11. 逃げてもいいですか?

 いつになく真剣な眼差しに、おとなしく口を閉じる。

 ジュリアンは、何かに耐えるようにぎゅっと両目をつぶった。


「まずは誤解を解かせてほしい」

「……誤解?」

「うん。まずは順に説明するね。君の指摘の通り、行動を共にしていた女性は確かにいた。だが彼女は隣国から借りていた護衛騎士だ。第二王子の俺に近づく女性を牽制するために協力してもらっていた。報酬も払っていたし、彼女とは完全にビジネス関係だ。それに俺の警護は彼女を含めて三人いた。今回の帰国に伴い、護衛契約も終了している」

「だとすると……隣国に好きな人がいたという話は……」

「事実無根の噂だよ」


 はっきりと否定され、必死に言葉を探す。


「で、でも。これからいい出会いがあるかもしれないわ」

「俺が好きなのはクレアだよ。っていうか、なんで伝わっていないの? こんなにアピールしていたのに」

「も、もう。それも冗談でしょう? だって、そんな都合のいい話があるわけないし……」


 笑ってごまかそうとしたら、手首をつかまれた。

 驚いて顔を上げると、丸テーブルの向こうに座っていたはずのジュリアンが真横に移動していた。

 強く握りしめられているわけではないので痛みはない。だが手を引こうとしても、びくともしない。目を丸くしていると、鋭い眼差しがクレアをその場に縫い止めた。


「冗談……だって? 俺が? 一体、何のために?」

「…………」

「クレア、俺の目を見て。今まで俺がどんな気持ちで耐えてきたと思ってるの。好きな子に好きと言えない立場のせいで、身を引くしかなかったんだ。でも何の因果か、君の結婚相手は俺になった。こんな奇跡、そうそうないよ。一度は諦めていた願いが叶うんだから」

「……願い……?」

「もちろん、クレアと結婚することだよ。後悔はさせない。俺が好きなのは聖女らしく振る舞うために作った笑顔じゃなくて、ありのままの笑顔なんだ。だから俺のそばで無理をする必要はないんだ。……だから、俺の気持ちを受け入れて」


 すがるような切実さが伝わってきて、目を右往左往させる。

 うまく言葉にできないが、これは返答を間違ったらマズいやつではないだろうか。


(ど、どうしよう……どうしてこんなことに……)


 冷や汗をかくクレアの胸中を読んだかのようなタイミングで、次の言葉が被さる。


「それとも何、他に気になる男でもいるの?」

「い、いません」


 つい敬語で返事をしたら、ジュリアンが笑みを深めた。


「ならよかった。じゃあ、俺の気持ちにも応えてくれるよね?」

「……っっ……」


 有無を言わさない圧力をひしひしと感じ、声が詰まる。

 こんな風に美形に迫られて動揺しない淑女の皆さまは、さぞ強心臓の持ち主なのだろう。アルバイト先で聞きかじった、思わせぶりな態度で相手を翻弄するような手法は、恋愛経験値が底辺のクレアにはとても真似できない。

 つまり、今の状況で言葉を取り繕うなんてことは到底無理なわけで。

 ここは直球勝負しかない。よし、とクレアは心の中で自分を鼓舞する。


「あ、あああああの! 恋とか愛とか、そういうことを語るには経験不足だから……もう少し時間がほしいな、と……」


 しどろもどろになりながらも懇願すると、ジュリアンはふむ、と顎に手を当てる。


「クレアが俺の妃になるのは確定しているんだし、そんなに急ぐ必要もないか。政務も落ち着いてきて、これからは毎日会えるんだし、婚約者なんだから触れあうことだって自由なわけだし……」

「…………」

「うん、そうだね。俺がどれだけ君を好きなのか、あまり伝わっていないみたいだから、ちゃんとわかってもらわないと。――ゆっくり愛を育んでいこう?」


 きらきらと目を輝かせた美貌が鼻先まで近づき、危うく息の根が止まりそうになる。

 ひぇっ、と声にならない叫びが喉元にせり上がった。

 息が浅くなり、呼吸がうまくできない。過剰なフェロモンを大量に浴びたせいでさっきから動悸が激しい。このまま死ぬのでは、という不安が脳裏をよぎる。


(こ、こんなに……恋って苦しいものなの……?)


 ぎゅうぎゅうに締めつけられているように、息苦しい。うまく息が吸えない。

 この近すぎる距離に耐えられない。いっそ、このまま気を失えたらどれだけ楽だろうか。

 現実逃避を始めていると、ふと、ジュリアンの右手がクレアの頬を優しく包み込むように触れてきた。武骨な手はまさしく大人の男の人のもので、子供だと思っていた少年が成長したことを自覚するには充分だった。

 繊細な硝子細工を触るような手つきと、焦がれた眼差しに射抜かれ、心臓の音がさらに大きく鼓膜を揺さぶる。耳鳴りのように自分の鼓動が耳元で聞こえる。

 と、そのとき。角張った指先がクレアの唇をそっとなぞった。


「……っ……!?」


 彼の親指が少し触れただけだ。唇同士が重なったわけではない。

 それなのに、なぜか悪いことをしている心地になり、羞恥心から頬に熱が集まってくるのがわかった。

 自意識過剰だ。そんなことはわかっている。それでも否応なく意識してしまう。だって、目の前には美貌の王太子がいるのだから。そして、目の前の男は未来の夫だ。

 ということは、いつかは恋人のように仲睦まじく触れあうこともあるわけで。


(むむむむ無理! そんなの心が耐えられない!)


 胸を張って言えることではないが、恋愛経験はない。

 昔から働きづめで恋愛をする余裕がなかったのも経験不足の一因だとは思うが、とにかく異性との距離の詰め方がわからない。自分に言い寄ってくる男なんて今までいなかった。つまり、異性の免疫はほぼゼロだ。

 実はクレアが恋愛音痴になった原因は、彼女のアルバイト先の店主夫妻と常連客のジュリアンが裏で不届き者に釘を刺していたからなのだが、そんな事情は当然本人には知らされていない。


(うう……こういうときの対処法がわからない……!)


 ぐるぐると目が回りそうになる。

 焦りだけが募り、冷や汗が尋常じゃないくらい出ているのがわかる。

 こういうとき、普通の令嬢ならどの行動が正解なのだろうか。迫ってくる男を逆手にとって惑わす? それとも女の涙で男を動揺させる? 答えはどっちだ。

 プレッシャー過多により視野が狭められたクレアは究極の二択に悶え苦しみ、やがて決意したように薄く口を開けた。だが、青灰色の瞳の中に映る赤面した自分の姿を見つけてしまって、あとはもうだめだった。

 クレアは脱兎のごとく、ジュリアンの前から逃げ出した。

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