第2話 漆黒の猫

 引っ越しの荷物も運び終わり、一通り掃除そうじも終わったところで大家おおやのおじさんがやってきた。

「昨日の夕方には着くって言ってたから待ってたのに」

 おじさんは機嫌きげんが悪そうに言った。

「すみません、思ったより道が悪くて。連絡れんらくしようにも電話がなかったんです」

「都会の人は時間にうるさいかと思ってたが、あんたらは違うみたいだな」

「いえ――その、申し訳ありません」

 ダニエルはおじさんにしきりにあやまっている。おじさんは「まあ、いいけどね」と、少し機嫌が良くなったようで、ダニエルをブレーカーのところに連れて行き、スイッチをオンにした。

 その途端とたん、リビングの電灯がぱっとついた。

 ヘンリーとマリーは顔を見合わせた。マリーは笑いながら、

「明日の朝はトースト焼けるわね」

 と言った。

 電気が使えて、ベッドで寝られる。当たり前のことだけれど、とても幸せな事のように感じられた。

 ダニエルと大家のおじさんが帰ってきた。

「へぇ、そうかい、あんたもりが好きなのかい」

「はい。といってもほぼ初心者ですし、最近は忙しくて行けてませんけど」

「ははっ、忙しいのはいいことさね。ま、ひまができりゃまた行けばいいさ。鉄道てつどうで少し西に行けば海にも行けるから、海釣りもできるぜ」

「そうなんですか。楽しみです。でも、釣り道具は全部置いてきちゃったから、またそろえなきゃ」

 いつの間にか楽しそうに話している。共通の話題があったことで意気いき投合とうごうしたようだったが、ヘンリーは父が二、三回友人に連れられて釣りに行った程度ていどで、初心者とも呼べない事を知っている。これはダニエルの話術わじゅつなのだ。

 おじさんはにこやかに笑いながら帰っていった。リビングに戻ってきた父は「どんなもんだい」と言いたげな顔で片方のまゆを上げて見せた。

「他になにかやることはある?」

 と、ヘンリーはいてみた。

「うーんと、そうだな、じゃぁおつかいをたのもうかな。町の大通りには店がたくさんあるはずだから、サンドイッチを買ってきてくれないか。朝から動きづめではらペコだよ」

 そう言うと、ダニエルはお金を手渡す。

「ついでにおやつでも買ってくるといい」

 ヘンリーはお金をポケットにしまうと、家の外に出た。昨夜は真っ暗だったから家の周りもほとんど分からなかったけれど、どうやらこのあたりは町のはずれのあたりらしい。ヘンリーの家のうらにも二軒にけんの家があるが、その先はもう手付かずの林になっていた。夏になれば虫取りができそうだぞ、と思った。

 ぎゃくがわに目を向けると、建物たてものつらなっており、おくの方には背の高い建物がいくつも見えた。きっとあっちが町の中心なのだろう。

 にぎやかそうな方に向かって歩き出す。新しい町はすべてが新鮮しんせんだった。このあたりは古い家が多く、誰も住んでいないと思われる家も多かった。

 ヘンリーは道をおぼえるために、自分なりの目印を作るようにした。どういうセンスなのか、真っ赤なかべの家。歩道ほどうえられた大きなイチョウの木。それからにわの木の枝にむすびつけられたブランコ。

 しばらく歩くと、徐々じょじょに人の姿すがたも見えるようになった。一〇分ほども歩けば雰囲気ふんいきががらっと変わってにぎやかになった。大通りまで出てくると、レストランやカフェ、書店、小さな花屋も見えた。

 サンドイッチが買える店をさがしながら歩いていると、ベーカリーが目に入った。店先みせさきにテーブルと椅子いすが置いてあり、若いカップルがクロワッサンを頬張ほおばりながらコーヒーを飲んでいた。

 その途端とたん、お腹がぐぅと音を立てる。そういえば朝から何も食べていなかった。ダニエルじゃないけれど腹ペコだったことに今更いまさらながら気付いた。もう他の店を探している余裕よゆうなんてない。今すぐにでも買って帰らなきゃ。

「いらっしゃい」

 ベーカリーの中に入ると、気の良さそうなおじさんが声をけてきた。

「おつかいかね、えらいねぇ」

 ヘンリーはここでようやくしまった、と思った。どうして一人で来ちゃったんだろう。何かを買うためには、自分から意思いしを伝える必要ひつようがあるではないか。

「あの、サンドイッチはありますか?」

 小さな声で、どうにかしぼり出す。

「おう、あるともさ。どんなのがおこのみだい?」

 いくつも種類しゅるいがあるのか。これまたこまった。なんでもいいから出してくれたらいいのに。そういえばパパは何が好きだったかな、と思い出してみた。

「えっと、それじゃハムとサラミが入ってるのを」

「ハムとサラミな。レタスと玉ねぎは?」

「はい、大丈夫です」

「ほいきた、ちょっと待ってな」

 パン屋のおじさんはそう言うと店の奥に入っていった。しばらくして三〇センチほどもある大きなサンドイッチを持ったおじさんが戻ってきた。紙袋かみぶくろに入れて手渡てわたしてくれた。お金を払って店を出る。紙袋からはとても美味おいしそうなにおいがただよってくる。つまみ食いしたい衝動しょうどうをどうにかおさんで、ヘンリーは家路いえじいそいだ。

 来た時には気づかなかったが、町の中心は大きな石畳いしだたみの広場になっていた。そこから南に向かって町の東西とうざい分断ぶんだんするように大きな道が走っており、町の出口まで真っすぐ続いている。

 広場に目を向けると、鉄道てつどうえきが見えた。さらに向こうには小高こだかい丘があり、丘の上にはなんだか古めかしい建物がそびえ立っていた。まるで街を見下みおろすようなそれは、どうやらこの町の教会のようだ。

 探検たんけんはまた今度にして、今は早くこのサンドイッチを持って帰らなきゃ。

 少し急ぎながら歩き出したヘンリーは、しかし、小さな冒険心ぼうけんしんてきれなかった。来た道の二ブロック手前の路地ろじがってみたくなったのだ。

 まあ、方向さえ合っていれば家にはたどり着けるだろう。それに、もし行き止まりだったらUターンすればいい。ちょっとした事だけれど、そんなあそびが楽しかった。来た道にはなかった何かを見つけられるかもしれないし。

 ちょっと進んでいくと、途端とたん後悔こうかいねんき上がってきた。レンガづくりのかべはさまれた路地ろじは、だんだんせまくなってきて昼間なのに少し薄暗うすぐらくなってきた。

「戻ろうかな…」

 さっきまでの冒険心はすっかりりをひそめ、すっかり臆病風おくびょうかぜかれてしまった。それでもおっかなびっくりあゆみを進めるのは、帰る道と進む道、どっちが短いだろうかと迷っているからだ。

 レストランの裏口うらぐちだろうか、木箱きばこ乱雑らんざつみ上げられていて、その上に一匹の黒猫くろねこ寝転ねころんでいるのが見えた。

 ヘンリーはどういうわけか、その真っ黒な猫から目がはなせなくなっていた。ただの黒ではなく、漆黒しっこくというのがしっくりくるような、の黒だった。

 黒猫もじっとこちらを見つめている。いつの間にか立ち上がっていた。

 ヘンリーはおどろかせないようにと少し遠巻とおまきに、といってもせまい路地なのでほとんど意味はなかったけれど、反対側の壁に沿うようにして通り過ぎた。

 気のせいか、黒猫は横を通るときに怪訝けげんな顔をしたように見えた。


 そこから先は思ったよりも順調じゅんちょうに進んだ。すぐに路地を抜け、少し大きな通りに出たのだ。

 頭の中で地図ちずを広げてみる。さっき、ここを抜けたから、きっと左にがれば――ほら、イチョウの木が見えた。ヘンリーは少し得意とくいになって足取あしどりもかろやかになる。

 ずいぶん遠回とおまわりをしたけれど、大丈夫だいじょうぶだろうか。

 まだ見慣みなれない我が家に入る。

「ただいま」

 すぐにマリーがやってきた。

「ずいぶんおそかったのね。まよったりしなかった?」

「大丈夫。ほら、美味おいしそうなサンドイッチだよ」

「お、うまそうな匂いだ。これは期待できそうだぞ」

 いつの間にかダニエルもとなりに立っていて、紙袋にはなを近づけている。

「それじゃ、お昼にしましょう。すぐにお茶をれるわね」

 サンドイッチは、思っていた以上に美味しくて、あのベーカリーはヘンリーのお気に入りの一つになった。

 口いっぱいに頬張りながら、ヘンリーは帰り道に見かけた黒猫の事を思い出していた。

 あんな真っ黒な猫、見たことないや。今度見かけたら、このハムをひとかけらあげてもいいかな。

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