時の迷路に『本の迷路』が出現した

仲瀬 充

時の迷路に『本の迷路』が出現した

男の名前は黒川太郎。

職業は推理小説作家。

代表作は『野良猫ワトソンシリーズ』

知る人ぞ知る作品で知らない人の方が圧倒的に多い。

では50歳目前の売れていない作家がどうして生活できるのか。

内助の功あってのことなのだが今後はそうはいかない。

というのは、つい先日奥さんが不慮の事故で亡くなってしまったのだ。

以下しばらく本人の語りに耳を傾けよう。


・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・


「鮎美、買い物のついでに書店で文学史の年表を買ってきてくれ。今書いてるやつに必要なんだ」

「どんなの?」

「小冊子程度のものでいい」

リビングの柱時計の下、電話機の横に小さなホワイトボードが吊るしてある。

買い物リストの「たまねぎ、人参、ルー」の横に鮎美は「年表」と書き加えた。

そしてやりかけの家事を終えて家を出た。


虫の知らせか、鮎美が買い物に出た後いやに帰りが遅いなと胸騒ぎがして執筆の手が止まった。

その時には鮎美は既に病院の霊安室に横たわっていたのだったが。

買い物に行く途中でひき逃げに遭い、犯人も慌てて逃走したらしく自損事故で死亡。

それがわずか1週間前のことだ。

初七日しょなのかを終えて夜中に一人酒をあおりながらホワイトボードの買い物リストに目をやる。

消さずにそのままにしているのは鮎美の形見のように思われるからだ。

ん?「年表」という字だけが赤い。

特に大事という意味の配慮だったのだろうか。

しかしボードの溝に赤のマーカーはなかったと思うのだが?

年代ものの柱時計がボーンとひとつ鳴って午前1時を知らせる。

酔った勢いで行ってみよう、これまではどうしても足が向かなかった場所へ。

深夜には人っ子一人通らない住宅街の道。

ここだ。

電柱のこすれた跡がまだ生々しい。

鮎美をはねた車がはずみで接触した跡だろう。


長いこと合掌して家に戻ろうとした時、電柱の脇から直角に入る細い路地が気になった。

こんな道があったか? 近所なのに記憶がない。

路地は少し先で行き止まりのようだ。

突き当たりの建物の軒先に赤い電球が灯っている。

交番?

行ってみると木製の看板に『本の迷路』と書いてある。

こんなところでこんな深夜に本屋が営業中?

引き戸を開けると店内は迷路どころか10坪にも満たない狭さだ。

いくつかの書棚とレジがわりに昔ふうの帳場ちょうばがあるだけだ。

ベストセラーの棚に好きな歴史小説家の新刊書が立っている。

『八犬伝連続殺人事件』、この作家の推理小説は初めて目にする。

「これをください。それと文学史の年表はありませんか?」

帳場には老人があぐらをかいて座っている。

ひげと眉毛が白くて長い、まるで仙人だ。

「何する? 何年くらいか?」

日本語が変だ、中国人なのかも。

どんな目的でどれくらいの期間使用するのかという意味か?

保存に耐える豪華版は必要ない。

「長くは使いません、ちょっと参考にするだけなんで薄いのでいいんですが」

パンフレット状の年表と本1冊で老人は2000円を請求した。

消費税は内税? まあこっちが気にすることはないか。


帰宅してさっそく買ったばかりの本を手に取った。

驚いた、1ページ目から引き込まれて酔いがふっとんだ。

読み終わってため息をついた時には夜が明けていた。

歴史小説家が書いた推理小説がこれほどの出来とは。

ベッドに入って昼過ぎに眠りから覚めたが気分が重い。

寝不足ではなくあの本のせいだ。

推理小説一筋でやってきた自分の30年近くは何だったのだ。

つくづく自分の才能のなさを思い知らされた。


テレビをつけるとちょうどその作家がアナウンサーと対談していた。

「もう歴史小説はやりつくした感があってね、引退していい年だが新しい分野に手を出してみようかと思ってるんだ」

「どんなジャンルに挑戦なさるんですか?」

「私はミステリーが好きなんだ。推理小説とファンタジーを融合させれば面白いんじゃないかな」

「赤川次郎先生の三毛猫ホームズシリーズのようなものですか?」

「ああいった系統もいいね、僕の専門の歴史も絡めて書いてみたい」

犬の世界を舞台にした時代ものの推理小説を既に書いているのに?

僕は読み終えた『八犬伝連続殺人事件』を思い起こして変な気がした。


テレビを消してトーストをかじりながら何気なくホワイトボードを見て驚いた。

おかしい! 買い物リストの文字が全て黒い。

昨夜、正確には今日の午前1時だが「年表」は赤字じゃなかったか?

そういえば本屋で年表を買ったなと思い出し、手に取ってパラパラとめくってみた。

歴史年表の形式で明治時代以降の文学作品と作者名がずらりと並んでいる。

うっ! 飲み込みかけていたトーストが喉につかえた。

今年は令和3年なのに年表の最後が3年後の令和6年になっている!

そしてそして!

2年後の令和5年上半期ベストセラーの欄に『八犬伝連続殺人事件』が!

急いでベッド上の『八犬伝連続殺人事件』を手に取って末尾を開く。

奥付おくづけに記されている出版年月日は……2年後の令和5年1月10日!


僕は本を閉じてベッドに寝転ぶと鮎美が好きだった歌を歌った。

頭が混乱した時はとりあえず関係のないことで気を紛らわせるに限る。

「いつもブレーキランプ5回点滅 ア・イ・シ・テ・ルのサイン~」

鮎美が気に入っていたフレーズで続きも覚えている。

「きっと何年たってもこうして変わらぬ気持ちで~」

もう大丈夫、胸の動悸は収まった、あの本屋に行ってみよう。

家を出て昼下がりの通りを歩いて行くとまた動悸が高まった、あの路地がない!

急いで帰宅してパソコンの画面に付近の地図を表示した。

やはりそんな路地は存在しない。

どういうことだ! どういうことなんだ?

頭をフル回転させる。

『本の迷路』書店があった路地は「時の迷路」だったのでは?

「何年くらいか?」は「何年先まで載っている年表か?」の意味だったのでは?

「長くは使いません」と僕が言ったから年表は3年先で終わっているのでは?


勝手につじつまを合わせた僕の頭にある考えがひらめいた。

それは興奮で背筋がゾクゾクするような思いつきだった。

すぐにパソコンに『八犬伝連続殺人事件』を入力し始めた。

気が引けるので登場人物の名前だけは自分で考えたものに差し替えながら。

2日後、プリントアウトした原稿をなじみの出版社に持ち込んだ。

「頼まれてる『推理小説百年の歩み』とは別にこんなものも書いてみたんだけど」

編集長は渋々といった表情で読み始めたが読み進むにつれて目つきが鋭くなった。

「黒川先生、一体どうしたんです? これまでのものとは全然違うじゃないですか。これ、いけますよ!」

これまでのものはいけないのか……。

「女房の死をきっかけに思い切って作風を変えてみたんだ」


黒川太郎作『八犬伝連続殺人事件』は増刷につぐ増刷でベストセラーになった。

波及効果で『野良猫ワトソンシリーズ』も売れたのはよかったがひやひやする問題も出てきた。

まず、僕の旧作とは文体が余りにも違うので盗作を疑う声があがった。

それともう一つ、『八犬伝連続殺人事件』の本来の作者が引退した。

僕が書いた?『八犬伝連続殺人事件』の出来ばえに自分の出る幕はないと悟ったとのコメントを残して。


しかしそんな問題を気にする暇もないほど僕の生活は一変した。

収入が飛躍的に増えたのはもちろん、テレビ出演や講演で外出することも多くなった。

多忙のうちに1年が過ぎたが家で一人になる時間は鮎美のいない虚しさに沈んだ。

家で飲む時も酒の量が増えた。

あの時自分が年表を買ってきてくれと頼みさえしなかったなら。

いや、どうせ夕食のカレーの買い物に出かけたはずだから同じことだ。

いやいや、それでも本屋に回らねばならないからあの時間に家を出たのだ。

そんなことばかり考えてしまう。

ボーンと旧式の柱時計が午前1時を打った。

音につられて顔を上げるとホワイトボードが目に入った。

まただ、「年表」の字が赤い!

慌ててサンダルをつっかけて深夜の通りに出た。

あった! 時の迷路が、そして軒下に赤い電球が灯る『本の迷路』が。


主人に下心を見透かされてはならない。

僕は狭い店内をゆっくりと見て回った。

帳場の横の壁に掛け軸が下がっていて「幻」という一字が大きく書かれている。

崩し字の署名は「ちん 幻斎げんさい」と読めた。

「見事な書ですね」

主人の頬が緩んだ。

「わし書いた。この世は全て幻。今日も年表か? 何年先か?」

しめた、覚えていてくれた。

「できれば50年」

「ならんならん!」

とたんに表情も声も厳しくなった。

「では30年」

「体がもたん!」

意味が分からないが拒否されているのは分かる。

「10年では?」

主人が頷くと僕はベストセラーの棚にあった本も一緒に紙袋に入れてもらった。

年表と本で今回も2000円。

主人の気が変わらないうちに僕はそそくさと店を出た。


帰り着いてまずホワイトボードに目をやった。

全て黒字に戻っている、不思議なこともあるものだ。

次に、確かめもせずに買った本を紙袋から取り出す。

タイトルは『それでも離さない』

新進気鋭の作家のBLもののようだ。

10年先までの年表と照らし合わせる。

よしよし、これは5年後のベストセラーだ。

本屋の主人相手に僕がなるべく先までの年表をほしがったのにはわけがある。

一つは遠い未来のベストセラーはどんなものか単純に知りたかった。

もう一つは前回の歴史小説家の引退だ。

本来の作者にダメージを与えたくない。

今回の作品は5年後のものだから現時点では作家本人もまだ構想を練っていないだろう。


黒川太郎作『それでも離さない』は大ヒットした。

『八犬伝連続殺人事件』と今回の作品はジャンルも文体も違う。

書評は僕の変幻自在な文才を称賛し前回の盗作疑惑も解消された。

新たな印税が入るようになって生活はますます贅沢になった。

夜は出版社の連中を連れて頻繁にネオンのちまたに繰り出した。

こちらの懐を当てにしての誘いも多い。

今夜くらいは外出せず鮎美と差し向かいで過ごそう。

部屋の照明を少し落としテーブルにワイングラス二つと鮎美の遺影。

グラスにワインを注いで乾杯。

「こんないい酒、前はとても飲めなかったよな、鮎美」

生活を切り詰めて暮らしていた日々が脳裏によみがえる。

病気がちの母親と二人でずっと苦労してきたのに結婚してからも貧乏暮らしだった。

それでも僕は鮎美がいるだけで贅沢ができる今よりよほど幸せだった。

「いつもブレーキランプ5回点滅 ア・イ・シ・テ・ルのサイン~」

つぶやくように漏れ出た歌声が震える。

涙でにじむ視界がぼうっと赤くなった。

ん? ホワイトボードの「年表」の文字が光っている。

柱時計が一つ鳴った。


やはり時の迷路が出現していた。

鮎美の好きだった歌がスイッチになったのか。

とすれば鮎美の霊はまだこの辺りをさまよっているのだろうか。

僕は赤い電球の灯る『本の迷路』の入口の戸を開けた。

「また来たか」

そっけない声で言って主人は僕をじろりと見た。

他人のベストセラーを横取りしたのがバレたか?

まるで万引きを警戒するかのように主人は僕から目を離さない。

なんとか機嫌を直してもらわねば。

掛け軸は前回ほめた、何かないか? 機嫌を取るものが何かないか?

きょろきょろ店内を見回すうちに主人と目が合ってしまった。

「ご主人の見事な眉とひげ、まるで仙人みたいですね」

焦った僕はとってつけたようなお世辞を口走ってしまった。

しくじったか?

恐る恐る顔色をうかがうと主人は長いあご髭を片手でしごきながら言った。

「一人でも仙人!」

そしてもう片方の手の指を2本僕に向かって突き出した。

僕はわけが分からないまま黙って財布から千円札を2枚取り出して渡した。

主人も無言で年表と1冊の本を紙袋に入れた。


「あーっ!」

家に帰り着くとホワイトボードは全て黒字に戻っていた。

しかし声を上げた理由はそのことではない。

「一人でも仙人!」

あれはたぶん主人のシャレだったのだ!

そして僕が代金の請求だと思った2本の指、あれも決めポーズのVサインだったのでは?

今ごろ気づくとはなんといううかつさだ。

しかしそれはそれとして僕は期待に胸を膨らませて紙袋を開けた。

今回の年表は前回よりさらに10年先のもの。

そしてベストセラー本は遠距離恋愛の物語だ。

作者の名前は聞いたことがない。

おそらく現在はデビューもしていないのだろう。

僕は安心して自作として出版社に原稿を持ち込んだ。


今回の作品はこれまでで最高のセールスを記録した。

映画化も決定しキャストの有名な俳優たちと食事をしたりした。

名声はいよいよ高まり僕の人生は華やかになる一方だ。

しかし反対に鮎美のいない空虚感は埋めようもなく深まっていく。

今では高校生のころに鮎美とやり取りしていた手紙の束を読むのが独酌どくしゃくの慰めだ。

鮎美からの最初の手紙には『青い湖』と題した詩がつづられていた。


  洞窟の奥深くに澄みきった地底湖があるように

  私の胸の奥底にすべてが青く染まる湖がある


  私の目に触れるものはみな哀しみを帯びて

  波紋も残さず胸底の青い湖に沈んでゆく

  そうしてようやく哀しみは哀しむことをやめる


  哀しみが静寂のうちに眠りにつくとき

私自身も青い湖に溶けてゆく


「秋の夕暮れは寂しくてたまりません。よろしければ返事をください」

詩に続けてそう書かれてあった。

後で聞き知ったことだがこの頃に両親が離婚して鮎美は母一人子一人になっていた。

それで鮎美も働きに出て高校は定時制に通うようにしたということだった。

そんな境遇もあっての寂しさだったのだろうが今は僕が寂しくてたまらないよ、鮎美。

トイレに立つついでに洗面所で涙に濡れた顔を洗おう。

ついつい深酒になるせいか最近は体調がすぐれない。

洗った顔をタオルで拭きながら洗面所の鏡に映った自分の顔を見てぞっとした。

50過ぎの顔ではない、肌の張りが失われてしまってどうみても老人だ。

「早死にも悪くはないか……」

白髪交じりの無精ひげを撫でながら呟く。

鮎美に早く会えるならそれにこしたことはない。


自暴自棄にも似た飲み方を続けていたある日の深夜1時ごろのこと。

外で飲んでの帰宅途中、具合が悪くなってタクシーを降りた。

電柱に片手をついて体を支えながら側溝に吐いた。

吐き気がおさまって辺りを見回すと鮎美の事故現場だった。

電柱に背中をもたせかけて目を閉じると鮎美の気配を感じた。

「いつもブレーキランプ5回点滅 ア・イ・シ・テ・ルのサイン~」

低い声で歌いながら目を開けると、……時の迷路が口を開けていた。


「この前は失礼しました」

「ああ、お前さんがそうか。兄から話は聞いとる」

「え?」

「わしは陳幻斎の双子の弟だ」

見た目はそっくりだが、なるほど声と言葉づかいは明らかに別人だ。

「わしは養子に出されたので兄とは姓が違うが」

そう言って壁の掛け軸を指さした。

「空」という字が大きく書かれており、左下に「空 心斎」と署名がある。

そらですか、いいですねえ」

「この字もわしの名前も『くう』と読む。色即是空しきそくぜくう 空即是色くうそくぜしき、分かるか? 存在は全て流動的ということだ。わしやお前も、この世やあの世も。う、臭い!」

「すみません、飲みすぎてしまって。ところでお兄様は?」

「修行のやり直しに蓬莱山ほうらいさんに帰った。会心かいしん諧謔かいぎゃくが客に通じなかったとひどくしょげておった」

まずい、話題を変えねば!

「あのう、さっきのお話によればあの世の人間に会えるということは?」

「流動する時間を行き来すれば可能だ」

僕は急に嬉しくなった。

「じゃ僕の死んだ妻にこの路地で出くわすこともありうるんですね?」

「もちろんだがこの店はあいにく今日で閉店だ。この路地ももう人目に触れることはない」

僕は急に悲しくなった。

すると頼んでいないのにくう心斎しんさいさんが僕に年表を差し出した。

「これが欲しいんだろう? 5年後までの最新版だ。これで最後だ、無料でよい」

「あのう、ベストセラー本はないんですか?」

「今度くらいお前が自分で書け。もう店じまいの時間だ、帰れ」


・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・


黒田太郎本人の語りは以上にとどめよう。

ここからは後日譚ごじつたんを記す。


空心斎は黒川を追い立てると後ろを向いて手招きをした。

店の奥から出てきたのは黒川の事故死した妻、鮎美であった。

「どうだ、久しぶりに見た旦那の感想は?」

「老けこんでいてびっくりしました」

「そりゃ当たり前だ。未来の年表を何度か渡したんだからその年数分だけ年を取る理屈だ」

「では夫の寿命は?」

「もうすぐだ」

「悲しいような嬉しいような……」

「幸不幸は生きた長さではない。旦那は作家としての名声を手に入れもうすぐあんたにも会えるのだから悔いはなかろうよ。あんたももう成仏しなさい、地縛霊として留まることはない。では店を閉めよう、外の灯りを消してくれ」

鮎美は入口の戸を少し開けて外を見ながら壁のスイッチに指をかけた。


「何てことだ、今日で閉店とは……」

黒川は『本の迷路』を出て酔いの残る足取りでふらふらと歩いた。

そして路地の入口で名残り惜しそうに振り返った。

ちょうどその時、店の戸が少し開いた。

黒いシルエットの人影が見える。

「空心斎さんかな?」

黒川が立ち止まって見ていると軒下の赤い電球がチカチカと5回点滅して消えた。


黒川太郎はその後空心斎の予告どおりひと月もたたずに死んだ。

身寄りがないため出版社が社葬として葬儀を営むことになった。

以下は通夜つやに集まった社員たちの会話である。


「急性心不全っていうけど老衰みたいなもんだな」

「精魂を傾けての執筆だったんだろう。一作ごとに老けこんでいかれたからなあ」

「次回作はパソコンにタイトルだけが入力されていたらしいぜ」

「ほう、その遺作のタイトルは?」

「『青い湖』だ。奥様との結婚前の往復書簡がたくさんデスクにあったそうだからそれをまとめた純愛物語を構想なさってたのかな」


「それは初耳だ。先生ご夫婦は手紙のやりとりをされてたのか?」

「先生が高校生のころ奥様は同じ高校の定時制夜間部の生徒さんだったんだ。教室は共同で使うから奥様がある時手紙を書いて机の中に入れたのが始まりだそうだ」

「よく知ってるな、さすがに黒川先生の直属担当者だ。だけど手紙を忍ばせた机に昼間誰が座るか分からないんじゃないか?」

「教卓に置いてある座席表で黒川太郎という名前の男子生徒ということは分かっただろうよ」


「君たち、そんなことより妙なことがあってね。遺品の中に文学史の年表があるんだ」

「そりゃ作家たる者、年表も必要だろう」

「それが普通のじゃなくて5年後までの文学史年表なんだ。先生の創作なんだろうけどそれによると『青い湖』は今年のベストセラーになってる」

「面白いな。その架空の創作年表と往復書簡集を抱き合わせて出版すればいけるんじゃないか?」


「おいおい、亡くなられたというにまだ先生を使って商売するつもりか? これまでさんざんお世話になったろう」

「確かにな。酒もずいぶん飲ませてもらった」

「酒と言えば先生の飲み方は豪快というか、まるでわれとわが命を削っているみたいだったな」

「早死にしたのも本望だったんじゃないか? 奥様に早く会いたい会いたいっておっしゃっておられたし」


「なあみんな、どうだろう。その奥様のもとに先生は明日煙になって昇って行かれる。往復書簡を棺の中に」

「それがいい、そうしよう」

「そうだな。せっかくの年表とは矛盾することになってしまうけど」

「個人的な年表だから矛盾はしないさ。先生と奥様にとって往復書簡集は最高のベストセラーだろうよ」

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