Page:03 麗らか日和と日々の足跡

 「ふにゃぁ~ん」

 「わあ! や、やめろ〜……!」

 ごろにゃーん、と飼い猫のパンプキンさんがアキさんの膝に前足をかけて抱っこの催促をしています。いつでもマイペースで自由なパンプキンさんは、今日も白くて艶々の長い毛をアキさんの服に擦り付けています。すっかりアキさんがお気に入りみたいです。

 アキさんはずり落ちそうな大きな黒縁の眼鏡をかけ直しながら、パンプキンさんにされるがまま、後ろに引っ繰り返ってしまいました。成長期はまだみたいで、子どもらしい体つきを覆った灰色のパーカーの上にペルシャ猫のパンプキンさんがドシンと乗りました。

 今日は仕事がお休みで、アキさんも連休で学校がないそうです。だから二人で目覚ましを止めて、二人で歯を磨いて、顔を洗って、二人でトーストを焼いて、ジャムが先かマーガリンが先かで言い合いをして、二人で食器を洗って片付けたんです。まだ口の中にたっぷり塗られたマーガリンの味が残っていました。

 「き、キャシー、笑ってないで助けて! パンプキンさん取ってー!」

 「はい。パンプキンさん、こっちですよ」

 六畳一間の賃貸。一匹の飼い猫のお庭になった自宅に、アキさんが来たのは一年前のことでした。意識してみると、アキさんの桃色に染められた髪が段々色落ちして明るい茶髪になったのにも、いつの間にかすっかり慣れてしまったのかもしれません。

 いろいろあった色々の部分は割愛しますが、アキさんは私の自宅で暮らす高校生の男の子です。アキさんは親戚でも何でもなくて、ただ外で知り合っただけの男の子ですが、本当にいろいろあって、一緒に暮らしています。

 ……本当はアキさんはアキさんじゃなくて、小春こはるさんですけど、でもアキさんは自分の名前が嫌いだそうです。初めて会った時も、アキです、って言っていました。だから、私は彼をアキさんと呼びました。

 「ぶなぁ」

 「パンプキンさん、アキさんに無理を言っちゃ、だめですよぉ。私で、我慢、して、ください」

 「ぅにゃあ。ゴロゴロゴロ……」

 抱っこしていたパンプキンさんが鎖骨の辺りをふみふみし始めました。爪が食い込んでいます。パンプキンさんは爪切りが嫌いなので今まで爪切りできていませんでしたが、もういっそどこか、獣医さんにでも爪切りをお願いするべきでしょうか。でも爪切りだけでなんて、迷惑なような……。考えていると後ろの方で洗濯機の鳴る音がしました。アキさんが「洗濯終わった!」と真っ先に走っていきます。

 時計を見上げると、時間は九時を少し過ぎたくらいです。アキさんが家に来てから、仕事がお休みの日でも早起きしていることが増えた気がします。パンプキンさんはその分、甘えられてとても嬉しそうです。初めは起きるのもつらかったのですが、最近は少しだけ慣れてきました。パンプキンさんのためになるなら早起きも悪くはないのです。

 「キャシー、晴れてるから外に干していい?」

 「……はい」

 アキさんがカゴを抱えてバルコニー――ああ、この国ではベランダの方が適切でした――に出ていきました。開いた窓から涼しい風が吹き込んで、初夏の葉っぱの匂いがします。仕事で忙しいとせっかくの四季を意識することもそう多くありませんが、もうすっかり夏になってるのですね。

 私の上から飛び降りたパンプキンさんが開いた窓からするりと抜け出ていきました。洗濯物を干すアキさんの横を抜けて、ベランダの塀にジャンプしたパンプキンさん。アキさんが、暗くなるまでに帰ってくるんだぞ、と声をかけます。パンプキンさんはそのままお隣の塀にピョンとジャンプして行きました。お利口なので通じています。夕方には、戻ってくるはずです。

 今日も、静かで穏やかな、良い日になりそうです。


【Page:03 麗らか日和と日々の足跡】


 「アキさん、私たち、も、散歩、に、行きま、しょう?……あ、あれ、行きません? えっと……ど、どう言えば……」

 洗濯物干しが一段落したアキさんに声をかけると、カゴを抱えたまま驚いた様子で固まってしまいました。どうしたの、昨日変なものでも食べたの、と目を何度も瞬かせて意外そうにしているのです。ちなみにアキさんと同じものを食べたはずです。アキさんが、サーモンが安かったんだよとクリームパスタを作ってくれたことを鮮明に覚えています。

 「散歩は、いや、ですか?」

 「違う! って、あ、え、っと、ごめんなさい……その、そういうことじゃない、そうじゃなくて、ああ、えっと、うーん。嫌いなんじゃなくて、えっと、えっと……」

 気まずそうなアキさんの左頬が、ぴく、と小さく引きつったのが私にも分かりました。アキさんの左頬はこうして時々、引きつるのです。どうしてかまでは、分かりません。もしかすると頭の中に辞典を広げて、ああでもないこうでもないと最適な言葉を探しているのかも。そうであるなら、気持ちはよく分かりました。私も人と話す時は、英和辞典と国語辞典と、とにかくいろいろ広げますから。広げすぎて分からなくなってしまうのですよね。

 ……私が大きい声に吃驚してしまうことがなければ、もう少し彼は気を遣わないで話してくれると思うのですけど、どうにもうまくいきませんね。

 「キャシーは、いいの? 明るい時間に、パンプキンさん無しで外に出て平気?」

 長らく言葉を選んでいた彼の口から出てきた疑問はそれでした。前後の流れがなんだか変なような、そうでもないような。私の頭の出来が悪いので、変に聞こえるだけかもしれません。アキさんは視線を左、右、また左に動かして、あー、うー、とまだ何かを言い淀んでいるようでした。だから、どうにか振り絞った問いと本当に言いたかったことは、何かが決定的に異なるのかもしれません。

 アキさんの心配ももっともでした。アキさんが来てからもしばらく、私は朝のまだ暗い時間から深夜まで家にいませんでしたし、特に朝、日の出が近い時間になると床に蹲って声にならない声を上げながら泣いていましたから。私が元気でいる姿をアキさんが見られたのは、主に月が沈む前だけの数時間に限定されていました。

 「平気、だと、思います。最近は、調子が、ほんの少しですが、良くて、……ほら、朝も起きられるように、なりましたし」

 「そ、そうだけど、それとこれは別なような」

 「それ、に、アキさんは、もっと、日に当たらないと」

 私、職場で聞いたんです。もやしは日陰で育つから細くてひょろひょろなんだって。インドア派のこどものことは、この国ではもやしっ子と呼ぶ、と。いけないことだと思いました。アキさんは部活動にだって所属してませんし、通学路を歩く他の高校生と比べると小柄な方なので……あ、でも小さいアキさんも可愛いと思ってはいますよ。歳の離れた弟ができたみたいで、微笑ましい気持ちになります。

 けど、このままアキさんが日光に当たらないと、この国で言うもやしっ子というのになったら、アキさんが仲間外れにされやしないかって、私は心配なんです。それに仮にも私、アキさんの保護者です。アキさんが笑ってるところは見ますけど何か趣味に打ち込んだり、どこか遠出してるのは見たことがありませんし、友達と遊ぶといった話も聞いたことがありません。……友達自体はいる、みたいですけど、詳しくは話してくれません。

 それでも毎日楽しいと思えることがどのくらいあるんだろうって思ったら心配だし、まるで自分に子どもの監督能力がないことを責められているみたいでした。だから、何かアキさんが楽しいと思えることを増やしてあげたかったのです。ただでさえ、あまり自分の好きなことをやりたいとは言わないから、余計にです。

 「キャシーにとって、俺は植物か何かなの?」

 「そんなことは、ないです、けど。その方が、発育? 成長? に、いいって、聞いて……だから、アキさん、もっと、日に当たった方がいいと思って――」

 「それを言っていいなら、キャシーだって日に当たった方がいいだろ。気持ちのコントロールにいいって、この前読んだ精神医学の本に乗ってたよ」

 しんと静まり返る空間で、アキさんが先に笑い出しました。釣られて私も笑います。私のは苦笑です。あまり喜べません。私の望む楽しそうって、こういうことじゃないんですけど……でも、それならどうしたらっていうのは思い浮かばないのです。まずもって、アキさんが本当に笑っているかなんて私にはわかりようがないのですから。

 アキさんは見た目こそ女の子のようにも見えますが、笑う時は豪快で、最近は歯が見えるくらい口を開けてお腹から声を出して笑うことも増えてはいるのです。けど私から見るとそれがまるで、笑い方を知らない人が他の笑顔を真似て、無理やり形だけ笑っているようにも見えてしまったのです。

 ――それがあまり良くないことだと、頭でも心でも分かっているのに、私は彼に合わせて笑うのをやめることができないのだから、私も大概、大人の癖になのだと思います。

 「行こうよ、散歩。一緒に日向ぼっこしよう」

 「? 日向ぼっこ……、はい。行きましょうか」

 私達はすぐに外に出る準備をしました。普段は使いもしない水筒によく冷えた麦茶を注ぎ、外出用の服と鞄をお互いに選びあったんです。さあ出発だと玄関に来たところでお洒落な靴がないのに気がついて、スーパーに買い物に行く用のスニーカーを履いて、また二人でぎこちなく笑い合いながら日の下に出ました。


 このあたりの住宅街は閑静ですが、連休ともなると子どもたちの声があちこちから聞こえます。普段あまりこうして歩かないアキさんと、仕事ばかりで体の凝っている私も、休み休みといった形で散歩を楽しみます。決まった道は歩きません。こっちの道に行くと駅があるから反対に行こうとか。あっちは通学路でいつも使うから違う道が良いとか。だから、へんてこな道順を、へんてこに歩きながら、他愛のない話をしました。

 住宅街。いろんな家の前を通ります。四角いデザイナーズ住宅は、お洒落な前庭で家族が焼肉を楽しんでいます。身なりのきれいな男の子が、飲み物を注いでお手伝いを頑張っています。アキさんは少し羨ましそうに眺めていました。

 前から気になっていたこの大きなお屋敷は、世界的ピアニスト一家の邸宅なんだとか。この前、カメラが来て撮影してたって大家さんが話していたんですよ。耳を澄ませば、綺麗なピアノの音が聞こえてきてアキさんと二人ですごいねって話しました。

 ……あちらの古いコンクリートのマンションはアキさん曰く、公営住宅、というものです。人が住めるのか不思議なくらい古く、蔦も多く巻きついていますが、まだ小さい赤ちゃんを抱いた夫婦が仲睦まじそうに住宅への道を歩いていくのを見ました。外見よりも住み心地の良い場所なのかもしれません。

 通りかかった公園の木陰のベンチに腰かけている時にも、いろんな人を見ました。

 母親と一緒に花壇の花の絵を描く女の子は、スケッチブックにクレヨンをぐりぐり押し付けています。ちらっと見えた絵があまりにも毒々しい色をしていましたが、親子はとても嬉しそうです。アキさんから、キャシーは絵が得意かと聞かれて、私は苦手です、と返しました。祖母や親戚はファッションデザイナーをしているのですけれど、と付け加えると、じゃあキャシーも上手な方なんじゃないのと笑って言われてしまいました。そんなことはない、はずですけれど。

 兄弟姉妹たちでブランコを交代で乗る姿も見ました。数を数えて順番で入れ替わっては、まだ乗りたい、早く変わって、と喧嘩になっています。金髪に青い瞳の頭一つ抜けた姉だろう子が仲裁を頑張っているおかげですぐに小さな子たちは笑顔を取り戻します。大変そうだね、そうですね、と一人っ子の私とアキさんはちょっとだけ同情してしまいました。

 離れたところでは、虫取り網を持って蝶々を追いかける子もいます。カメラを構えて笑顔の父親、ピクニックシートを広げて見守っている母親。一家団欒が太陽のように眩しく見えました。ああいうのを見ると私は少し寂しくて、故郷で毎月のようにピクニックやキャンプに行っていたのを思い出してしまいました。アキさんは、優しそうな家族でいいな、と独り言を言っていました。

 「かなり歩きましたね。……あ、この道、振り返ってみると少し、坂になってます」

 「いい運動になってる、かもね。はあ……あ、キャシー、向こうに階段がある。あれかも」

 知らない道、知らない風景を追いかける内に、私達は居住区から離れた木陰の道を歩いていました。十分前くらいに自然公園の看板を見つけて、アキさんと二人でそこを目指そうと決めたばかりです。

 ただ、辿り着いた階段は今も看板があるような公園の階段にしては少し古すぎたので違うことがすぐに分かってしまいました。首が痛くなるほど上の方に色の取れてしまった古い鳥居が見えます。こんなところに神社があるなんて初めて知った私達は興味本位で鳥居の下まで来て、向こうを見て吃驚しました。なぜならあんまりにも古くて、草が生い茂っていて到底誰かが管理しているようには見えなかったのですから。現在進行形で草刈りをしてるご年配の男女が見えなかったら、ただの荒れ地と勘違いしていたに違いありませんでした。

 「あ、人が草刈りしてる。一応、まだ神社ではある、のか」

 「そう、ですね。ご年配の、方、二人でするには大変そう、ですけど」

 「……お賽銭したら、草刈り機代とかになるのかな」

 「ふふ。アキさんは、優しい、ですね」

 「キャシーは俺のこと買い被りすぎだよ。俺、優しくなんてないから」

 むっと少し拗ねたアキさんが境内を歩いていきます。苔生した手水鉢を覗いて、何とも言えない顔になり、それから賽銭箱の方へ行きました。神社は作法があるのでしたよね。私はこういうの疎くて知らないので、アキさんの後をついていくことしかできませんけど、問題ありませんか? 心の声には誰も相槌を打ってくれないので、少し不安です。

 賽銭箱もぼろぼろで、乾燥した木がささくれ立って、留め金の鉄も錆びていました。アキさんと私はお財布から五円を出して、賽銭箱に入れました。両手を合わせて、――あ、何かお願いしないといけませんよね。ああ、何にしましょう、何がいいんでしょう。何も考えていませんでした。今、かなり幸せというか、そんなに悲しい気持ちじゃないから。どうしよう、何を願えば。

 「キャシー?」

 「ぴぇ。あっ、あ、すみ、ま、せ……」

 「あ、ああ、こっちこそごめん。ずっと手を合わせたまま固まってたから。何お願いしてたのか、気になって」

決めきれずに固まっていましたと言うのも何か違う気がして、まだ合わせられたままの手のひらにかいた汗が滑っています。それでも心の中で、少し早口に唱えます。


 ――アキさんに日々の楽しみが見つかりますように。毎日笑って過ごせるようになりますように。


 「ああ、あの、ですね、秘密、です。秘密」

 「秘密? あっ、神社でお願いしたことって口に出したら叶わないんだっけ。じゃあ、言うのはやめておこうか。キャシーのお願い叶わなくなったら嫌だから」

 そういうことではなかったのですが、私もアキさんのお願いが叶わなくなったら嫌です。だから、そうですね、と急ごしらえの笑顔で誤魔化しておきました。

 「あらまあ。若い恋仲の二人がこんな錆びれたとこに珍しい」

 「ぴゃっ!?」

 「わ! あ、こ、こんにちは……」

 後ろから声をかけられました。振り返ったところにいたのは、先ほどから草刈りをしていたご年配の婦人で朗らかに笑っています。恋仲ではありませんが、何だか気恥ずかしくて違うとも言い出せず、アキさんと二人揃って苦笑してしまいました。

 恋仲、に見えるのでしょうか。アキさん、そんなに大人に見えますか。それとも、私が子供っぽいということでしょうか。もしかして、しっかり歳のことを分かった上で子供に手出しした大人という風に見られていますか。うう、この国は言葉の外に言葉とは違うニュアンスを含ませる技術がコミュニケーションで必要なので、分かりません。

 「翠慧すいけい様も、久々に若いのが来て喜んでるに違いないねえ。最近滅多に人なんて来ないもんだから、神様も見守り甲斐がなかったでしょうからねえ」

 「スイケイさま?」

 「おやまあ若いから知らないかい。ここで祀ってる神様よ。平和と縁結びの神様だけど、ちょっとばかしひねくれた神様だって昔っから評判でね。男女のペアで拝みに来ないと願いと真逆のことが起こるって評判なのよ」

 ふふふ、と婦人は口に手を当てて笑っています。嘘か真か分からない評判だけれども私はそんなところでお願いして平気だったのか不安になりましたし、アキさんは小声で「よかった……男女ペアで……」と胸を撫で下ろしていました。アキさん、よほど叶ってほしいお願いをしたんですね。どんなお願いか分からないけれど、スイケイさまも責任重大です。

 「境内を手入れする人手が足りないから放置してる期間が長かったけれど、今度は息子夫婦と孫たちでも呼んで草刈りの手伝いをしてもらおうかしらね。綺麗にしたら、あなたたちみたいな若い人も、立ち寄ってくれるかもしれないものね」

 そうしたら昔みたいにお祭りも縁日も開いて、ここら一帯少しばかり賑やかになるかもしれない、と朗らかに婦人は言っていました。ああこんなことなら自分勝手なことじゃなくて、ここの神社が繁栄しますようにとか祈っておけばよかったですね。少し、もったいないことをしたかもしれません。


 お礼を言って、私達は神社をあとにすることにしました。自然公園に背を向けて、元来た道を戻るのです。本当はこのまま公園に向かって上からの景色を楽しむつもりでしたが、私達の目的は散歩で、高く登った日が少しずつ傾きだすほど時間が経っていたものでしたから、自然公園はまた次の休みにということになったのです。

 ここからまた、知らない道を通って自宅に帰ります。早くしないと、先にパンプキンさんが帰ってきてベランダで待ちぼうけになっているかもしれません。けれど、それじゃあさっそく歩き出そうというところで私の隣からは足音がしません。忘れ物ですか、と私が振り返ると。

 ――ぱしゃり。

 「ぴゃぁっ……!?」

 視界に入ったのは携帯のカメラのフラッシュでした。間抜けな私の悲鳴に、アキさんは吃驚した顔で数瞬固まってから駆け寄ってきます。彼の折り畳み式携帯が、ぱたんと閉じた小さな音が靴音にかき消されました。

 「ご、ごめんキャシー! 吃驚させるつもりじゃなくて、振り返ると思ってなかったから……」

 「い、いえ……私の方こそ、すみませんでした。でも、どうしてカメラを……?」

 「あー、いや深い意味はないけど、――ここからでも綺麗な景色だなって、思ったから」

 彼の言葉が初夏の風を誘い、ふわり、ふわり、髪を、頬をくすぐって通り過ぎます。彼が指を指すので顔をそちらに向けると、木々の隙間から今まで歩いた町並みが見えました。

 麓にある笑顔で満たされた公園。それぞれの幸せがある住宅地。今日は避けたけれど、いつも使う大きな駅と恐らく混み合っているだろう駅前の店々が並ぶ通り。アキさんの通っている普通科の高等学校と、それよりも駅に寄ったところにある大きな学校。その向こうには日を反射して赤く輝いた海。

 「本当、ですね。ふふ、とっても、綺麗、です」

 「ね。……これ、写真に撮っておきたくて。今日の思い出に」

 「それなら、私は、写ってない方が」

 「無人の写真なんていつでも撮れるよ。それに俺、……あー」

 心なし、顔が赤い気がするアキさん。言い淀んで少しの間、何かを考えてから「ん」とぶっきらぼうに携帯をこちらに見せてくれました。

 私が遠慮するより先に視界に入った写真は、夕日に照らされながら振り返る私と先ほどの綺麗な景色が魔法みたいに組み合わせられていました。感嘆の声が自然と出てしまって、自信のない自分が綺麗に写っているのが信じられなくて、写真をじっと見つめる私は迷惑だったと思います。アキさんがぼそぼそと何か言ったのは、聞こえたような聞こえなかったような。

 「――キャシーが一緒にいなかったら、撮らなかった、と思うから、だから、これで――」

 ……ええ、やっぱり、聞かなかったことにしましょう。これじゃあまるで、少女漫画じゃないですか。私、そんなつもりでアキさんと一緒に暮らしてるわけではありませんし、私なんてアキさんに見合う女性ではありませんから。第一、一回り以上年が離れています。そんなの法律上、よろしくないことですよ。

 「アキさん。今日の散歩は、楽しかったですか……?」

 写真からアキさんの顔に視線が移ってることに、アキさん本人は気づいていないようでした。さっきから驚いてばかりのアキさんはまた肩を跳ねさせて、それから「うん」と小さい声で返事をして頷いてくれました。照れくさそうに顔をくしゃっと崩しています。困ったみたいな、けど笑い方が分からないなりに自分らしい笑い方があるような、そういう自然な顔に見えました。

 「そうですか。ふふ、それなら、よかったです」

 「なあ。どうしてそんなこと聞くの」

 「……私は、アキさんの保護者ですから」

 「……保護者」

 「はい。保護者です、一応は……大人と、未成年ですから……」

 今日の一日が、私との時間が、凍り付いたアキさんの時間を動かす氷解への一歩であると信じて。なによりそれが、私達の有るべき在り方で、アキさんの幸福に繋がると信じて。

 「帰りましょう。パンプキンさんが、ベランダで待ってます」

 私は彼よりも一歩先を歩き始めました。これでも大人ですから。甲斐性のない、ろくでない、どうしようもない大人にできる、精一杯の先導ですから。すぐに後ろをアキさんが駆け足で追ってきて、隣に並びました。そういうところが、年相応で歳の離れた弟みたいだということに恐らく彼は気がついてもいないのでしょう。

 「――ねえキャシー、今日の晩御飯、何食べたい?」

 溶けた角氷が、グラスの内側で音を立てるように。つま先に当たった小さな石ころが、かろん、とどこかに転がって消えていくのを、私も彼も、もう気にも留めることはありませんでした。

 私達二人は、笑いながら街灯の灯り始める住宅街に向かって歩いていくのでした。


END

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