弾く……

整っていく息遣い躊躇する。

けれど、早くそうしたいとも願う。

自分の部屋の中でこんなに緊張するなんていつぶりだろう。

ちっちゃかった頃は毎日していたことなのに、こんなふうになるまで変わってしまったんだな。

無邪気に、意気揚々と。めくるというよりは、引っ剥がしていた黒いカバー。

嬉しいことがあったとき、悲しいことがあったとき、なにもなかったとき。

どんな時だろうと、この前に立つとドキドキした。


「よかった」

自分の声に安心する。


鍵盤蓋を上げるとカポンと音がする。

自然に手を伸ばしていたことに驚いて、急いで止める。

変わらず真っ白なままの鍵盤を見てしまったからだ。


きっとあの頃のようには鳴らない。


緊張が後悔に変わる。

安心は冷静を生んだ。


「音、揃ってないよね」


調律。

三年以上弾いていないピアノが、都合よくいつでも万全の音を鳴らしてくれるなずがない。

そもそも、私自身があの時のように弾けるのかも分からない。

毎日弾いていたあの頃は、気づいたら何時間でも弾いていたこともあって、調律は三ヶ月に一度という、普通よりもかなり短い期間でしてもらっていた。


お父さんに。


「なんにもわかんなくなっちゃったよ、お父さん」


このピアノが今どんな状態で、自分がどれだけ弾けるのか。

どうして作曲するなんていったのか。


昨日書いた曲は、夢中で、音にしないまま、頭に浮かんだだけの音を拾って音符として書き示しただけ。

そんなものを晴歌に渡してしまった。

曲を作るといったからには作る。でも、それは晴歌の詞があったからであって、そうでもなければ、もしかしたら私は逃げていたかもしれない。今日みたいに……弾けないといって。


「最悪……」


今だって。

弾こう、と決心したにもかかわらず、ただ調律が出来ていない、あの頃のように弾けるか分からないというだけで、挫けてしまっている。

イヤーマフもそう。

世界の音に負けて、死のうと思っても到底そんなこともできないことも。

脆弱だ。

いや、ここまで来ても、そんな難しい言葉で武装してしまうほど私は弱い。弱すぎるんだ。


立っていられない。

ううん、立っていられないならすぐに座ればいいのにそんなこともできない。

指先に力が入らなくなるもの当然だ。

腕も上がらない。上がったところでその状態を維持できそうもない。

だめ。

こんなところにまできて……いまさら。




『いいかい朱音。

 ピアノは、今の気持で弾けばいいんだよ』


うん! だからいっつも元気に弾いてるよ!


『ははは。うん、それでいい! 今はね』


今は?


『そうだよ。あのね朱音。もしこの先、朱音に嫌なことがあって、悲しくなったり、寂しくなったりした時、そんなときでもピアノが弾きたくなったらどうする?』


うーん……あ! 元気になるように弾く!


『あはははっ! それはいい!』


でも大丈夫だよ! あたし、いつも弾く前はドキドキするから!


『そっか、朱音はすごいね!』


えへへ~。


『だから聴いて。それでももし、もしね、そうなったのならそのときは……』




なんて言ったんだっけ、あの時。お父さんは。

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