12. 聖女は恋の駆け引きが不得手です

 勢いよく扉を開けて、そのまま無我夢中で渡り廊下を走り抜けた。

 クレアが通り過ぎた回廊では、青々とした葉が風に乗って遠くへ飛んでいく。でもそんなことに気を取られている余裕はない。

 いつもなら聖女らしく、おしとやかに振る舞うことなんてお手の物だ。しかしながら、今日ばかりは見逃していただきたい。そんな余裕がかけらでも残っていれば、こんな風に敵前逃亡するような結果になっていないのだから。

 気づけば、クレアは離宮の外れに来ていた。人影はない。あるのは小鳥の声と暖かな木洩れ日だけだ。人生初めての全力疾走に体が悲鳴を上げている。

 大木にまで育った欅の幹に片手をついて、ぜぇぜぇと肩で息をする。


(な、なんなの……あの色気は!? あれで十四歳って嘘でしょ!?)


 ディクス王国において、男性の成人年齢は十八歳と決められている。すなわち、王太子が成人するまでは結婚することはできない。

 つまり、婚礼の儀が行われるまで、まだ四年の猶予があるわけで。

 冷静に考えろ。まだ時間はたっぷりあるはずだ。その間に恋人の距離感にも徐々に慣れればいい。今は経験がないだけで、回数をこなせば、きっとあの色気にも耐えられるようになる。そうだと信じたい。

 だが果たして、本当に自分は慣れるのだろうか、先ほどのような甘い時間にも。

 聖女になって手に入れた鋼の精神力でさえ、ジュリアンの前では歯が立たなかったのに。


「…………」


 先ほどの自分の挙動不審な行動を思い出し、理想にはほど遠いなと思う。我ながら前途多難なのではないだろうか。同じ状況で、うまく振る舞える未来がまるで思い浮かばない。

 もし相手がジュリアンでなければ、正直ここまで翻弄されていなかったはずだ。今回は相手が悪かったのだ。よく知る人物だったから、親しみを感じる相手だったから。そんな彼が自分の婚約者になって動揺するなというほうが無理な注文だ。

 そう自分に言い聞かせる一方、脳裏に蘇るのは大きな手の感触。

 まるでずっと湖に浸かっていたかのような冷たい手だった。クレアよりずっと大きな手のひらが頬を包み込み、その長いきれいな指がたどった先は――。

 うっかり唇が重なり合う光景を想像してしまって、火を噴いたみたいに顔中が熱くなった。


(落ち着け、落ち着くのよ。そ、そういうのはもっと先のはず。まだ大丈夫。わたしのほうが年上なんだし、こんなことで動揺してどうするの……心を無にするのよ……!)


 どのくらい、そこに立ち止まっていたのか。数分だったのか、数十分だったのか。時計の針を確認していないクレアにはわからない。

 ただ、気づいたときには後ろに人影があって。

 振り返るより早く、耳元に吐息がかかった。びくりと肩が跳ねるが、それをなだめるように右の肩にぽんと男の人の手が置かれる。


「やっと見つけた。クレアは逃げるのが上手なんだね。勉強になったよ」

「…………」

「でもごめんね、君を逃がしてはあげられないんだ。だって、クレアは俺の心のよりどころだったから。君に会うために何度も城を抜け出した。初めて見たときから――俺はクレアのとりこだよ」


 突然の甘い低音が耳に吹き込まれ、猫みたいに全身の毛が逆立った。確認するまでもなく、心拍数が急上昇しているのがわかる。

 声にならない叫びを発していると、声の主――ジュリアンがふっと距離を取る。

 クレアはゆっくり振り返った。途中で走ったのか、先ほどはしっかり留めてあった首元の第一ボタンが外れている。そこから覗く喉仏を見てしまい、羞恥心に火が灯る。

 見てはいけないものを見てしまったような罪悪感が膨れ上がり、視線を足元に落とす。景観を損なわないようにきれいに刈られた芝を見て、唐突に気づいてしまった。


 彼にとって自分は何なのだろう、と。


 こうして逃げ出したクレアをわざわざ追いかけて愛を囁く姿を見る限り、気持ちを偽っているようには見えない。恋愛事の経験はないが、彼の言葉は信用してもいいと思う。

 けれど、その気持ちのたどり着く先は、果たして今までと何が違うのだろうか。好きだからと愛を囁きながら結局、クレアをまた縛り付けるのではないのか。自分の手元に置いておくために。

 それではまるで、自分はお気に入りのアクセサリーのようではないか。


「……どうしたの?」


 暗い顔をしたクレアを気遣うように、ジュリアンが屈んで視線を合わす。

 自分を案じる神妙な顔つきに緊張していた心が少しほぐれ、言うつもりはなかった言葉がそのまま口から出てしまう。


「か、確認しておきたいことがある、のだけど……」

「なんでも言って。不安のままで悩まれるより、その都度、相談してもらったほうが俺としても助かる。どんなに親しい間柄だって、ちゃんと言葉にしないと伝わらないからね」


 思ったよりフランクな切り返しに、クレアは瞬いた。

 まるで友人に接するような気安さだ。もちろん、これは彼なりの気遣いの結果だということは理解している。だから、この言葉は胸にしまわなくてはならない。


 ――そのはず、なのに。


 どうして目の前の男は悲しそうな顔をしているのだろう。本音を押し殺したクレアの気持ちを察したように眉根を寄せている。

 そんな顔をさせたかったわけではない。

 でも、思ったままの気持ちをそのままに伝えて、もし王太子の不興を買ってしまったら。

 いくら聖女だろうと、すべてが許されるわけではない。この国で安泰に暮らせているのは王国の庇護下にいるからだ。

 飼い犬に手を噛まれるような真似、果たしてジュリアンは許容してくれるだろうか。

 逡巡するクレアを思考の海から救い上げるように、気づけば右手を取られていた。そして、王太子として初めて会ったときのように跪かれる。


「俺に何か聞きたいことがあるなら、教えてほしい。答えられる質問にはすべて答えるよ。……だから、せめて俺の前では気持ちを押し殺さないでほしい」

「…………」

「ちゃんと受け止めるから。どうか信じて」


 ジュリアンはクレアの右手を両手で包み込み、瞬きも忘れたように見つめる。

 真実を映す鏡で心をのぞき込まれたわけでもないのに、思わず視線をそらす。たぶん、それがいけなかったのだろう。

 クレアは気づいてしまった。自分を包む手がほのかに温かいことを。

 つい先ほどは驚くほど冷たかった手が、今はわずかだが熱を帯びている。ジュリアンのドキドキが伝わってくるようで、クレアの鼓動も再び騒ぎ出す。

 一度意識してしまえば、気づかないふりをするのもなかなか難しい。

 だが、唐突に彼の体温上昇の理由に思い当たり、瞬く。


(もしかして、リアンも怖いのかもしれない。ありのままの自分を受け入れてもらえないかもしれないって、本当は不安でいっぱいなのかも……)


 彼はずっと身分を隠してクレアに接してきた。

 王族であれば、自分の価値は重々承知しているはずだ。お忍び中なら、その身分を使う場面がない限り、自ら名乗り出るようなことはしないだろう。第二王子だと知られれば身の危険が増え、周囲の人間も巻き込まれる可能性が高いからだ。

 しかしながら、理由があったにせよ、彼がクレアをずっと騙していたことは変わらない。

 最初からリアンが第二王子だと知っていれば、馴れ馴れしく話すような愚鈍な真似はしていなかっただろうから。


 もし、彼が良心の呵責に悩んでいたとしたら――。


 そこまで考えて、先ほど飲み込んだはずの言葉が喉元までこみ上げた。クレアは目を伏せて深呼吸する。そして、ゆっくりと瞼を開けた。

 クレアの気持ちが定まるまで待っていてくれた彼の期待に応えるべく、口を開く。

 嘘偽りのない本音を伝えるために。


「リアンは……他の人のように、わたしを閉じ込めるの?」

「ん? クレアは外で働くのが好きでしょ? 一つの場所に留めるつもりはないよ。結婚はしてもらうけど、君の生き方まで縛ることはしない。聖女は特別だ。王太子妃という地位よりも尊ばれる存在でもある。多少の無理なら俺が通す。だから、クレアは自分がしたいようにしていい」

「……本当に? いいの?」

「もちろん。あと、君の帰る場所は俺の胸の中だったらいいなと思っている。君におかえりを言うのは俺でありたい。……だめかな?」


 だめだと思った。

 このままでは早晩、クレアは呼吸困難で死ぬ。

 首を傾げてこちらを見つめる、純粋な子犬のようなキラキラした視線を直に受け、恋愛耐性のない心臓は今にも破裂寸前だ。その行動は天然なのか計算なのか、クレアにはわからないが、とにかく刺激が強すぎる。

 いろんな意味で目の前がまぶしい。目がくらみそうだ。

 心臓がときめきで活動停止してしまう。そのくらいダメージがあるのだ、ジュリアンの言葉ひとつひとつは。


 でも、彼は聖女だからと決めつけずに、自分の考えを尊重してくれる人だ。


 誰も気にしてくれないクレアの心を見抜いて、欲しい言葉をかけてくれる。聖女になる前のクレアを知っていて、これからもずっとそばにいてくれる人。

 ただの女の子に戻りたい。その気持ちごと大事にしてくれる人。

 そんな人、ジュリアン以外に知らない。


 そのことに気づいて、クレアは救われたような心地になった。聖女の自分が誰かに救われるなんてと思ったが、嬉しいと感じた気持ちをなかったことにはしたくない。

 ふと、ジュリアンが手を離した。まるで、クレアに自由な選択権を与えるように。


「ねえ、クレア。これからは俺に君を守らせてほしい」

「え……」

「俺、クレアに好かれるように努力するよ。君の嫌がることはしない。だから、そばにいてもいい?」


 許可を求める声が思っていたよりも甘くて、クレアの心は屈した。

 潔く負けを認めよう。恋愛スキルが低い現状では到底、太刀打ちなどできない。というか、心臓が保たない。自分がこれからも生き延びていくためにも、早く気持ちを打ち明けよう。

 それにしても不思議だ。

 一度、覚悟を決めた心は、羽が生えたように軽い。さっきまでぐるぐると考えていた悩みも気にならなくなる。

 ライラックと同じ色のやわらかい髪が風でなびく。切れ長の青灰色の瞳はクレアしか目に入らないように、ひたむきにクレアを見つめている。


(リアン。わたし、あなたのことが……)


 口を開きかけたそのとき、第六感が告げた。


 ――今、彼の望む返事をしたら喰われるかもしれない。


 逃げろと本能が言っている。クレアは自分の直感のまま回れ右し、再び全力疾走でその場から離れた。


 ◆◆◆


 その後、恥ずかしさから逃げる聖女とそれを追いかける王太子の恋物語は、幸せな結婚の象徴として長く語り継がれていった。

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