真新しい肌襦袢と、真新しい着物と帯を持ってきた。
森田は女の前で下帯を取って新しい下帯と換え、新しい肌襦袢と着物を身に着け、脇に置いてあった脇差しを腰に帯びて座り、打刀を左の脚の横に置いた。
「依頼したき事があるので出向いてくれ、と使いが来たから、日本橋呉服町の此処、呉服屋有村屋に参った。挙げ句がこの様だ。依頼とは、私に死ねと言う事か?」
森田は左手で、畳に置いた打刀の鞘を掴み、鯉口を切った。
「あたしにはわかりませんよ。ねえ、あんたっ!起きとくれよっ!」
女は倒れている男を叩き起こした。
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