腐った梅干し、こぼれかけの梅

堕なの。

腐った梅干し、こぼれかけの梅

 酸っぱい匂いが二つ。眼の前の梅からした。一つは所謂梅干しの、誰もが想像するような匂い。そしてもう一つは、不快を催す腐敗臭。

 腐った梅干し特有の匂いが鼻を刺して、顔をしかめた。腐ってしまっては食べられない。腹痛・下痢、吐き気・嘔吐、そして体の痺れ。食べられたものではないと、皿を傾けてゴミ箱にポイと。しようとしたが後ろから手を止められた。

「梅干し捨てんの?」

「腐っていますので」

 開封後に冷蔵庫に入れ忘れていたのが祟ったのだろう梅干しのこの匂いを、感じていないはずもないだろうに、我が主は私の手を後ろから止められた。

「くれ」

「え?」

 気づいたときにはもう遅くて、皿の上から一つ摘んだ梅干しは主様の口に吸い込まれていった。なぜだとか、どういうことだとか、混乱した頭はそんな言葉で満ちた。

「酸っぺ」

 主様は舌をチロリと覗かせて、眉が寄った。頭が落ち着いてくれば、正常な思考が働く。

「吐き出してください。腐ってるんですよ!」

 主様は笑って、口に指を当てた。けして強くはないその体が、菌に侵されることを考えただけでも恐ろしい。

「もう飲んじゃった」

「吐くんですよ!」

 コップに水を注いで持ってきた。水を飲みすぎれば人は吐ける。錠剤が飲めなくて何度も何度も水を飲んだ結果私は吐いたため、多分主もこの方法で梅干しを吐き出せるはずだ。

「嫌だよ。梅は美しいだろう」

 それは理由になっていない気がする。見目と食べるかどうかとは別問題であろう。

「窓の外を見てご覧」

 窓の外にはこぼれかけの梅の花があった。もう鮮やかさは薄れていて、ただこぼれることを待つだけの存在だ。それがどうしたというのだろうか。

「美しいだろう」

「私には分かりません」

 主は笑みを深めた。そして窓の外に視線をやる。それは、窓の外の梅、の更に向こうを見ているような気がした。

「儚さと、気丈さと、寒さに耐え忍び咲かせた花の力強さ。美しいよ、とてもね」

 まあ、ギリギリ理解はできた。ようは、そのこぼれる寸前の不完全に見える梅と、腐ってしまった不完全な梅干しを重ねたのだろう。相変わらず変わった人だ。

「それでもやっぱり変ですよ」

「僕は芸術家だ。変わっていて何が悪い?」

 挑戦的で幼さを感じる笑み。度々主は自分の心のままに動いてしまう。インスピレーションを得るためとかで動いた後の後片付けをするのは私だというのに。

「それでも腐ったものを食べるのはおやめください。私が心配してしまいます」

「わかった、わかった」

 本当に分かっているのかと疑いたくなる軽い返事。この方のことだからまた繰り返すのだろうと未来の私を案じて、キッチンの掃除に戻ろうとした。

「次は梅を書こう。こぼれかけの梅だ」

 主は次の題材を見つけたらしい。こうしちゃいられないと部屋に駆けていく。画材を取りに行ったのだろう。おそらく一度で全ては運べないだろうから、私は別部屋に置いてある屋外用のイーゼルを探しに行った。

 前使ったときから数ヶ月たっているであろうそれは部屋の真ん中で埃を被っていた。道中手に取った雑巾で埃を払っていく。少し軋む、私の知らない頃からあるイーゼルはそれだけで存在感を主張している。

 綺麗になったら庭まで運ぶ。そこには先程とは違う、真剣な顔をした主が居た。近くにイーゼルを置けば、言葉もなしにキャンパスを置いて描き始める。私がこの人を尊敬し、また信頼している所以はここにあった。この人はいつも真剣に絵を描く人なのだ。

 キッチンに戻って、お茶を用意した。そして小さな机とお茶を持っていく。この状態ではいつ気づいてくれるか分からないが、喉が乾いたと気づいたときに飲んでくれれば良い。……気付くだろうか。

 暫くの間は主の姿が見える場所の掃除をすることにした。

「ふわぁ」

 欠伸を噛み殺す。五時間ほど経ったが飲み物に手をつける気配はない。熱中すると何も目に入らなくなる人なのだ。それに耐えかねて、この屋敷から一人、また一人と離れていった。いいとこのお坊っちゃん。その世話をするだけと思ってきた人には辛い部分も多かった。昔は傲岸不遜な部分もあり、よりキツかったように思う。

「お茶の時間ですよ」

 冬だからないとは思うが、脱水症状で倒れられても困るので声を掛けた。気づかれていないが一応耳には入れたので数時間後には何口か飲んでいるだろう。そう思って、今度こそキッチンの掃除に戻った。

 結局捨てられなかった腐った梅干し、一粒拾って残りはゴミ箱に捨てた。そして主のしたように、私も一口食べてみた。まずい。舌が痺れて、不快感にどうしたって顔が歪む。

 口から出して、ゴミ箱に捨てる。それでも口の中の味がなくなるわけではないので、大量の水で洗い流した。流して、流して、口の中が綺麗になったと思っても、気持ち悪さはなかなか抜けない。

「やっぱ食べるもんじゃないですよ」

 食べれば主の気持ちがわかるかもと思ったが、やはり無理だった。常人には理解できない。主は天才という部類に入るのだろうが、こちらからしてみれば心配事が増えるので天才だったら嬉しいという単純な思考にはなれない。

 やっぱり腐ったものを食べた主が心配になって、庭へと向かった。そこには地面に倒れた主と呪えるほどに美しい、こぼれかけの梅の絵があった。

「主!」

「……できたよ」

 そう言う主の顔は青白かった。お茶を見れば、一切減っていないことがわかる。

「お茶飲んでください」

「ん」

 主の体を起こさせ、口元にカップを持っていく。おそらく脱水症状だろう。そう思いたい。

「室内に行きますよ」

 主の体を抱き上げれば軽さが腕に伝わる。主は食が細いのだ。信じられないほどに。実家でどのような扱いを受けていたのかなど知らない。それでも、その扱いが良くなかったことくらいわ分かった。傲岸不遜だったのは自分の身を守るためなのだと。

「いい、一人で行けるから、絵を持ってきて」

「ダメです!」

「大丈夫だから。持って来い」

 私が命令に逆らえないことを知っていて、そんなことをおっしゃられた。

 急いで庭から絵を持ってきて主の部屋に向かった。ベッドに横たわる主は静かな吐息をたてて寝ていた。自室用のイーゼルに立てかける。心の底から怖いと思った。この黒く、赤い絵が、主を奪い去ってしまうのではないかと思った。まるで呪術具のような恐ろしさを感じた。

「どこにも行かないでくださいね」

 主に味方は居ないでしょうが、私にだって居ないのですから。そうでなければ、あの頃の主の横暴に耐えられたはずもございません。ただ、唯一なのです。ここが唯一の居場所なのです。だから、奪ってしまわないで。私が仕えるべき人を。

 祈ったところで変わらない。主はここから出られない。ここへの出入りが許されているのは私と、主の両親だけだ。主の両親はゴミみたいな人種で、こんな弱った姿の主を見られればまた主が傷つけられてしまう。だから守らなくてはいけない。

 主のために。私のために。

 ぱたんと音を立てて主の部屋を離れた。私は梅の木の下に戻って、画材を片付けながら木を見上げる。風に揺れるさまは不安定で、私の視界をピンク色に染める。血のようだと思った。別に実物は赤黒いわけではない。主の絵を見たせいだろうか、酷く、この木を切ってしまいたくなった。

 梅の木に寄っかかる。その温度を感じて、心まで冷たくなるようだ。花がこぼれて、私の頭の上に着地する。それを手のひらに乗せてみればまだ水を含んでいる。死んでないのだと、直感的に思った。そしてようやく理解した。主が美しいと言った意味を。

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腐った梅干し、こぼれかけの梅 堕なの。 @danano

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