汚天使

針野米

1


 見上げた灰色の空はもう限界だった。昨日は一日中雨だったのに、雲はどこからか水分を補給して、またこの街にやってきたらしい。もう少しで雨か雪が降ってきそうだ。寒い。私のピンクの手袋は今も家にある。こんな日に限って。

 悴んだ手がひりひりと痛む。近くのコンビニでカイロを買うか、ポケットに手を入れるなりすればこの痛みは和らぐのだろう。

 だけど…… だけど、今はそうしたくない。痛いのが気持ちいいとか、そういう趣味じゃなくて、これは自己防衛だ。

 次から次に嫌なことが起きる日は、それにむやみに抗わずに身を委ねて、浸ってしまった方がいい。そういう可哀想な自分を、遠く離れた場所から眺めた時に感じる切なさみたいな感情は、こういう時に1番よく効く薬だと、そう思っているから。

 多分これはあまり良くないことなんだろう。薬といってもダメな方の薬だ。そんなことはずっと前から分かってた。分かってはいるけど、こうするしかないのだから仕方がない。薬物依存から抜け出すのはきっとものすごく大変なのだろうな、と思う。死にたいなぁ。死にたいという言葉、概念はひんやりした質感を持っているのに、心の中で唱えるとあたたかくなるのはなぜだろう。

 通常の理に背く背徳感からだろうか。もしそうだとしたらわたしはマゾヒストだ。

 でも私はどちらかと言えば網タイツをはいてムチを振るう側でありたいと思っているので、そっちの才能は持ってないと思う。

 隣に誰かが居てくれれば、ちょっとは違うんじゃないかと時々考えることがある。先生でも、親でも、友達でもない誰か。叱るんじゃなくて、同情するでもなくて、ただ一緒に同じことをして、同じものを見て、同じ思いを共有する。そんな誰かが欲しい。我儘だなぁ。

 いつもの思考を断ち切って、頭をぶんぶん振って、切り替える。歩みを止めないまま、灰色の空をまた見上げる。肩が痛い。と、急に平衡感覚が狂ったみたいになった。躓いたのだ。気づいた時にはもう地面が目の前に!

 咄嗟に受身をした両手が、まるで唐辛子を塗り込んだかのように遅れてじんじん痺れた。痛い。しかも、運悪くそこはまぁまぁな深度の濁った水溜りだった。冷たい水の感触が、侵してはいけない布を遠慮なく侵食していくのを感じた。うう、最悪だ。でも、超絶気持ち悪いわけじゃないなぁと思った。そう思った自分にちょっとギョッとする。しばらく私は、水に浸りながらぼーっとしていた。我に還ったのは何分か経過してからだった。つめたい小雨が降り出していた。

 立ち上がってスカートの先だけでもぎゅううと絞る。雨が降っているのに何故か太陽が顔を出して、そのことがなぜだか無性に腹立たしくて。私は復活したかっこいいヒーローみたいなそぶりで立ち上がった。行動と心は、必ずしも一致しない。まだじんじん痛む両手を合わせながら、小雨の降る通りを下っていく。太陽はすぐ隠れてしまった。

 

 わたしの心があまり良くない方に汚されてしまったのは、高校に入ったばかり、その頃からだったと思う。

 その頃の私は、死ぬことを異常なくらい恐れていた。

 朝起きた直後から、ご飯を食べている時も、鮨詰めの通勤電車に乗っている時も、授業中も、休み時間も、お風呂に入っている時も。もちろん寝る前も。色々なことを想像しては、怖くなる、これを繰り返していた。

 前から死ぬことは受け入れていたつもりだったし、死なないことの方がずっと怖いじゃんか、なんて思っていたのだけれど、気温が上がりかけたある春の夜に、この自分、今存在しているこの自分が死ぬのだ、としっかり改めて認識してから、想像を絶する恐怖と絶望に襲われた。自分のこととして捉えててしまったのだ。日常生活もままならなくなった。世界を構成する色の数が半分になってしまったみたいだった。

 ずうっと死を恐れていると、何故だか今度は死にたくてたまらなくなった。思考の流れは覚えていない。そうなってから本当の意味で私の心は汚れてしまったのかもしれない。

 そうして二年が過ぎ、私はもう、三年生だ。


 小雨はだんだん強くなってきた。小雨じゃない、これは大雨だ。アーケードがあったけど、無視。制服をどんどん濡らしながら、速度は変えずに歩く。

 着衣水泳をしたみたいに、制服が重くなる。気持ち悪いのが少し気持ちいい。ちょっとこれはやばいかもしれない。変態みたいだ。

 いつもパンを買うパン屋さんの前だけは、小走りになった。なんだかこの姿をお店のおばちゃんに見せたくはなかった。聞かれると、正直に答えてしまいそうだったから。

 ライトをつけた車が目立ち始める。夜の入り口。

 大きなラブホテルの真正面にある交差点、通称例の信号を気持ち早歩きで通り過ぎる。

「ねぇ」

 制服が冷たい。重い。

「ねぇってば。無視しないでよ。びしょ濡れじゃん」

 話しかけられたことに気づかなかった。思わず声が漏れる。

「え」

そこにはわたしと同じ制服を着た女の子が立っている。暖かな日光が雲の間から降り注いだ。

「早く着替えないと風邪ひいちゃうよ」

「あ、」

「あれ?制服同じだ、3年?」

「う、うん」

「偶然だねぇ、私もだよ!」

 私は多少人見知りをするきらいがある。 

「は、はい」

 多少じゃないな、これは重度のコミュ障だ。初対面の人にフランクに話しかけられてもこちらは敬語になってしまう。いい人なんだろうなぁ。

 まぁ、私を心配して声をかけてくれてるということは、聖人か拗らせた物好きのどちらかなのだけれど。女の子は私の服の汚れているのを見て、目をぱちぱちさせた。

「転んだりしたの?大丈夫?」

「大丈夫、です……」

「お、2単語だ」

「え?」

「や、気にしないで。怪我とかない?泥で汚れちゃってるよ」

 もう一度その子を見る 肩にかかる髪がよく似合っていた。こういう人を可愛いっていうんだろうな。ぼんやりそんなことを考える。

「可愛い」

「え?」

 数秒経ってから、思考が言語化されて口を易々と突破し外に転がり出てしまったことを私は理解した。

「あっ、怪我!ない、です」

「…… ほんと?ならよかったよ。これでちょっとでも拭きなよ」

 彼女は鞄をゴソゴソやって、ふわふわのタオルを取り出して、そいつを私にふわりとかけた。雲のような感触。

「あ、ありがとうございます」

 流石の私もお礼を忘れることはない。

「ん、良いのですよ」

 その子は変な言い方をした。名前を聞きたい。勇気、勇気だ!

「名前教えて、欲しいです」

「ひなでいいよ。あと敬語もやめよーよ、同じ3年なんだし」

 それはハードルが高いなぁと思う。あ、私も名乗らなきゃだ。

「わたし、澄花」

「澄花か!いいね」

「あ、はい」

 何がよかったのかはよくわからないけど、多分失敗はしてないだろう。

 私の新学期初めての同級生との会話はここで幕を閉じた。あっけなかった。私はその場に立ち尽くした。太陽があったかかった。

 なんで雨なのに歩いてたのって聞かれなくってよかったと思った。

 嫌なことで埋め尽くしたかった、なんて馬鹿正直に言っちゃったら流石にあの優しそうな子も、引いてしまうに違いない。ひな、ひな。どういう字なのだろうか。陽菜、かな。

 嫌なことに浸るのも良いけど、最後にちょっと良いことがある一日も案外悪くないのかも、と少し思った。けれどそれは私の中の汚れた私によって一瞬で否定された。

 最後にいいことがあるよりは全部嫌なことの方が逆に過ごしやすい。心が満たされる。少しの幸運は蛇足だ。

 いいことにはあまり慣れていないから、動揺してしてまう。

 それにしてもあの子の髪、赤っぽくて綺麗だったなぁ。特に香水とかの匂いはしなかったけど、それが逆に良い。はぁ。


帰ったらテスト勉強をしよう。精力的に。

 

 

   

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