先生、おやすみなさい
石川獣
中学生
第1話 ハンノキ公園
カササギがギギギと鳴いた。
日曜の午前九時。
十月が半分ほど過ぎて、最近は寒い日が続いていた。けれど今日は目覚めた瞬間から明らかに暖かかった。
小春日和という季語を使うのは十一月からだとニュースでは言っていたけど、そう言いたくなるくらいのホッとする朗らかな朝だった。
陽気に誘われて近所の公園へ足を運んだ。
空は高く、薄い雲は青色に張り付いて動かない。
暖かいとはいっても、ここ数日と比べればということであって、秋であることには変わりない。パーカーは着てきて正解だった。
公園に入るとすぐに、繰り返される声が耳についた。
目を向けた先の大掛かりな遊具のそばで、淡いグリーンのキルトジャケットを着たおばあさんが、動き回る幼い男の子に何度も声を掛けている。
あいちゃんなのか、らいちゃんなのか聞き取れない。男の子に見えるから、らいちゃんかな。
夢中になって遊具に登るらいちゃんをおばあさんがおろおろと名前を呼んで見上げている。
活発そうな男の子をおばあさんが咄嗟の事故から守り切れるとは思えなかったけど、他に身内らしい大人は見当たらない。
俺は四つ並んだブランコのひとつに座って、揺れるともなく揺れながら、らいちゃんとおばあさんを見守った。
公園は地域の人たちにはハンノキ公園と呼ばれていたけど、正しくは三旗町六号公園だ。
それなりに大きな公園で、テニスコートが二面と、バスケットコートもある。数年前に遊具が新しくなって、子ども連れがよく来るようになったらしい。
俺の家からは五分もかからない距離だけど、この公園を含めて向こう側は泉小学校、含めずにこっち側が俺の通っていた緑小学校の学区で、小学生の頃は、家から徒歩で十分はかかる三旗町四号公園、通称桜公園まで行って遊んでいた。
間に五号公園もあったけど、小さな公園で遊具も少なく、どことなく寂れた雰囲気で子どもには人気が無かった。
愛称にハンノキと付けられている割に、この公園にハンノキは二本しか植えられていない。さして立派な木というわけでもない。
かつてこの公園沿いのどこかの家の子どもが、ハンノキの花粉にアレルギーを発症して、家の人が市に切らせたという噂話を聞いたことがある。でたらめな噂だと父さんは言っていた。何故二本残すのかと。俺もそう思う。
どうしてそんな噂が立ったのかは知る由もないけど、小学生の俺は、学区の違うハンノキ公園に立ち入ってはいけないという注意を、ふたつの学区がひとまとめになる中学生になるまで守っていた。我ながら律儀な子どもだ。
低学年らしい男の子が三人、すぐそこで走り回っている。
手にはそれぞれ派手な衣装の人形が握られていて、誰が敵で誰が味方なのかは分からない。きっとみんなヒーローなんだろうけど、少年たちは濁音を発しながら互いの人形をぶつけ合っている。
誰も倒れず、誰もめげない。次第に誰が一番複雑な効果音を生み出せるかが勝敗を分けそうな様相になって、俺は少し笑ってしまった。そしてふと、自分はあんな風に遊んだことがなかったなと思った。
ボール蹴りや鬼ごっこのように、走り回って遊ぶのは好きだったけど、ヒーローになりきって戦うのには興味が無かった。
周囲でごっこ遊びが始まると、気がそがれて一人でボールを蹴っていた。
幼少のいつ頃か、母さんの方のおじいちゃんが、戦隊シリーズの変身ギミックのおもちゃを送ってくれたことがあったけど、俺はそれで上手く遊ぶことができなかった。
「さ、変身して!」
カメラを構えた母さんに催促されて、俺はただ立ち尽くした。
腰に巻かれたピカピカ輝くプラスチックのベルト。ボタンを押すとパカッと開いて、そこへ付属のカードを挿入すると音楽が鳴り始める。そこでお決まりのポーズを決めていざ変身! と、いう流れ。
それは分かっている。分かっていたけどできなかった。
照れくさい、とは違ったと思う。
そもそもそのテレビシリーズを見ていなかったんだから母さんの催促もむちゃだったんだけど、その当時の俺は、ヒーロー適齢期でありながらヒーローに変身したいと心から思っていなかった。
あれが全て作りものだと言い切れるほど俺は早熟じゃなかったけど、自身の腰に巻かれている物が変身する気分を味わうものだと分かっていた。
ごっこ遊びには興が乗らない子どもだった。
カメラを構えた母さんも父さんも、動けないでいる俺を笑った。普段から興味が無いのを知っているからだろう。せっかく贈ってくれたから写真の一枚でもと持たせてみたけれど、案の定だと笑って、「いいよ、変身しなくて」と、解放した。
ベルトから抜け出した俺はホッとして、それでも贈ってくれたおじいちゃんにお礼を言わなくちゃいけないのは理解していた。
考えた結果、そのおもちゃの絵を描いて、ありがとうと書き添えて郵送した。
申し訳なさからとても丁寧に仕上がったその絵を見たおじいちゃんは、俺がたいそう喜んだんだと勘違いして、別のアイテムも送ろうとしていたらしいけれど、母さんがなんとか誤魔化してサッカーボールに替えてもらったそうだ。
その結果、俺はサッカーに何年も夢中になったから、母さんはいいアシストをした。
七年続けたサッカーは中三の今年の夏を前に辞めてしまったけど、未だに早朝のランニングの時間になると自然と目が覚めてしまう。
今朝も同じように目が覚めて、鳴る前にアラームを止めた。
仕方なく勉強をして時間を潰し、朝食を食べた後、春のような陽気もあって、つい馴染みの公園に足を運んでしまい、今だ。
ちらほらと遊歩道を人が行く。走る人、歩く人。年配の男性が多い。
ランニングくらいは続けたらいいのかもしれない。でもそんな俺を見かけたら、サッカーに未練があるように思うかもしれない。
またカササギが鳴いて、声を頼りに姿を探していると、向こうの入り口から幼い子どもを連れた若い父親がやってきた。
まだ歩き始めたばかりという動きの女の子は、気の早い白いダウンコートを着せられて、手も降らずにぐんぐんと前のめりに進んでくる。その後ろを小さな水筒を肩にかけた父親が、不安そうに何度も手を伸ばしながら後を追っている。
近付いてくると、その男の人の正体が分かった。
あれは近所の山崎さんの息子だ。
俺はつい目を皿のようにして見てしまった。
あまりにも意外だったからだ。
山崎さんの息子は学生時代、相当な問題児だった。
近隣住民が『山崎の奥さん』と呼ぶやよいちゃんは、うちの母さんと仲良が良く、度々ウチに来ては息子の話を母さんに聞かせていた。
二人は幼い俺には理解できないと思って、会話中も俺の存在を気にしていなかったけど、理解はできなくとも記憶には残っていて、年を重ねるにつれ理解も追いついた。
彼は悪童と言ってよかった。
年の差が大きくて、彼から良くない影響を受けることはなかったけど、一度、警察が山崎さんの家に来たことがあって、一人寝を始めたばかりの俺の部屋にパトカーの赤い光がチラチラと届いて、とても恐ろしい気持ちになったのを覚えている。
それまで息子さんには何度か構ってもらったことはあったけど、当時小学校低学年だった俺は、この先息子さんには絶対に近付かないと心に決めた。
あまりにも多い一人息子の問題行動に、やよいちゃんは時々うちでお酒を煽っていたほどだったけど、高校をなんとか卒業し、就職して家を出たという話を聞いてから、息子さんの話は断片的になっていって、やよいちゃんがうちでやけ酒を飲むことは無くなった。
結婚して孫も生まれたと聞いてはいたけど、こうして実際に目にすると妙な感動がある。どこに居ても違和感のない、ただの若い父親だ。
感慨深いとはこういう感情だろうか。
俺が過去を思い返しているうちに、親子は芝生の敷かれた丘の上に登頂を果たしていた。
かつて思春期と言う名の下にあらゆる悪行で大人たちを困らせていた彼が、キャッキャッと笑う女の子に優しい眼差しを向けている。
すっかり落ち着いたんだなあ。
俺には何も不都合は無いはずなのに、つい今度はあの女の子が父親を悩ませてくれるといいなと、ちょっと性格の悪い事を思ってしまった。
俺もいつかあんな風にして公園に戻ってくる日が来るんだろうか。そう考えて、胸がぎゅうっとなった。
「祐!」
始まりかけた憂鬱を覚えのある声が打ち消した。
「おー」
突然現れた親友に気の抜けた返事をしたが、さっきぎゅうっと縮んだ胸はそのままだ。
砂地を蹴って駆け寄ってきた孝一は、走ってきた勢いのまま窮屈そうに隣のブランコに収まって、「おはよう!」と変わりない笑顔をくれた。
クラブ用の赤いジャージを着て、いつも通り短髪がきちんとセットされている。
「おはよう、練習?」
俺の問いに肯定的な音を漏らして、孝一の視線が公園の時計を見上げた。
「十一時からウチで練習試合。十時集合だから、もう少ししたら出るよ。換気に窓開けたら祐が見えたからさ、ダッシュしてきた」
そう言って孝一は白い歯を光らせて笑った。
後ろに向けられた親指の先には、公園に隣接した孝一の家がある。もちろんそれは知っていた。ほんの少し、こうして会えることも期待していたから、湧き上がった感情に動揺して、まぬけな声を発してしまった。
「試合か」
「うん」
どことやるのか、とは聞かなかった。
夏の大会が終わると、三年生の殆どは受験に向けて引退する。けど高校でも真剣にサッカーを続けるつもりのやつは、親が許せば孝一のように残る。
ほんの数か月前まで一緒にサッカーをしていた親友は、変わらず日に焼けて逞しかった。
少しだけ早鳴る心臓のそばがチクリと痛い。
孝一から目を逸らすために山崎さんの息子を探したが見当たらない。丘の向こう側に下りたのかな。
「どがずばどーん!」
男の子が発した炸裂音にハッとして、何か言わなくちゃと気がはやった。
「最近クラスはどう?」
「クラス? 静かだよ。みんな受験生って感じで頑張ってる」
まるで自分は違うみたいな口ぶりに、お前も受験生だろと思ったけど、孝一の成績を知っているから言う必要はなかった。
「そっか、どのクラスも同じだよな」
意味のない質問をしてしまったと焦った俺は、迷って真逆の話題を振ってしまった。
「親は?」
あ、と思ったがもう遅い。
孝一はちょっと眉を上げて、「変わらない、相変わらずだよ」と頭を揺らした。
「そっか」
失敗した、せめて真結ちゃんのことを聞けばよかった。
後悔から背筋が丸まる。
孝一を見ずに、その向こうにある大きな家に目を向けた。
立派な門扉。建物は濃いグレーのタイル張りで、差し色の白が映える外壁。電動シャッターの付いたガレージと、計画的に植えられた庭木が、柵の向こうでまだ青々としている。
並ぶ窓の全てがどの部屋なのか分かる。何度も入ったあの家に、今も孝一と、両親と、妹の真結ちゃんが住んでいる。そのはずなのに、なんだか現実味が無かった。
孝一の広い部屋はあの日と変わらないだろうか、そんな風に考えはするのに、もう一度行って確かめたいとは思わない。
「祐、本当に高校でサッカーやらないのか?」
「え?」
あ、目を合わせてしまった。
眉間に痛みが走って、さっきチクリときた胸がざわざわと鳴り始めた。
黙る俺に、孝一はゆっくりと首を傾げながら、それでも変わらない真っ直ぐな眼差しを向けてくる。俺はその視線から逃れ、男の子たちに目を向けた。
ヒーローたちは座り込んで別の遊びを始めていた。人形は地に捨て置かれていた。
「やらないよ」
俺の返事に孝一は黙ってしまって、この沈黙をどうしようかと考えていると、横からふうっと息が吐かれた。
「言いたくないんだなと思って深くは聞かなかったけど、正直に言うと俺も知りたいとは思ってたんだ」
ああ、結局孝一にも聞かれてしまうのか。
頭を抱えたくなるのを堪えて、手をお腹の前で組んだ。
「これっていう理由があるわけじゃないよ、ただもういいなって思ったんだ」
こんな曖昧な理由しか言えないから誰もスッキリできないんだろう。分かっているけど、俺にはこれが精いっぱいだった。初めに絞り出したこの回答を俺は一生言い続けるしかない。納得してくれたのは、両親と担任の中屋先生だけだ。
「もったいないって色んな人が言ってる。説得しろって未だにつつかれるよ」
孝一は笑って太腿を掻いた。そして目線が俺の足元に落ちたのが分かった。瞬間、居心地が悪くなった。
「迷惑かけてごめん、でももう鈍ってるよ」
適当に履いてきたつぶれかけのランニングシューズ。
未練があるように取られたかと思って、視線から逃れるように動かした。
履き口も擦り切れて、今日履いたら捨てようと思ったのに。履かずに捨てればよかった。
「チームのみんなは元気?」
また意味のない質問だ。居た堪れない気持ちがブランコを揺らす。
「うん、変わらずかな」
「そっか」
ブランコの座面を背中まで持ち上げると、地面を蹴ってブランコに飛び乗った。ジッとしているのは限界だった。
耳に付く音を立てるブランコを二度、三度と大きく漕いで、それからは惰性に揺られた。首を抜ける風が涼しい。
「孝一はさ、サッカーが好きだろ?」
「まあ、好きだけど」
「俺はそうでもなかっただけだよ」
耳元で風が鳴っている。孝一の唇から零れた好きという言葉が、俺の胸を意図無く裂いた。
「でも、急に居なくなったからさ」
裂けた胸が完全に千切れそうになる。
「居なくはなってないだろ」
もう一度脚を振って、大きく漕ぐ。
「サッカーを辞めただけだって」
勢いが落ちないように脚を振る。空を見て、地面を見る。振り子のようになって、時が早く過ぎるのを願った。
「俺が何かしたのかって思ったけど、お前はみんなから離れたよな」
視界の端でカササギが飛んだ。揺れる俺を孝一が目で追っているのが分かった。
ずっと孝一は俺にわけを追求しなかった。そのまま聞かれずにいたかった。
「サッカーを辞めただけだって」
「みんな寂しかったんだよ、理由が分からなかったから。俺も」
もう返事をしなかった。
理由は言わない。言いたくないんだ。謝罪はもうたくさんしたからいいだろう。
クラブに行く時間が来て、孝一は帰っていった。
いつの間にかひと気の無くなった公園で、俺はまた小さくブランコに揺られた。
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