第3話 中屋先生


 次の日の日曜日、孝一の家から帰宅した後、学校に向かった。

 昨日の曇り空がまた雨を降らすと思ったけど、雨期の合間に時折訪れる、眩しいくらいの晴天だった。


 校門を抜けると、開け放たれた教室の窓から幾つかの管楽器の音が聞こえてきた。

 玄関で靴を履き替えていると、体育館から重さの違う二種類のボールの音、笛の音。

 監督の忌引きで、昨日今日と休みになったうちのクラブ以外は今日も通常通りだ。

 階段を上がっていくと踊り場の窓が開いていて、グラウンドから元気のいい女子の声が聞こえる。気持ちよく球を打ち返す金属音も響いて、野球部の声が久しぶりの晴れ間のせいか、より溌剌と響いてくる。

 職員室に着き、ちょこっと顔だけで中を覗くと、数人の先生の姿があった。俺はそこに紺色のTシャツを着た中屋先生を見つけてホッとした。


 新任教師の中屋先生を俺はなぜだか信頼していた。多分みんな好きだと思う。

 身長がやたらとでかいことと、メガネを掛けているという以外は特別強い印象があるわけではない。

 面白いことを言ってみんなを笑わせるとか、人情味があるだとかそういうのではない。

 先生は一年生の担任で、本来はそんなに関りなど無いはずなのに、気が付くとみんなが気を許していた。年が近いせいかもしれないし、休日にふらっと試合を見に来てくれるからかもしれない。

 俺はこの人がいつもこの人なところが好きだった。

 気分にムラが無くて、先生という立場なのに居ても誰のことも緊張させないところも好きだった。

 ここ最近、先生が生徒の悩みをなんでも聞いてくれるという噂が広まっていて、俺は特に悩みも無かったけど、クラスメイトにくっついて何度か話を聞きに行ったことがある。

 大抵の場合、先生はとりたてて斬新なアドバイスをくれるわけではなかったし、かと言って適切なアドバイスをくれるわけでもなかった。

 ただ話を聞いて、その問題に対する向き合い方について軽く意見を言うくらいだ。

「あまり深刻にならないでいいと思うよ」とか、「まだ急いで決める事じゃないんじゃないかな」とか。本当にそのくらい。

 持ち込んだ悩みがそこまで深刻ではなかったせいかもしれないけど、ほとんど雑談で終始して、何も解決してはいないのに、何故かみんな納得して帰っていった。

 俺は常々、この人に悩み相談というものをしてみたいと思っていた。



 先生は俺を職員室横の進路相談室に入れてくれた。

 資料に囲まれたテーブルの方じゃなく、少しくたびれた革張りのソファーを勧められて、向かい合って座った。

「それで? 休日に来てまで聞いてもらいたい話とはなにかな高瀬くん」

 先生の芝居がかった言い方に、俺も胸を張って答えた。

「昨日、人前で勃起したんです」

 先生は真顔になって黙った。

「待って、コーヒー飲むね」

 ソファーから立ち上がった先生に、俺はしょうがないなと軽く首を振った。

「俺にもください」

 ハイハイと返事をした先生は、マグカップをもうひとつ取り出し、ドリップコーヒーをそれぞれのカップの縁にセットして、ポットにあるお湯を注いだ。

 ゴポゴポとポットの口がお湯を吐き出して、コーヒーのいい香りが漂う。開けられた窓の向こうで、また金属バットの高音が響いた。

「えーと、もう少し詳細をくれる?」

 言われて深くソファーに寄り掛かった。正直言うとかなり眠い。

「難しいから重要な部分だけ言ったのに」

 先生はドリップが終わった方のマグカップを俺にくれた。

「じゃあこれは相談じゃなくて報告ってこと?」

「うーん、それは相談だと思う」

 カップに唇を付けると、ふーっと湯気を吹き飛ばす。


 一晩経って、朝食を食べるころにはずいぶんと落ち着いていた。

 人間はどんなに驚く事があっても、動揺し続けるわけではないんだと学んだ。

 勃起が収まっていたせいかもしれないけど。

 キッチンには、いつものひらひらの服を着た孝一のお母さんがいた。

 真っ白いお皿にサラダやハムエッグが乗っていて、美味しそうな焼き立てのパンを笑顔で勧めてくれた。いつも通り美味しかった。

 ただおじさんの姿は無くて、あれから家に帰っていないのか、昨日のお母さんのように、どこかの部屋にいて静かにしているのかは分からなかった。

 半分になったメロンを手土産に持たされて家に帰った。

 帰ったものの、じっとはしていられなかった。こんな話を適切に聞いてくれるのはこの人しか思い浮かばなかった。

 

 戻ってきた先生を目で追う。

 先生はよいしょと向かいのソファーに座ってコーヒーを啜った。俺も倣って啜っていると、うーん、と先生の喉が唸った。

「その勃起が相談だって言うなら、もう少し詳細が無いと、よかったね、ともいけないぞ、とも言いようがない」

 確かにそうかと思って、手持ちの札から出せるものを選んだ。

「友人と思っている相手」

「あー、はいはい」

 なーんだというようなトーンに、俺はもう一枚手札を出さなければならなくなった。

「まさか! ていう相手! 向こうは気が付いてなかったけど、俺的には、ありえないだろっていうか……。だからちょっと、自分では混乱を抱えきれなくて……」

 しぼんでいく語尾をマグカップに押し付ける。

 初めて飲んだコーヒーはあまりおいしくはなかったけど、強い風味は心のもやもやを誤魔化してくれるような味だった。

「ありえないと思っていた友人で勃起ねえ。はーへーほーなるほどー」

 先生が浮かれたような音を出すので俺は俄然不安になった。

「教師って守秘義務ある?」

「まあ、ある程度は」

 先生の眉が上がる。

「これはある程度に入る?」

 顔をしかめて確認すると、先生は口角を上げて、「入れとくよ」と頷いた。

「……ありがとうございます」

 その軽さに不安はぬぐいきれなかったけれど、自分から言ったのだし、記憶は消せないし、納得するしかない。

「好きな人の前でって、別にばれてなかったんだろ?」

「好きじゃないよ! いや、友人としては好きだけど」

 先生はカップをテーブルに置くと、脚を組んでソファーの背もたれに長い両腕を広げた。視線を斜め上方に向けて、何かをイメージするような間を取る。

「一緒にいて、楽しい気持ち、勃起。かなりショートカット気味だけど、なくはない」

 俺はコーヒーを噴き出してしまった。

「けだものかよ!」

「抑え込むんだよ、理性で」

 先生は否定せず深く頷いた。

「けだものなのかよ……」

「人間は、理性と知性をもったけだものだ」

 はははと笑って先生はまたコーヒーに手を伸ばした。

「ああいやだ」

 カップを置いて頭を抱えた。

 一晩考える必要もなく、俺の頭は昨日の出来事を精査した。夜は長かった。

 俺は孝一の弱った姿に心を痛めたし、学校ではあんな悩みがあるなんて微塵も感じさせない孝一が、知られたのが俺でよかったと言ってくれて喜んだ。

 ここまでは多分、友人として。

 孝一の家庭の事情は問題だと思う。心配だし、これからも気にしてやりたい。ただ、抱きしめたいと思った時の友情では割り切れない感情と、そしてなにより俺にとっての大問題が男相手の勃起であることは間違いなかった。

 問題だけど、問題じゃないということも分かっている。そういう人間がいることは知っている。ただ自分がそうかもしれないということを見つめられない。実感もあまりない。さらに言えば孝一が弱さを見せたタイミングだったってのも、なんというか道徳的に問題がある気がするけど、そこまで細やかに考えるのは、中二の情緒コントロールの性能的に現時点では不可能だった。

 勃起した瞬間の驚きや、朝を迎えるまでの不安感は思い出せるけど、自分がそうなんだという部分についてはまだ判断するには材料が少ない感じがする。ただ……。

 ただ、と思った。

 俺は今まで一度も、女の子の姿やしぐさやでそうなったことは無かった。

 そうだったと認めると、違和感が生まれ始めた。

 胸の中が紺色のとろけたパズルみたいになって、ぐずぐずと崩れていく感じがする。

 急に心もとない気持ちになって、チラっと先生を視線で頼る。

 先生は黙る俺の様子を窺うでもなく、ゆっくりカップを傾けている。

 いい香りがするだけで、大して美味しくもない液体を体内に取り込む先生の姿を見ていると、何故か気持ちが落ち着いて、もう一度自分の中に意識を向けた。

 そうだ、きっと孝一がきっかけだったのはとても大きな意味がある。

 きっかけ、性の目覚め。

 性の目覚めだって。なんて恥ずかしいフレーズなんだろう。誰がこんな風に言い始めたんだ。

 性なんて言葉は脳内で発声するのでさえためらわれる。さっき先生にハッキリと勃起と言っておいて辻褄が合わないような気もするけど、多分きっと凄く眠たいせいだと思う。

 ともかく、今の俺にとって一番近い存在が孝一だ。この年頃の殆どの人が親兄弟よりも友人が大切だと思う。その一番の相手にああなったのは、やっぱりそういう事なのかも。

 ああ、動悸がしてくる。不安も湧いてくる。

 人間のけだものの部分で俺は男が好きなのかもしれない。

 俺はもう一度先生に目を向けた。

 今度は俺の視線に気が付いた先生が、そっと笑った。

 この人はなんて言うだろう。相手が孝一だと知ったら。

 さほど驚かない気もする。なるほどね、とか言ってただ頷いてくれるかもしれない。

 でも言えない。勇気がない。これっぽっちもない。

「面白いなあ高瀬は」

 のんきな調子の先生が微笑む。

「面白くないよ」

 むっとして言い返すと、先生はコーヒーを飲み干した。

 コト、とカップがテーブルに置かれる。

「普通こんな話は友達にするか、誰にもしない」

「……」

「ましてや学校の教師には言わない」

「そういう面白さのことか」

 先生は眉を上げてうんと頷いた。

「相手は誰だったんだ?」

 優しく囁くような声に思わず白状しそうになって、グッと耐えた。

「言わない」

「そこが一番大事なんだろ?」

 そうだね、そうだよ。お見通しだね、凄い。

「高瀬君、中学生は意味不明に勃起くらいする。そういう年頃だ。教科書のガンジーを見て勃起したやつを先生は知ってる」

 思わず声を上げて笑って、ハッとしてすぐに笑いをしまい込んだ。

「笑わせないでください」

「誤魔化しても先生は分かるぞ」

 くい、とわざとらしくメガネを持ち上げて言うので、俺は大袈裟に耳を塞いだ。

「どうせそのうち言うしかなくなる」

「なんで」

 先生はくすくすと笑って、またソファーに両腕を広げた。

「君には俺しかその話をする相手がいないから」

 確かにその通りだった。

「むかつく」

 先生が声を上げて笑った。



 結局コーヒーを半分だけ飲んで、大事な部分をうやむやにして、俺は学校を後にした。

 なんだかふらふらした。とにかく眠かった。

 大事な部分は話さなかったけど、先生はちゃんと大事な部分があることを分かってくれた。全部を話さないことをあの人は許してくれる。


 ――どうせそのうち言うしかなくなる。


 実際、もうあの話の続きをするのは先生しか見当たらない。俺がそうした。ああやって茶化しながら聞いてくれるのが一番心には負担がない。

 手札を全て開示しなくても、何も解決しなくても、人に話を聞いてもらうのは精神衛生を良い状態に保つのに有効なようだ。

「あーねむい」

 でも多分もっと大事なのは睡眠だ。

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