第44話 たとえ空に雲がなくとも
夢を見た。
鮮烈な黒の記憶、神の如き男の夢だ。
そこは戦場だった。
開けた平野に、馬に乗った兵や、槍やら弓やらを構える兵が一方向を見つめている。
彼らは、そこから進むことができずに立ち尽くしているように見えた。
それは彼らの目の前に沸き立つ「黒色」が原因だった。
河の流れのように動き続けるそれは、ときに蛇のように戦士に絡みつき、ときに獣爪のように引き裂いた。
騎馬兵もほとんどがその結晶の前では機能せず、無理やり突破を試みた者も結局、その本流に飲まれて遠くに押し出されてしまう。
それは正に「生きた天災」と表するのがふさわしい
―――……立ち止まるな、進めェ!
どこかで男の声が果敢に怯える彼らに呼びかけるが、その声が届いているかどうかは定かではない。
当然だ。
喧騒でそもそも声も届いていないのもそうだがそれ以上に、誰が人の手で土砂崩れを止められると考えるだろうか。
いるとすれば、それは
そしてその両方が、彼らの中には居なかった。
黒き
絶望を顕現させたかのような異様な光景だ。
だが、そんな地獄が拡がっているにもかかわらず、その戦場には赤い色が異様に少なかった。
その「黒き神の化身」は人を傷つけることを良しとしなかったのだ。
慈悲にも似たそれは、その災厄の持つ
だが、それが彼らにとっても
**
メナは昨日の目覚めとは違い、比較的穏やかに目を覚ました。
とは言え、昨日の夜更けまで調べ物をしていたせいか眠りが浅く、肩周りが凝って痛んだ。
メナは寝台の上で身体を起こし、ボヤけた視界を追いやるために何度か瞬きをする。
その視界の隅にロウソクが溶け切った
(―――……今日は)
メナは立ち上がって伸びをして身体を解し、半ば寝ぼけたまま、顔を流すために部屋を出る。
しかしその時、階下から話し声が聞こえたことでメナの意識は急速に覚醒する。
「―――……おはようございます」
居間にでて挨拶すると、それまで話していた二人はメナを見て、ぎこちない笑みを浮かべた。
「―――……ああ、おはよう」
何かあったなと感じつつも、メナは気づかぬふりをして外へ出た。
(正面から挑むのは無謀でしょうね……)
外の井戸の桶から水をすくい、メナはひとまず顔を流した。
(―――……ひとまず、日誌の件を聞いてみましょう)
メナは切れ端で顔を拭い、居間に戻った。
こちらを伺う二人の視線を感じるも気づかぬふりをして、メナはビレトに話を振った。
「―――……あの、村長さん。訊きたいことがあるのですが」
さっきまで何を話していたのかを訊くのは、この後でいい。
それに、彼女にはなんとなく、二つは繋がっているという予感があった。
「―――……スルケ夫妻がこの村に来る前についてなのですが、彼らがどこから来たのかについてご存知ではありませんか?」
「ん。ああ、どうだったかな……」
ビレトは拍子を抜かれたように一瞬言葉に詰まったようだった。
「わたしの推測だと、二人は『
メナが言うと、彼は一瞬驚いたように目を見開いた。
「―――……確証はねぇが、昔家を訪ねた時に特徴的な織物があったんで、その由来を聞いた記憶がある、それは『イカコ』由来だった」
ビレトに確証がないことは嘘ではないだろう。
ということは、「隠し事」はそれに関することではない。
「では、
メナがその名を口にした時、ビレトは目元をぴくりと動かす程度だったが、代わりにビレトの奥方、ジーナが息を飲む声が聞こえた。
「―――……おい」
「だって、あなた……」
メナは思わぬ収穫に目をしばたき、彼らのやりとりを静かに眺めた。
(―――……
「―――……いや、済まない。俺たちの
あからさまに誤魔化す彼の顔は、メナを疎ましく思っているというよりも、逆に彼女の事を心配しているかのようで、笑みと焦りの間を行き来して、申し訳なさそうに歪んでいた。
だが、メナは引き下がることは考えなかった。
仮にそれが自分のためだったとしても、
「―――……嘘ですね」
「そんなことは……」
「ヒエラーゾは、スルケ夫妻との関係性がある、おそらくは
メナが苦笑交じりに言うと、ビレトは「はぁ」と大きくため息を吐いた。
「わたしのために何かを隠そうとしているのはわかります。ですが、話してくださいませんか?」
もう一押しだと感じ、メナは正面からビレトに切り込む。
そしてその結果、先に折れたのはジーナの方だった。
「あなた、彼女に隠し事をしても無駄みたいよ?」
ビレトはそれを聞いて尚もまだ渋面で、納得いかない様子であったが、ジーナが話すのを止めることはなかった。
「―――……実は、手紙が届いたのよ」
「手紙?」
ジーナがメナに差し出したのは、書き殴られたような羊皮紙の手紙だった。
(こんなに雑に扱うなんて……)
書いた者が余程粗雑なのだろう、メナはボロボロの羊皮紙を拡げ、眉をひそめつつその内容に目を通す。
そしてその内容を読むに連れ、そこに書かれた内容に不快感が湧き上がった。
「―――……外道が」
思わずポツリと呟いて、メナはビレトとジーナに視線を振る。
「カイル君は
二人が頷くのを見て、メナはそれが単なる狂言ではないのだと実感する。
少年は
(あの時、わたしがすぐに追いかけていればこんなことには……)
メナはギリと奥歯を噛み締め、手紙に再び視線を落とす。
メナは、その末尾に誇るように書かれた「ヒエラーゾ」の文字を睨んだ。
「―――……助けに行きます」
ビレトはそのメナの言葉にすぐさま反対した。
「待て、姫様。あんたはこんな小村のために命を差し出していい
「ビレトさん、わたしは姫ではありません、
ビレトはぐっと言葉に詰まるが、自分を落ち着かせるように息を吐き出して、ゆっくりとメナを
「それはそうだ、そうだがな。このヒエラーゾとやらの狙いは
メナはそれを聞いて共感する自分がいることに気づき、それを振り払うように頭を小さく振った。
「わたしの命で村の被害が避けられるのなら、そうするべきでは?」
そうまでしてメナを突き動かすのは、自分がどうにかしなければならないという義務感だった。
その苛烈なまでの焦燥は、いまだあの夢に見た炎のようにメナの身を焦がしている。
しかしビレトはメナに、ゆっくりと首を振ってみせた。
「命の価値を語るなら、あんたは自分の命の価値を理解するところから初めなければならねぇな。あんたが言っていることは、準備もなしに河に飛び込むようなもんだ。―――……要は自殺さ、ただのな」
「そんなことは―――……」
「あるだろうよ。何せ、あんたは生き長らえた姫だ。何があったかは知らねぇが、あんたが死に場所を求めていることは嫌でも分かる、
ビレトの鋭い眼光に射抜かれ、メナは何も言えなくなった。
図星、そう思ったのだ。
ビレトはメナが黙り込んだのを見ると、優しい口調で宥めるように言葉を紡ぐ。
「いいか、老いぼれが
彼のメナを真っ向から否定する言葉は、かなり乱暴だった。
しかしメナには、どうしてもそれを否定することが出来ない。
なぜならメナは実際に心のどこかで、自分が誰かを助けることで、従者たちの犠牲に意味を与えようとしていたからだ。
思えば、少年の犯人探しを手伝う間もそうだった。
誰かの助けになるから自分はまだ生きているのだと、彼らの分まで生きているのだと、そう思わずには耐えられなかったのだ。
「―――……」
メナが考え込むと、ビレトは彼女の肩に手を置き、ジーナの方へ引き寄せようとする。
「だからな、俺はあんたが犠牲なることは認めない。仮に強行しようものなら、それは縛ってでも止めさせてもらうぞ」
ビレトの言葉を聞き、メナは彼の優しさと厳しさを同時に感じた。
彼は決して許さないつもりなのだ。
苛烈な炎が生んだ、甘い絶望の
彼は、あるいは全てを吹き飛ばすつむじ風だったのだろうか。
そう思った時、吹かれた灰燼の内が見えるように、胸中に一つ残っているものがメナには見えた。
それはあの日、村長に少年を手伝うように頼まれた時に感じた枷に封じられていたもの。
彼女にとっての
「―――……それなら、見つけます」
ビレトの身体がピタリと止まり、メナを見下ろした。
「何をだ?」
「わたしが犠牲になることなく、彼を救い出す術を」
そしてその宣言とほとんど同時に、部屋の片隅が陽炎のように揺らいだ。
驚き固まる三人をよそに、その揺らぎは彼らを飲み込むかの如き勢いで、急激に大きくなっていったのである。
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