アイリスが咲く空
鈴木茉莉
第1話 オレンジジュースとサンドイッチ
閑静な住宅街に元気な子供の声が響き渡る。小さな公園のすぐそばに、
その中で参考書とノートを開き、もうすでに溶けた氷で薄くなったオレンジジュースをちびちびと飲みながら勉強する男子高校生がいた。陽太はその真剣な顔でノートとにらめっこする姿を見て、笑みがこぼれる。彼の勉強する姿を見守ることが陽太にとって最近の楽しみになっていた。心の中でひっそりとエールを送り、陽が傾いた頃にはたまにサンドイッチを自腹でサービスをしている。
そっとサンドイッチをテーブルに置くと彼は小さく会釈をして「あざっす」と小声で言う。陽太は微笑みかけて彼がいるテーブルを離れてから、にやける口元を抑えた。彼は陽太にとって推しのような存在だ。一生懸命な姿は自分のことのように応援したくなるし、疲れた様子を見ると心配で気になってしまう。
「最近流行りの推し活ってやつでしょ?グッズとか集めるやつ。」
彼のことを知っている店長にそう言われたことがある。確かにはたから見たら推し活だろうけど、成人男性が高校生相手に推し活なんて気持ち悪いだろうし、迷惑をかけるつもりもない。
そのスタンスを崩されたのは、もう桜も散って新緑が陽の光を青く反射する晴れの日のことだった。いつも勉強道具を広げている彼が、その日はスケッチブックを広げて一生懸命に何かを描いている。勉強している時とは違う、ピリッとした緊張感が彼の周りを纏っていた。それほど彼の集中しきった視線が、スケッチブックに向けられていた。
ひと段落付いたのか、ふーっと息を漏らして首を回したタイミングで、陽太は彼にオレンジジュースをそっと差し入れした。すると普段は目を伏せたまま会釈する彼の視線が陽太に向けられて、初めて彼と目が合った。
サラサラの黒髪の、少し伸びた前髪の間から切れ長の目が見える。ずっと遠くから見ていたから気づかなかったが、まつげが長くてまだまだ年相応の幼さが残っていて、でもクールな顔立ちをしている。真っ黒だと思っていた瞳は光が入ると薄茶色になっていて、ビー玉のようにキラキラと反射しているようにも見えた。
「きれい。」
思ったことがそのまま口から出て、陽太は誤魔化すために「絵が、綺麗だなって。」と付け足した。といってもそれを言った後に初めてスケッチブックを見たので、陽太は二度驚いたことになる。そこには店長の横顔が描かれていた。うちの店長は誰もが認める美丈夫で、その凛々しい横顔がスケッチブックにそっくりそのまま描かれたいた。
「すごい、絵が上手なんだね。店長きっと喜ぶよ。」
陽太が褒めているにも関わらず、彼は複雑そうな表情を見せた後で「やめてください」と呟いた。陽太もさすがに自分の行き過ぎた行動に恥ずかしくなって謝ろうとした時、彼が足元のカバンを掴んで立ち上がった。
「こんな絵、早くやめなきゃいけないんです。だからそんなこと言わないでください。」
陽太が止める間もなく、彼は店の外にずんずんと足早に出て行ってしまった。振り返るとテーブルにスケッチブックが置いたままだった。陽太はそれをもって急いで店を飛び出したが、もう彼の姿はなかった。店長が「なんだなんだ」と言いながら陽太に続いて店の外に出て、スケッチブックを見て驚いていた。
「え!俺じゃん。すげぇ上手い!」
「これ、忘れ物で……。」
「あ、いつもの高校生の子?んーまた来るでしょ。バックヤードに置いておこう。」
スケッチブックを閉じて表紙を見ると、マジックで大きく「
店長の言う通りまたすぐに来るかもしれない、だけど陽太は、このスケッチブックが店にある限り、秋人は来ない気がしていた。店を出て行く直前の秋人の目と声は、あまりに冷たかった。あんなに真剣に描いていた絵を、ごみを見るような視線で見下していた。その視線が、陽太の心までも冷やすほど冷徹で、まるで絵を描くこと自体を嫌っているようにも見えた。
秋人がスケッチブックを忘れた日からちょうど一週間が経った。秋人は一度もカフェに来ていない。仕事に集中はしているものの、陽太はあの日の秋人の顔や声を忘れることができなかった。
「いらっしゃ――ゲ。」
カランと来客を知らせるバンブーチャイムの音を聞いて、陽太が店の入口に視線を向けるとそこには背の高い男が立っていた。トレンドをおさえたファッションに、ナチュラルにセットされた髪型と整った顔。いかにもモテる男の特徴をすべて揃えた男が、陽太の態度に不満を言う。
「ゲってなんだよ、こっち客だぞ。」
「はいはい。何飲むの。」
「ねぇ久我くん~陽ちゃんが冷たぁい~。」
久我というのは店長の苗字で、店長を本名で呼ぶのはこの男だけだ。もちろん、陽太を陽ちゃんと呼ぶのも同じくこの男だけである。
「しゅん、金落とさないなら帰りな~。」
そしてしゅんと呼ばれ、陽太からも店長からも悪態をつかれている男は
「半年も続いたのになぁ。なんで振られたんだろう俺。」
「どうせまた勘違いされるようなことしたんじゃないの?」
俊亮は楽観的でいつも肩の力が抜けたような人間だ。優しいのは取り柄だが、本当に分け隔てなく優しいのが逆にトラブルの原因になっている。本人は自覚しつつも、簡単に態度を変えることはやっぱりできないようだ。優しいは長所だし、好みのタイプに多くあげられる性格でもあるから、難しいのも頷ける。しかしもう少しやりようはあるだろうと店長も陽太も呆れていた。
俊亮がだらだらと愚痴を吐いているところにまたバンブーチャイムが鳴った。いらっしゃいませ、と顔を上げた瞬間に陽太は一瞬固まった。見覚えのある制服が店の入口に立っている。秋人が来たのかと思ったが、同じ高校なだけで秋人ではなかった。
「いらっしゃいませ。店内でお召し上がりですか?」
カフェに来ること自体慣れていないのか、あちこちキョロキョロした後にさわやかな笑顔で頷いて、その学生はアイスティーを注文した。生憎テーブル席はすべて埋まってしまったので、可哀そうだが俊亮の隣に学生を案内した。
陽太たちがまともに話を聞いてないせいか、俊亮はその学生に話しかけた。俊亮からのマシンガントークや質問攻めに笑顔で答えていく学生の名前は
「秋人がスケッチブック忘れたから代わりに捨てとけって頼まれちゃって。」
「捨てる……?」
秋人がわざわざ友達に頼むということは、もう来る気がないということだと陽太にはわかった。寂しくなるけれど来るも来ないもお客の自由だからそれは問題ない。それよりも陽太が気になったのは、スケッチブックを秋人が捨てようとしていることだった。
バックヤードからスケッチブックを持ってくると、弘佑は「あー!それです!」と安心したように笑った。さすがに中身は見ていないが、表紙の端が丸まって所々デザインが白く剥げている。かなり使い込んでいることがわかるこのスケッチブックを、捨ててしまうのはいかがなものかと陽太は思ってしまった。そしてまたあの冷たい視線が、声が、思い浮かんでくる。
「結構大切にしてそうだけど、それ捨てちゃうの?」
俊亮が陽太の聞きたかったことを代わりに訪ねて首を傾げた。弘佑はスケッチブックを受け取ると、表紙を撫でながら答えた。
「そんなことしませんよ。あいつ、毎日学校でこれ睨んでましたから。最近はぱったり見なくなったけど、まだ描いてたんですね。」
よかった、と言って笑う弘佑を見てなんていい子なんだろうと陽太は感心した。しかし、俊亮は弘佑を疑惑の目で見つめる。
「それ、本当に思ってる?」
「え?」
俊亮の質問に弘佑は意味がわからないというふうに聞き返す。俊亮は疑いの目を向けたまま話し始めた。
「なんか、いい子過ぎて怖い。ずっとニコニコしてるし、自分で言うのもアレだけど俺みたいなのに急に絡まれたら普通引いたりするんだよ。」
「それは、俊亮さんいい人ですし。話しかけてくれるの嬉しいですよ。」
だいぶ失礼なことを言われたのにも関わらず、弘佑は笑顔を崩さず親切に答えている。陽太が注意しようとしても俊亮は止まる気配がない。
「うーん、別に怖かったり嫌だったら言っちゃっていいんだよ?ほら、俺みたいなのって親切に対応されたら勘違いしてすぐ調子乗るし。陽ちゃんたちもそれに気づいて俺に気遣わなくなったし。」
「ちょっと、しゅん。」
「なんか、弘佑くんの考えてること読めなさ過ぎて――生きづらくないの?」
弘佑の顔がだんだんと引き攣っていって、ついには笑顔がなくなった。陽太があたふたしていると弘佑は鋭い視線で俊亮を睨んだ。
「てめぇには関係ねえだろ。」
そのままカバンを抱えて、弘佑は店から走り去っていった。カウンターを見るとまたスケッチブックが忘れられていることに気付いて、陽太は頭を抱えた。そして独断で俊亮にしばらくの出入り禁止を言い渡した。
日が暮れてすっかり暗くなり、閉店の時間になった。予報通りの土砂降りで、雨粒がガラスに当たる音が聞こえる。締め作業をしながら、陽太は店長に何度も頭を下げていた。ただのアルバイトが常連客に出禁を言い渡してしまったことは決して許されることじゃない。「いいのに」と笑う店長に陽太は謝罪の言葉を伝え続ける。
「いや、本当にナイスジャッジだよ。たとえ常連で仲が良かったとしても、他のお客様を不快にしていいわけないからね。俺でも陽太と同じようにすると思うよ。」
店長の優しさが沁みて陽太は涙目になりながら最後に頭を下げた。店長は先にレジ締めなどを終わらせていたので、陽太は鍵を預かって残った掃除を終わらせることにした。
一通り掃除も終わって、バックヤードでエプロンを脱いだ。またここに預かられる事になってしまったスケッチブックを見て、陽太は溜息をついた。荷物をまとめて店のドアを開けた時、傘もささずにトボトボ歩いている人影が見えた。その姿を凝視した後、陽太は慌ててその人を追いかけて腕を掴んだ。
「秋人くん!?」
陽太が名前を呼ぶと歩くのをやめて、秋人がゆっくりと振り返った。とりあえずこのままだと風邪をひくと判断して、秋人の腕を引いてカフェに戻った。カウンター席に座らせて、あるだけのタオルを秋人に渡す。そしてやかんでお湯を沸かし始めた。
渡されたタオルを頭にかけたまま、秋人は髪を拭くこともなく俯いて動かない。インスタントココアが注がれたカップをカウンターテーブルに置いて、秋人の隣に恐る恐る座った。そしてゆっくりと手を伸ばして秋人の髪を拭いていく。秋人はされるがままで、二人の間に会話はない。勝手に拭いてよかったのだろうかと内心ビクビクしていたが風邪をひく方がもっと大変だから、陽太は髪を拭く手を止めなかった。
「……。」
「…………。」
沈黙が続く中で、雨の音だけがひっきりなしに聞こえる。雨音以外すべてなくなったような静寂が、変に陽太の気持ちを落ち着けた。ある程度水気を拭き取ったころで陽太はスケッチブックの存在を思い出して、バックヤードからそれをもってきた。秋人に差し出すと秋人はそれをちらりと見て、下唇を思いきり噛んだ。
次の瞬間、突然立ち上がった秋人がふらりと倒れ込むように陽太に抱き着いた。突然のことに驚きながらも陽太は秋人を支えようと体に力を入れる。しかし思ったより重みを感じず不思議に思って秋人を見ようとした時、耳元で鼻をすする音が聞こえた。
「えっ、ちょっと、秋人くん?」
声を押し殺して泣くだけで、秋人は何も言ってくれない。むしろさらに抱きしめている腕の力が強くなっていって、少し痛苦しいくらいだった。なんでこんな雨の中一人で歩いていたんだろう。なにか嫌なことがあったのかもしれないし、いつも頑張っているから限界が来てしまったのかもしれない。
秋人の背中に手を回して、陽太は祈るように抱きしめ返した。どうかあなたの苦しみが早く消えますように、どうか早くあなたが泣かなくても済むような日々が戻りますように。心の底からそう願っているせいか陽太も抱きしめる力が無意識に強くなった。
どれくらいそうしていたのかわからないが、いつの間にか耳元で聞こえていた静かな泣き声が落ち着いた。それに気付いた陽太が少し体を離すと、すすりすぎて真っ赤になった鼻と恥ずかしそうに逸らす涙目が見えた。陽太は噴き出して秋人の真っ赤な鼻を軽くつまんだ。
「うははっ、かなり泣いたねぇ。」
「……すいません。」
「ふふっ、謝んなくていいよ。ココア、まだ冷めてなかったら飲んで。」
色々聞きたいことは沢山あったが、今は聞かないことにした。ココアを飲む秋人を見てなぜだか大丈夫なような気がしたからだ。
︎ ︎ ︎ココアを飲み終えてすぐにそのまま出て行こうとする秋人を必死に引き留めて、弘佑は念のためいつも持っていた折り畳み傘を渡した。何度も断られたが「スケッチブック濡らしたらダメでしょ」と押し付けたら、なんとか受け取ってくれた。本当は駅まで送り届けたかったが、雨で濡れた店内をまた軽く掃除すると遅くなってしまうから、店前で見送ることにした。見えなくなるまで帰っていく背中を見守った後、陽太は再びモップを取り出した。その時、勢いよく店のドアが開いて、秋人が入ってきた。
「あれ、忘れも――んぅ、」
秋人は勢いよく陽太に近づいたと思えばそのままキスをした。目を丸くする陽太が状況を飲み込む前に、秋人は唇を離してまた勢いよく店の外に飛び出していった。
「えっ……?」
ぽつんと取り残された陽太は、少しして力なくしゃがんだ。さっきまで五月蠅かったはずの雨音が、いつの間にか静かになっていた。
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