Page:01-2 ぼくのあには、こものぐそくむし。
「ゆうえんち?」
学校から帰ってきた僕に母から告げられたのは、家族で遊園地に行く日帰り小旅行の予定だった。食卓テーブルに掛けて今日のおやつを待ちながら、そういえば兄がここ最近、酷く浮かれた様子だったことを思い出した。テレビを見ながら、ここに行きたい、あれが見たい、とキャーキャー昼休みの女子児童のようにはしゃいでいて大層うるさかったのだ。
元々、兄は人の半歩後ろをついて回り、聞き役に徹し、自己主張をせず長いものに巻かれるような、そういう人付き合いの方針を取っている。だから今回のこれは大方、クラスで連休にどこに行くかの話になり、兄の中の統計が遠出する人を多く観測した結果だ。決して、兄が本心からどこかに遠出したいと思っているわけではない。兄は本来、インドア派で分厚い天体の図鑑や手乗りのぬいぐるみにブツブツ話しかけて過ごすような根暗なのだ。
「凪沙はどこか、行きたい場所はある?」
母は、いつも通り僕の顔色を窺っている。目の前に出された高級洋菓子店のメロンタルトは、夕方の少し薄暗い部屋の中ではどうにも彩りを欠いている。おいしさも半減だ。ああいうのは、テレビ用に少し盛り付けを変えたり、ライトの当て方を工夫しておいしそうに撮影する、そういうものなのだ。
僕はタルトの端をフォークで崩しながら母の言葉に答え倦ねていた。正直、連休なんて国民の大半が大規模に動き回る商業戦略のど真ん中に突き進んでいくような、馬鹿なことはしたくなかった。しかし、兄が遊園地に行きたいと望むならそれもまあアリだろうとは思っている。僕は興味がないけれど、兄がそれで気を楽にできるならそれに越したことはない。
ただ問題は両親というべきか。当事者の僕からすると何とも馬鹿馬鹿しい話だが、出生時体重が兄よりも少し軽かったせいで――平均の少し下ではあるが、僕は至って健康体である、というのが母子手帳に書かれた事実だ。――母はそれが今も気がかりらしい。おかげで家庭は何より僕が最優先。願えば何でも叶う環境は非常に過ごしやすいが、刺激には欠ける。一口食べたメロンタルトは人工甘味料の味がした。
「うーんと、えっとね……」
僕が下手なことを言うと、両親は僕の方を優先してしまうだろう。そうしたら、兄は遊園地に行けなくなる。それだと兄は気落ちするに違いなかった。周りに影響されて言っているにしても、それなりに楽しみにはしているはず。そうでなければ、毎日しつこいくらい連休の話をしたりはしない。根暗な兄は、口数もそう多くはないのだ。
「――ぼくは、ないよ。ゆうえんちで、にいちゃんといっしょにね、えっと、えっと……」
言葉に詰まる。何か気の利いたことを、楽しみなアトラクションのひとつでも言わないといけないのに、僕はてんでそういうものを知らなくて、ぐるぐると考え込んでいた。
クラスの人は遊園地についてなんて言っていたかな。楽しかった、という感想を聞くことはあるけれど、何が楽しかったとかどういうものがあるかは聞いたことがない。僕がそれに興味がなくて、聞かなかったから。
「えっ、と……」
「あっ、凪沙、無理してお話してほしいわけじゃないの。そうよね、凪沙は遊園地は楽しみじゃないわよね。やっぱり遊園地はやめて、水族館にしましょう。その方が、きっと凪沙も楽しいわ」
「え、でも兄ちゃん、たのしみにしてるのに、ゆうえんちじゃないと、ないちゃうよ」
「泣いたりしないわ、大丈夫よ。だって」
――お兄ちゃんなんだから。
物心つく頃から何度も聞いた言葉。子どもの僕はそういうものか、と思っていた。僕は最近まで気づいていなかった。その言葉を兄があまり喜ばしく思っていないことを。けれど想像で人に気を遣うなんて馬鹿馬鹿しいことをしたいとは思わないし、何よりそれで僕の今の、願えば何でも叶う環境が崩れてしまうのは嫌だったから。
「――じゃあ、ぼく、すいぞくかんでね、イルカショーとね、たいへいよーのおさかなさんと、だいおうぐそくむしが見たい!」
「ふふ。凪沙は本当に、水族館が好きね」
その後、僕は特段拒否したわけではなかった遊園地を拒否したと母の中で曲解されたらしいとその発言から察した。自室に引っ込む兄は僕を睨んで小声で、絶対寝坊しないでよ、と低い声で不機嫌に告げると、心なし乱暴に部屋の扉を閉めたのだった。
あんな様子を見てしまったら一言、ごめん兄ちゃん、くらい言っておけば良かったかと思わなくもないけど、この時の僕は別に悪いことをしたという自覚はなかったし、僕にできることはしたつもりでいたから、特に楽しみでもない遠出からの現実逃避のつもりで、携帯ゲーム機の電源を入れて遅くまでブルーライトを浴び続けたのだった。
連休明け初日。
学校はやっぱり、自分よりも馬鹿なクラスメイトたちが連休の思い出を中身もないのに話していた。僕は志望高校の対策問題集を開いて、数式と戯れていた。僕にとっては、その方がずっと有意義だ。
「なぎさくん、おはよう」
机の前に回り込んできて声をかけてくる人なんて一人しかいない。ユキが、にっこり笑っていた。おはよう、と返すとそれだけで満足そうに「えへへ」と笑い声をあげる。僕と友達になりたいなんて変な子だけど、ユキは僕以外の友達もいないみたいだったし、ある種の情けのような気持ちで接していた。それは、兄に向けるものと大差なかった。
「あの後、だいじょうぶだった?」
「なにが?」
「おうちの人、おこったりしてなかった? ボクの家なら、ぜったいおこられてると思ったから、お姉ちゃんとしんぱいしてたんだよ」
「……べつに、いつもどおりだったよ」
それは、いつも通り、兄がいなくなったと気づくのは僕で、気を利かせて僕に捜索を命じたのは父だということだけど。母は、僕が父にトイレと断って兄を探しに行った後で、僕がいないとヒステリックに泣き喚いた。母は兄については大人だと思っているので、全く心配していないし、何なら兄が迷子になっていたことにも気がついていなかった。兄はそんなこと、知りもしないだろうけど。
「でも、どうして、すいぞくかんだったの?」
「ぼくが、すいぞくかんがすきだと思われてるから」
「そ、そうなんだ。たいへんだね、なぎさくんも、お兄さんも」
「何で兄ちゃんも?」
「えっ。だ、だってお兄さん、おさかなさんが、にがてなんでしょ? ずっと丸姉ちゃんの手をにぎって、こわがってたよ」
ユキは、どうしてそんなことを凪沙くんが聞くの、と言いたそうに首を傾げた。どうやら、あの猫かぶり優等生の革はユキの姉の前では簡単に脱げてしまってたらしい。何ともみっともない報告だ、鼻で溜め息を吐きたくもなる。
それにしても、あの兄がそんなに簡単に素を見せるなんて珍しい。余程怖かったか、それかユキの姉が頼りになったのか、どちらだったのだろう。しかし、何にせよ。
「ばかだよ、兄ちゃんは」
それだけは確実に、そうだと思えた。
僕は無理を言っているつもりはない、できないことをしろというのは無謀だし無駄だと分かっている。けれど、兄のこれは怠慢だ。そんなに嫌ならもっと嫌だと言えばいい。僕がそうするみたいに、泣いて転がってお願いしたら、母は兎も角として父は聞いてくれる。少なくとも父は兄を気にかけているから。でも、なぜか兄はそれをしない。できるはずなのに。それが怠慢でないなら何だと言うんだ。
僕は兄の事情なんて知らない。知らないから好き勝手に過小評価するし、兄ちゃんの考えに思いを巡らせるなんて小学二年生の僕に課されるべき問題だとは思えない。
「どうして、ばかだと思うの?」
「ユキのあたまで考えたら、きっとすぐにわかるよ。ぼくが教えなくてもね」
「うーん、なぎさくんのお兄さん、あたまもいいし友だちもいっぱいいるし、ばかだなんておもわないけどな……」
ユキが困った顔で、うーん、と考え込んでいる。ユキなら分かるはずなのに、もしかするとユキも敢えて頭の中から消しているのかもしれない。……心や感情なんて面倒なものにこだわるから何も成せないってこと。
本当にしたいことがあるなら、なりふり構わず挑戦しないと達成できない。簡単なことなのに、僕らはあまりにも恵まれていて、あるいは人間ができすぎていて、それを頭の隅に押しやってしまう。それともこれは、僕がまだ子どもだからと横暴に振るう机上の空論とでも言うべ
きか。
「兄ちゃんは、こーかくるいの名おれだからね。えびのなかまの、つらよごしなんだよ」
ちょっと落ち込んだら狭いところに隠れたがるところとかが、特に。よく隠れてめそめそ泣いているのだ。兄は情けない、かわいそうな兄なのだ。ダンゴムシだって、もっと生産性のある行動をとるのに。
「も、もっと、わからないよ」
ヒントのつもりで口にした言葉で、ユキは余計に混乱したようだった。しばらく頑張って考えていたが、やがて朝のホームルームを告げるチャイムが鳴り、慌てて友達は自分の席に戻っていった。担任がやってきて、日直が由来も知らずに号令の声を上げる。
その後、国語の授業では連休の思い出を発表するという課題が出された。やはり興味はなくてつまらないから頭の中で適当に数列を組み立てようとして、少しだけ自分の失敗を振り返る。興味はないけれど、聞いてみよう。また同じ失敗を繰り返すなんて哺乳類にあるまじき失態をするのは、僕も本望ではないから。
動物園、ピクニック、家でゲーム、キャンプ……などなど、多種多様な思い出が語られるが、そのどれもがやはり、楽しかっただの吃驚しただの、人に話すには情報量が少なすぎてそれだけでは意味が分からない。
「次は、天春さん」
「はい。――ぼくは、家ぞくと、すいぞくかんにいきました。とくに、ダイオウグソクムシのすいそうを見るのがきょうみ深かったです。ダイオウグソクムシはとーきゃくもくのなかで、せかいさいだいのいきもので――」
クラス内で、ヒソヒソと小さな声が聞こえる。何を言っているのか意味が分からない、と。そうだ、僕にクラスの馬鹿共のことが分からないように、逆もまたそうなのだ。
ああ、君たちが分からないくらいで丁度いい。分からないままならば、それは僕の兄がうまく外でも兄をやれるという証明になる。そのまま誰も分からない状態ならば僕の生活は今後も変わらない、つまり兄はずっとダンゴムシのまま、いや、ダンゴムシほど立派じゃない。そう例えるのも烏滸がましいのだから。
――ぼくのあには、こものぐそくむし。
END
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